メインコンテンツへスキップ

第38話 「水蒸気不眠」

    水蒸気不眠。当たり前だがそんな言葉は、医学辞典にも生物学辞典にも広辞苑にも大辞林にも理科学辞典にもどさくさに紛れて数学辞典にも載っていないのであり、拙著・改變版物理學辭典にも駄洒落辞典にも載ってそうで載ってないのである。だが私の韓国生活は、この言葉抜きに語る事はできない。

    雪もちらつき始める極月、と言えば聞こえはいいが、煎餅布団で激しく寒いので厚着をしてから入床せねばならない師走の或る夜。眠れない。今回は空腹不眠に陥らぬ様にしっかり喰っておいたし、昨晩はいつもより短かい睡眠時間でしっかり目の下に隈をつくって疲労も抜群。眠るには絶好のコンディションにも拘らずである。明日も朝が早いので十二時前の早めに入眠した迄は良かったが、程なくして快眠を遮る物凄い音が響く。

    「キシッ、カチャッ、ヒュルヒュルッ、カチャカチャッ、パーン、パーン、カチャッ、ッパーン、ッパーン、プシュー」

    遂に北朝鮮の攻撃が始まったか。そう思うほどにこの世のものとも思えぬ恐しく激しい音がするのである。果たしてこの音の中で戦慄を覚えずに安穏と眠れる者がこの世に存在するのであろうか。おまけに窓の外では門限に遅れた学生が騒いでいたりして紛らわしい。強盗かと思ったじゃないか。ああびっくりした。

    音の正体は、爆発音というか炸裂音というか敢て詳細に表現すれば「熱水を流して暖房するタイプの暖房システムで冬場には常時熱水が流れていて各自で好みの温度を調整するのが普通なんだけど貧乏なので一日四回だけ熱水を流す為に熱水放出時に高温の水蒸気が一気に空のパイプに流れ込んで水蒸気爆発を起して其れが金属を激しく叩く音」なのであるが、そりゃもう水蒸気爆発であるから何時何時ぶっ壊れても全然不思議ではないのである。パイプかバルブが破裂して高温の水蒸気がプシューと噴き出して火傷を負うかも知れないとか、金属片が飛んできて負傷するかもとか、妄想は激しく膨らむ一方であり、そんな言い知れぬ恐怖に戦き乍ら安らかに眠る事はできないのである。違う意味で安らかに眠れるかも知れないけれど。

    更に質の悪い事に、この暖房方法は熱水式には違いないのだが放熱タイプではないのである。一体どういう事かと言うと、なんと吃驚する事に熱い水蒸気を部屋中に放出して直に暖めるタイプであるらしく、熱し易く冷め易いという一酸化水素即ち水という物質の性格上、次の放出タイムがやって来るまで成る可く温々状態をキープしておきたいので、「水蒸気ウエルカムカモーン。でもジメジメ」状態になってしまうのである。この盛大なイベントは夕方五時と夜九時と深夜十二時と朝五時に勃発し、爆発開始から約一時間に亘る。

    それで以下の図式が成立する。厚着なので暑い→起き上がってバルブを閉める→布団をはねのける→じきに冷える→カーディガンを纏う→五時の放出→五月蝿いので覚醒する→寒いので起き上がってバルブを開く→厚着なので暑い→起き上がってバルブを閉める→布団をはねのける→じきに冷える→カーディガンを纏う→朝日が昇る→結局、眠れてない。

    こんな具合なので、ちょっとでも思案事があると眠れなくて仕様がない。ああ寒い。スチームカモーン。でもジメジメは嫌よ。ん? スチームと言えば…
    頭の中で、たけしとさんまの声が谺する。

    「赤外線アイで原子炉内蔵で片腕がスーパーパワーでさ。600万ドルの男なんてね」
    「それはスチーブ」
    「どっかの姉ちゃんがスチーブカモーン。コマネチ。なんて言っちゃったりしてね」
    「そんな訳ないでしょ」
    「スチーブと言えば、ラジオ体操なんかで音楽に合せてね、決められた動作の流れとか。言うでしょ。ス…」
    「それはスキーム」
    「あぁ、それそれ。で、ほら、女が首に捲いて妙に粧し込んじゃったりしてね。風呂敷みたいなやつ。ほら、あるでしょ」
    「それはスカーフ」
    「あぁ、それそれ。スカーフと言えば、今なんか丁度季節なんでね。年賀ハガキの炙り出しとか、餅を焼いたりとかでね。ほら、あるでしょ」
    「それはストーブ」
    「あぁ、それそれ。で、夏場とかは、颱風とか酷い雨風なんかでね、傘なんか吹っ飛んじゃったりしてね」
    「それはストーム」
    「あと、学生の倶楽部とか同好会でさ、冬場だけ活動してあとは麻雀ってのがあるじゃない」
    「それはスキー部でんがな」
    「あと、野球なんかで盗塁したりとか、発泡スチ…」
    「スチール」
    「熱帯雨林とかで…」
    「スコール」
    「木綿のハンカチーフを略して?」
    「モチーフ。ってあなたいつまでやらせるんですか。モチーフじゃなくてスチームでしょ。真面目にやって下さいよお。もお」
    「まあまあ。ジュディ・オングが宣伝に出てた繊維メーカー」
    「それはワコール。何がまあまあですか。全然合ってないじゃないの。いい加減にしてよう」
    「まあまあまあ。壱足す壱は」
    「イコール弐。まあまあもへちまもあらへんがなあ。スチームでしょお。もお」

    なんて事を考えていたら余計に眠れなくなってしまったではないか。ううう。而もメモっている場合ではない。明朝は早いのだ。さっさと眠らねば。次の「ああ寒いスチーブカモーンでもジメジメは嫌よ」タイムまであと一時間しかないではないか。ああ違う違うスチーブじゃないってば。入眠まで結構時間がかかる私にとってこれは致命的である。一層のことこの儘起きていようか。いやいや、寝ているのと起きているのとではエネルギーの消費量が全然違う。如何に沢山喰ったと雖もそれでは空腹不眠になってしまうではないか。じゃあ、寝ながら続きを考えるか。汚職議員はリコールで、モッくんのハンカチーフを略してモチーフとか、ああ、全然駄目駄目。面白くない。ん、面白くない方が眠れるかも。然し、駄洒落の面白さとは全く無関係に「考えごとをする→眠れない」という図式が成立する以上は結局眠れない。は、もう五時じゃないか。やばいやばい。

    結局、寝過してしまった。

       【前を読む】    【目次へ戻る】    【次を読む】


     
     
    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

    あなたへのおすすめ