
第173話「ケリー君・株式編」
言葉の誤用だけならまだ可愛いものだ。世の中には、語彙だけでなく金融リテラシーのほうでも壊滅的な男がいる。その両方を兼ね備えた稀有な人物。
言わずと知れたあの最強男、ゲチ社長である。
何を隠そう、会社の計算資源を独断で占有して、今度は株式の"最適ポートフォリオ"を回していたのである。そうは雖も、なにぶん多忙な社長の身。腐っても鯛。腐っても社長。外交には事欠かない。だから、分身役として若手社員が登用される。可哀そうに。仮に彼を「ケリー君」と呼ぼう。もちろん仮名である。
上役の話は抽象的になることが多く、経験の浅い若手社員にとっては何を言っているのか具体的な想像ができず四苦八苦するのはお約束。たとえば、
「ケリー君、分散投資は大事だぞ」
「はい、分散ですね」
翌日、ケリー君が戻ってきた。
「社長、分散してきました!」
「何を」
「株を全部、別々の証券会社に移しました!」
「違う!」
人物紹介はこれくらいにして、本題に戻るとしよう。ある日、サーバールームのCPU使用率が100%になって固まる事件が発生した。原因を調べると、ケリー君のプロセスが延々と走っている。
「そこで何してるんだ」
「株式の最適ポートフォリオを計算してます」
「仕事は?」
「これが仕事です」
「誰の?」
「僕のです。ゲチ社長の指示です」
堂々としたものだった。会社が傾いているというのに、CPUだけは元気に回っている。そこへ社長がやってきた。
「お、ケリー君。最適比率はどうだ」
「ハイテク株に98%です」
「よし! これで一山当てて我が社の解析技術力をアピールするのだ!」
嫌な予感しかしない。
「ケリー君、ボラディティが上がってきたぞ」
「はい、社長」
「ボラディティが高い時こそ、勝機だ」
「…はい」
「ボラディティを知っているか」
「いえ」
ボラディティとは謎の言葉だが恐らくそれはボラティリティ。つまり価格変動の激しさを示す指標。ニュースで言う“ボラが高い”は、オプション市場が織り込むインプライド・ボラティリティ(IV)のことだが、簡単に説明するには、まずは標準偏差で十分だ。私はホワイトボードに式を書いた。
「ケリー君、これが標準偏差だ。変動が大きい時は――」
「よし、それを最大化しろ」
「最大化するとリスクが跳ね上がります」
「リスクは気持ちの問題だ」
ケリー君は社長が何を言っているのか理解できなかったが、理解できないまま従うしかなかった。
「それから、相関係数が高すぎます。全部同じ方向に動きます」
「会社が違うんだから分散だろう」
「損切りラインを設定しましょう」
「損切りは負けだ。勝つまで持て」
「PERが低いのは赤字だからです」
「赤字だから割安なんだろう」
一問一答がこれほど空回りし続けるのも稀有な才能というものだ。
そして相場が始まった。
1日目、急落。「想定内だ」
2日目、続落。「押し目だ」
3日目、暴落。「買い増しだ」
4日目の朝、社長が言った。
「ケリー君、ボンジャリーを見ろ」
「はい、社長」
「ボンジャリーが収縮している。来るぞ」
「…はい」
「ボンジャリーを知っているか」
「いえ」
一体いつからボンジャリーになったのか知らないが、それはボリンジャーバンド。つまり価格の標準偏差を使ってトレンドと変動幅を可視化したものとでも言っておこう。バンドが収縮した後に急激な価格変動が起きやすいとされている。私はホワイトボードに図を書いた。
「ケリー君、これがバンドの収縮だ。この後、上下どちらかに大きく――」
「よし、全力で仕込め」
「上下どちらに動くかは分からないんですが」
「儲かる方向に決まってる」
4日目の終値は、含み損500万を超えていた。
「社長、レバレッジETFは危険です。長期保有すると減価し――」
「長期投資だ。気にするな」
「…それはインデックスの話で」
「ロング・ショートで相殺だから気にするな」
5日目、保有銘柄の一社が上場廃止となった。
「社長、無限に下がらない株はないと言ってましたよね」
「…想定外だ」
それでもCPUは回り続け、本業のバッチ処理が遅延し、顧客から問い合わせが来る始末。含み損は増え、CPUは熱暴走し、電気代だけが激増する。計算が完了すると自動で株を買い付けてしまうというから大した熱の入れようだ。私財投入とはいえ、本業圧迫は本末転倒。どこが解析技術のアピールになるんだか、呆れて開いた口が塞がらない。本業でもっと頑張れよ。
翌週の経営会議。
ゲチ社長「この件はケリー君が自腹でやってるから問題ない」
役員A:(自腹…? 追証のことか?)
役員B:(自腹…? 遅延損害金のことか?)
役員C:(自腹…? 電気代のことか?)
暫しの沈黙を破り、議事録担当が恐る恐る聞いた。
「自腹とは、どの支払いのことでしょうか」
「個人の研究だから問題ない」
「遅延損害金も自腹ですか?」
「将来の投資だ」
議事録にはこう記された。「本件については戦略的実験とのこと」
役員は誰一人として、その意味を説明できなかった。
最終的にケリー君のポートフォリオは破綻し、会社の損失は増え、ゲチ社長は言った。
社長「読みが足りなかったな」
ケリー「…モデルの精度ですか?」
緑皮:(読みも精度も最初からなかっただろ)
社長「違う。リスクを取りすぎたな」
ケリー「…」
社長「次は相関をしっかり見ろよ」
ケリー「…はい」
社長「大根売りはしたくないからな…」
どうやら株式投資も"だいたい"で運用できると思っているらしい。ケリー君は、社長が何を言っているのか理解できなかったが、この賭けに乗るのは危険なことだけは理解した。