
第176話「CFOでお願いします3」
黒川からメッセージが届いたのは、火曜の昼だった。
「CFO の件で、一度お話しできますか」
田中は、その七文字を読んで、すぐにスマホを伏せた。
深呼吸を一回。
それから、もう一回。(落ち着け。今回は、ちゃんと考える)
Call For Offers。Chief Fun Officer。
田中の黒川略語被害は、気づけば3回になろうとしていた。
社員には「また確認してから返事します」と言い訳できるが、
自分の中では、もうそういう話ではなかった。田中は、椅子に座り直した。
今度こそ、先手を打つ。
(黒川さんは投資家だ。投資家がCFOと言うとき、文脈は財務か数字のはずだ。役職の Chief Financial Officer なら、自分への打診にしては唐突すぎる。
Call For Offers なら、前回の二の舞だ。さすがにそれはない……いや、あの人ならある)
となれば、残る可能性は—— Cash Flow from Operations。
営業キャッシュフロー。財務指標だ。
投資家なら日常的に使う略語で、文脈も自然だ。
田中は、確信した。
返信を打つ前に、慎重に、丁寧に、こう確認した。
「CFO とは、Cash Flow from Operations のことですよね」
数秒後、黒川から返事が来た。
「ええ、もちろん」
田中は、スマホを置いた。
(よし。今回は読んだ。先手を取った)
準備は、完璧だった。
営業キャッシュフローの現状分析、改善施策の優先順位、運転資本の最適化プラン、EBITDA との比較。数字で語れるものを全部揃えた。CFO が指標の話なら、指標で返す。それが田中の戦略だった。
鞄に資料を詰めながら、田中は思った。
(今回は負けない)
待ち合わせは、またあの料亭だった。
黒川は、いつも通りの穏やかな笑みで迎えた。
「わざわざありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
田中は、椅子に座った。今日は違う。数字の話なら、田中のホームだ。
黒川が、静かに切り出した。
「田中さんに、うちのCFO をお任せしたくて」
「承知しました」
田中は、資料を広げた。
「現状の数字を拝見できますか。営業キャッシュフローの直近三期分があれば、まず改善の優先順位を——」
黒川の表情が、わずかに止まった。
「……数字、ですか」
「CFO ですから」
「ええ、まあ」
黒川は、穏やかに頷いた。
話が、始まった。
「チームをまとめる自信は、ありますか」
田中の手が、一瞬止まった。
(チームをまとめる……? キャッシュフロー改善には、部門横断の協力が必要だ。そういう意味だろう)
「現場との連携は重要だと思います。数字を共通言語にすれば——」
「そうですね」
黒川は、また穏やかに頷いた。
「意思決定のスピード感は、どうですか」
(スピード感……?)
(資金繰りの判断は確かに早さが命だ。モニタリングの仕組みを作れば——)
「週次でのレビュー体制を設計すれば、意思決定は速くなります。指標の閾値を事前に——」
「なるほど」
黒川は、また頷いた。
「対外的な顔として、動いてもらえますか」
(対外的な顔……?)
田中の頭が、少しだけ警戒した。
(……投資家向けの説明、という意味か。CFO が対外的な IR 対応をすることは、実際にある)
「投資家への説明責任という観点でしょうか。数字の透明化と、説明の一貫性が——」
「ええ、まあ」
三度目の「ええ、まあ」だった。
田中は、その相槌が、やや遠い場所から聞こえるような気がしていた。
だが、確認はした。黒川も「ええ、もちろん」と言った。
Cash Flow from Operations の話だ。そのはずだ。
(大丈夫だ。今回は確認している)
会食が終わりに近づいたころ、黒川は湯呑みを置いた。
「では、正式に進めましょうか」
「ええ、ぜひ」
黒川は、満足そうに微笑んだ。
「Chief Financial Officer として、よろしくお願いします」
田中の箸が、止まった。
「……Chief Financial Officer」
「ええ」
「……財務最高責任者」
「そうです。うちにはずっと不在でしたから、田中さんのような方に来ていただけると、本当に助かります」
田中は、ゆっくりと箸を置いた。
(最初から、役職の話だった)
頭の中で、今日の会話が巻き戻る。
「チームをまとめる自信は」——役員として、という意味だったのか。
「意思決定のスピード感は」——CFOとして現場を動かせるか、という意味だったのか。
「対外的な顔として」——そのままの意味だったのか。
田中は、慎重に言った。
「……確認なんですが」
「はい」
「CFO を Cash Flow from Operations だと確認しましたよね、私」
「ええ」
黒川は、静かに頷いた。
「キャッシュフローを見ていただけるんですよね? CFO ですから」
田中は、天を仰いだ。
(そうか。「ええ、もちろん」は、略語が正しいかどうかへの返事ではなく、業務内容への同意だったのか)
嘘はついていない。
相手は最初から、数字ではなく人間の話をしていたのだ。
田中は勝手に絞り込んで、独り相撲をとっていたことを悟り深呼吸した。「……承知しました」
田中は、静かに言った。
「CFO として、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
黒川は、嬉しそうに微笑んだ。
「牛の世話も頼みましたよ」
「へ?」
「え、ご存じないんですか?うちの本業は農場経営でして」
田中は、なんとなく嫌な予感がした。
「CFO といっても、土地買付けの資金管理や現場視察が主な業務になりますけど」
「そうですか…」
「それで視察に行くと、家畜の世話を手伝わされるんですよ」
「それは大変ですね」
「ですから、田中さんにチーフをお任せします」
「…それってもしかして兼任ですか」
「ええ。Chief Farming Officer です」
田中は、暫く黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「……略語って、怖いですね」
「そうですか?」
黒川は、不思議そうに首を傾げた。
「CFO は CFO ですよ」
廊下に出ると、遠くで牛の鳴き声が聞こえた気がした。
田中には、それが「ですよねー」と言っているように聞こえた。
(完)