第80話 「薬鑵に用心」
2001年10月1日。曇り空。女子寮を抜け出して、新築の外人宿舎へ引越しである。宿舎は家財道具一式完備であるし、独り身の外国人にして大した荷物がある訳でもなく、距離にしてほんの百米しか離れていないにも拘らず、見込み違いもいいとこで五時間も費やす結果となった。それは作業の途中、腑甲斐無くも旧居にて鼻糞の処理をし乍らテレビで映画を観ていた所為に他ならぬのだが、首途(かどで)の景気付けには持ってこいと言わんばかりのど派手なイレイザー。観終って気分荘快、引越しなんか止そうかい。などと言っている場合ではない。新居では英語は米軍放送とニュースチャンネルしか入らないので、映画チャンネルはこれが見納めである。
女子寮を態態脱出する事もなかろうに羨ましいこの助平変態エッチスケッチワンタッチという感想があるかも知れないが、あーんな事やこーんな事があった生活に終止符を打てるのが何よりも嬉しく感慨一入である。そんな次第で女子寮だからといって決してウハウハな訳ではないし、私は別に仙人でも仏陀でもないし、元元男子寮だったのが一月前の新築による住人総移動で女子寮に変身してしまって、事情をよく呑み込めない外人だけが置去りにされていただけの事である。共同トイレ・シャワー室に設置してある洗濯機を利用して破廉恥だと思われるのも癪に障るので自室で手洗いなどしていた所以もあって、一刻も早く脱出したかったのである。門限も無くなるし。
新居はと言えば、慣れる迄の間は虫歯の治療後の樣な違和感があって落ち着かないのも然る事乍ら、調度品が不十分な所為で、親会社が三星財閥な割に安普請な胡散臭さを漂わせるのも亦、事実。カーテンや洗濯機が未だ設置されてないだとか、バスルームの天井には工事の途中と思しき四角い穴があったりだとか、洗面用の蛇口の水圧が異樣に低いだとか、タイルを叩くとカパカパいうだとか、玄関には立派なクローゼットがあって感心、と思っていざ開龕すると実は百足くらい詰め込めそうな巨大な靴入れだったり、訪問者の映像が見える立派なインタアホンがあるのはいいが、ドアの鍵は泥棒が「齲っ歯っ歯」と侵入ってきそうな程に貧弱であったりする。セタッキまだかよ。
そうはいうものの旧居に比べれば格段にグレードアップ。荷物の搬入も終り漸く西欧滞在時並の部屋になったものだと歎息し、両手を腰に当てて「いっやっほう。裸になって踊ろうよシュールダンス。ウッ。ッハアー」と、思いっ切り腰を突き出したところで早速だが、腹が減った。さーて、湯を沸かしてカップ麺でも食べるか。チュソクの大型連休中なので、予め非常食として購入しておいたカップ麺に与る事にする。カップ麺といえば夜間に薬鑵で湯を沸かすものと相場が決まっているが、今は昼間。薬鑵に水を入れてシンク横にある文明の利器インダクション・プレートに載せ、スイッチ・オーン。あれっ。スイッチ・オーン。あれっ。変である。よく見ればプラグが横から顔を出しているではないか。付近に差込口を求めるも、そんなものは見当たらず頭を抱える状況である。うーん、これで一体どうやって湯を沸かせと仰せであるか。はっ。確か冷蔵庫の裏に差込口があった筈。冷蔵庫を剥ぐれば、何と既に冷蔵庫のプラグが只一つの差込口に悠然と構えているではないか。がーん。
プラグの差込口といえば2個で一組、3年B組はキムパッチ、アフガン元首相をゴムパッチンで笑わせた男はゆーとぴあ、と相場が決まっているのである。ううむ。仕方がないのでテレビの側にある空きソケットを使用する。掃除機の入ったダンボール函を側に置き、その上に電磁プレートを設置しプラグを差し込み、やっとの思いで薬鑵に熱が入る。丸で日本に初めて電気の火が燈ったかの如き感動である。
カップ麺だけでは不足なので、沸騰を待つ間にパンを焼くとする。トースタアを函から取り出し、再び空きソケットを探せば残る差込口は4個なり。一個目は机の裏。可也差込み難いポジションで、而も質の悪い事に差込みが緩いのでスポッと抜けるし、二個目は何に使うのか理解し兼ねるベッドの側壁上方2米の位置。残る2個はキッチンから最も近くて使い易いのだが奈何せん、バスルームの中である。最初の2個はいずれも使い勝手が悪く、仕方がないのでバスルームの差込口を使用する。かつて人類史上、バスルームの便座の上にトースタアを載せてパンを焼いた人間がどれ程いるというのであろうか。便座トースト同盟。そんなのも悪くないかも知れない。
パンを焼く間に、序でなので炊飯器の差込問題も片付けておく。これを一体何処に差し込めばいいのであろうか。机の上に炊飯器。少々違和感があるものの、路面を確りとグリップして安定感は抜群な反面、差し込みがスポッと抜ける樣では落ち着かない。そろそろ出来上がる頃だと思って見たら、スポッと抜けていて全然駄目だったりすると慘めである。かといって、ベッドの上で炊飯器を頭上に載せて長時間立っているのも首が疲れていけない。頭の上に炊飯器。この身動きが取れない状態で来客があったりするとちょっと堪らないのである。管理人が合鍵を使ってドアを開けると、炊飯器を頭上に載せた人間がいたりするのだ。そんな間抜けな姿は断じて人前に曝す訳にはゆかぬ。
だが待てよ。この先、卓上灯が配給されたりしたらこれらの場所は使えない事になる。するとあれか、矢張りバスルームの中なのか。便座の上にトースタアを載せてパンを焼いた人間の百人や千人くらいはいるかも知れないが、便座に腰掛けて頭上に炊飯器を載せてトーストを云々… と考えていたら、トーストの煙を検知したのか警報がけたたましく鳴り響く。ぎょぎょ。引越し早々からこれはまずい。
と、思ったら薬鑵ではないか。なんだよもう紛らわしいんだよ。この中国製。なーんて薬鑵に突っ込みを入れつつ、よく見ると未だ沸騰しておらぬ。これは奇っ怪なり。ううむ、一体どういう事だ。
はて? 音源の方に眼を向けてよくよく聴いてみると、若い女性の喋るラヂオ放送らしきものが背景雑音と共に流れてくる。怪音の正体は館内放送のキーンとなるマイク音であった。やられたよ。守衛のおっちゃん。
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