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第155話「シーン2」

    真稀は目を開けた。柱時計は2時15分を指していた。
    「…また、ここから」
    昨日もその前も、その前の日も、世界は必ずこの時間に戻る。
    6月22日、2時15分。反復する日付。止まった世界。

    真稀は深呼吸し、版画の構想メモを書こうとタイプライターに向かった。
    ウィンド渦53は今日も渦を増やし、画面には「渦54」と表示されている。
    「また増えてる…。渦が増えるほど性能が落ちるって、どういう逆進化よ」
    試しにキーを叩く。
    【月の影は──】
    と書いたつもりが、
    【影は──】
    だけが残った。
    「“月の”が消えてるじゃない!」
    渦54は、真稀の創作意欲を削ぐために存在しているとしか思えない。

    その時、電話が鳴った。
    「もしもし、逸見傭兵です」
    真稀は受話器を握りしめた。
    「逸見さん……今日の日付は?」
    「こっちは12月22日だよ。そっちは……まだ6月22日ですか?」
    「ええ。冷凍保存されてる気分よ」
    「いや、冷凍ならもっとカチコチでしょ」
    真稀は思わず笑った。この世界で笑える瞬間は、逸見の声がある時だけだった。
    「真稀さん、作品のことなんだけど」
    「作品……」
    「本の装丁に使いたいんだ。あなたの版画を待ってる人がいる。
    僕も……楽しみにしてる」

    その言葉は真稀の胸の奥に、じんわりと温かく広がった。その時だった。
    「やっほー! どらエムんだよー!」
    玄関が勝手に開き、赤いスポーツカーのキーを振り回しながら、小柄で太っちょの猫人間が飛び込んできた。
    「ちょっと! 勝手に入らないで!」
    「いいじゃん。お姉ちゃんの脳内世界だし。僕、入場無料だよ」
    「あ、土足で上がらないで!」
    「これは靴じゃなくて裸足だよ。はーだーし。靴の恰好してるけどね」

    受話器の向こうで逸見が叫ぶ。
    「真稀さん! そいつと話しちゃダメだ!」
    「え、どうして」
    「危険だ!」
    「ひどーい。僕、ゆるキャラだよー?」
    どらエムんは、にこにこしながら冷蔵庫を開け、真稀のプリンを勝手に食べ始めた。
    「んー、おいし〜。あ、安心してね。君の脳内世界だから、食べても減らないよ。ほら」
    「減ってるじゃない!」

    どらエムんはニコニコしながら、ポケットから金色の砂時計を取り出した。
    「まあ落ち着いて。お姉ちゃん、これあげる。締め切りが見えると集中できるよ」
    「締め切り…?」
    どらエムんが砂時計をひっくり返すと世界が揺れ、柱時計が12時14分へ動いた。
    「え、逆行してるじゃない!」
    「締め切りが近づくと焦るでしょ?だから時間が戻るんだよ」

    逸見が真剣な声で言う。
    「真稀さん、落ち着いて。その砂時計は危険です」
    真稀は砂時計を奪い取り、窓の外に放り投げた。

    翌日――否、同じ日付の翌ターン。真稀が目を開けると、また2時15分。

    どらエムんは、虹色に光る眼鏡を持って来た。そう。この世界は白黒で、何故かどらエムんの所持品だけが色彩を放つのであった。
    「お姉ちゃん、これで色彩センスが爆上がりだよ!」
    「ナイスアイテムだわ。嫌な予感しかしない」
    眼鏡をかけた瞬間、世界が虹色に染まった。構想メモを書こうとすると、
    【赤 → 虹】
    【青 → 虹】
    【黒 → 虹】
    全部“虹”に変換される。
    「虹の呪いよこれ!」
    「七色って便利だよね。どれ選んでも虹だよ」

    逸見が電話越しに言う。
    「真稀さん……その眼鏡は外したほうが」
    「外す外す!」
    真稀は眼鏡を投げ捨てた。

    そして再び翌日。同じ日付、同じ時刻の2時15分。

    どらエムんは、巨大なイヤーマフを持ってきた。
    「お姉ちゃん、はいこれ。静寂イヤーマフ。これで集中力100倍だよ」
    「ほんとに?」
    装着した瞬間──
    何やらどらエムんが囁いているようだが、反響してよく聞き取れない。耳を凝らして聴いてみると
    「がんばれ〜れ〜れ〜!」
    「やる気〜き〜き〜!」
    「集中〜ちゅ〜ちゅ〜!」

    「気になって集中できない!」

    逸見が電話越しに笑いをこらえながら言う。
    「真稀さん……そのイヤーマフは外したほうが」
    「外すわよ!」
    真稀はイヤーマフを床に叩きつけた。
    「あ、僕のイヤーマフが…ぐすん」
    「ごめん、ごめん。私が悪かったわ」
    「お姉ちゃん、アイテム全部失敗しちゃったね。でもね、君のやる気は本物だよ」
    「あなたに言われたくないわ」

    逸見の声が、静かに重なる。

    「真稀さん、聞いてください。あなたの作品を待っている人がいます。
    あなたの版画は、誰かの力になるんです」
    「いいこと言うね。僕もプリン待ってるよ」
    「しばくぞ、こら」
    「真稀さん、あなたが作品を作り続ける限り、世界は必ず動きます」

    その言葉は、真稀の胸の奥に、確かな灯りをともした。
    真稀は深く息を吸った。

    「そうね。渦が増えても、世界が逆行しても、
    どらエムんが邪魔しても…私は、作る」

    どらエムんは手を叩いて喜んだ。
    「わーい!お姉ちゃん、やる気スイッチ入った!ほら、見て」
    柱時計が揺れ、2時15分から2時14分へと動いた。
    「また逆行してるじゃない!」
    「…あ、設定間違えちゃった。てへ」
    「てへ、じゃないわよ!」

    逸見が笑った。
    「また電話します。真稀さんの作品、楽しみにしています」

    真稀はタイプライターに向かい、構想メモを打ち始めた。
    「渦55でも60でも100でも……書いてやるわよ」
    【月の影は、紙の左側に──】
    と打ったつもりが、
    【影は、紙の左側に──】
    だけが残った。
    「……消えてもいい。私の中には残るから」

    世界は静かに、しかし確かに動き始めていた。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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