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第81話 「大学野球」

    ピッチャー投げた。ブーン。バシッ。ひゃっひゃっひゃ。確率統計論研究室前の廊下は、割と広くて遊戯に適した空間がある。実験と無縁な数学科の人々は退勤時間が早いので、夜は他学科の学生が跋扈する無法地帯と化す。そう。怪しからぬ事に、我らは校舎内で野球をしているのである。小学生なら柔らかい庭球をグーの手にて打撃するものと決まっているが、そんな事は疾うに厭きてしまっている我々は、卒論研究の骨休めに何か新しい刺戟を求めるべく、野球用具を使って本格的にやってみる事にした。元元、ソフトボールは屋内競技だったので一応の正当性はあるのだが、流石に破壊力抜群の野球やソフトボールの球では憚るので、軽くて反撥係数の高い硬式テニスのボールが採用された。

    ピッチャー廣澤、ミットを目掛けて全力投球。バシイ。象の如き四角い顔で野性パワーの漲る巨体、象亀が構えるミットに収束する。テニスボールとはいえ野球宜しく上から投げ下ろすのだから、結構、喧しい音がする。ドーン。投球が逸れて金属のドアにぶち当たる。ドーン。残業している教官がいたら絶対に叱られる。ドーン。今の私なら間違いなく叱る。ドーン。勝手な様だが人生とはそういうものだ。ドーン。どうも屋内でキャッチ面を着けているとよく見えないらしく、逸球が目立つ。え、コンタクトが外れただって。皆で床を這いずって捜索する事暫し、虚しくも粉々になった破片が検出される。人生とはそういうものだ。象亀は予備を装着する。

    バッター村公も、廣澤に負けじと金属バットを振り回す。ブーン。素振りの音である。ブーン。いくら広いとはいえ所詮は廊下、両脇には壁がある。バットが激突すれば「ゴキッ」だの「ガン」だのと鈍い音が響き亘る。そこで周りに机やらテレビやらがある狭い村公の下宿をイメージし、それらを損傷せぬ様に振る。ブーン。
    「あ、今花瓶割った」
    「いや、そこに花瓶なんかないって。そこは冷蔵庫じゃ。かっかっか」
     そんな言葉を交わしつつ、確り腕を畳んで小さい振幅で振り抜かねばならない。まあ、場所が場所だけに振り抜く必要は毛頭無いのであるが、毛髪はあるに越した事はないしサラサラの毛を抜く必要も更更無い。序でに言えば村公の下宿には皿がない。だからと言って気を抜いたりすると、フォロースルーのバットは重みに任せて畳まれた腕を開放し、勢いよく壁に激突する。ガン。
    「今のは窓を割ったな。この孟冬に割るとは痛い。風邪ひくぞ。うひゃひゃ」
     振り抜かずに気を抜くのは大丈夫だ。振り抜いて気は抜かない。これも大丈夫。振り抜かずに気は抜かない。これはバントしろという事か。振り抜いて、気を抜いて、気を抜かないで、振り抜くな。旗上げゲームの様で一体何を抜いていいやら迷って仕舞うのである。

    打球処理は私と赤谷が担当する。球速は結構あるものの、キャッチしても何だか重量感がなく、パスッと音をたててすぐにグラブから零れて仕舞うのが難点である。しかも厄介な事に、狭い空間でパチンコ玉の様に目紛しく反跳するのがどうにも頭を悩ませる。パス。ううむ。復か。それに掲示板の張紙に命中して破れたりするのはちょっと困るのである。パシッ。とはいえ、皆は「元道りに貼っておけば、本来の役目は果たすのでよし。うひゃひゃ」と、いい加減な按配である。パシッ。また紙が剥がれ落ちた。

    横は張紙だけ心配すれば十分だが、縦はいけない。先刻みたいな打球が天井に当たると冷汗ものである。横は張紙3枚の損傷で済んだが、打ち所が悪けりゃあの世逝き。否否、運が悪けりゃ蛍光燈を破壊する。張紙の様に復元とはいかぬし、流石にコンビニには置いて無さそうだし、人目を盗んで余所から外してきて取付ける以外に策はない。だが其んな心配を余所に、がさつ者の論理はここでも遺憾無く発揮される。村公曰く
    「天井に比べれば面積の小さい電燈なんぞ確率的に大丈V」
    と、如何にもな理屈である。
    「それにここは確率統計だし数学的にも大丈夫じゃ。かっかっか」
    って、おいおい違うだろ。廣澤、投げる。村公が打つ。カスッ。ドーン。ファウルチップは上へと飛んでゆく。

    まあ、確かに数学的には小さい確率だし、何だかんだ言ってもここまで張紙3枚だし、昨日は無傷だったし、一応の説得力はあるのでさして気に留める事もなく続行中の矢先、事件は起きた。突如ドアが開いて教官が現れ打球が後頭部を直撃ぃ、鬘が外れたー。と、いう様な事だったら大笑いなのであろうが、抑抑、教官が帰ったのを確認してから球技に興じているのでそれは嘘臭い。それはそれで食指が動く展開ではあるが、今回は正直に事の顛末を告げなければならぬ。「今回は」に深い意味はない。

    我らの打球が直撃した物とは。それは刑事ドラマでよく見掛ける、ドア上方の壁面より鉛直に突出した「刑事課第一係」とかいうあの札である。別に我らは警察署内にいる訳ではないので、それは「数学科確率統計論」と書かれているのだが、そりゃもう見事にパキッといって仕舞ったのである。道義的には誠に怪しからぬ事ではあるが、確率的には金剛君を打ち抜く程の快挙である。いや、だから数学的に。流石にこればっかりはコンビニには置いてなさそうだし、人目を盗んで余所から外してきて取付ける訳にもいかないのである。ガムテープで留めて誤魔化しておけば良いものを、矢張りそこはがさつ者。摩擦に任せて適当に引っ掛けて、「うひゃひゃひゃ」という笑いを後して足早に立ち去るのみである。気付いてくれと言わんばかりに傾いた侭のそれは、一目で発覚するのは必定であり、翌朝話題の的となったであろう事は想像に難くない。

    そして八年後、この話を未だ離別する以前の妻に打明けてみた。
    「ああっ。もー。あんただったのー。しょっちゅう学生が騒いでほんと煩かったから、急度、他学科の学生の仕業に違いないと思ってたのよ。腹が立つから犯人捕まえて縛り上げてやろうと、次の日、電気消して息を殺して待ってたんだからっ」
    「ひぇー。時効だから許してちょんまげー」
    「いいや。許さん」

    彼女の手が伸びてゆく先に視線を遣ると、其処にはフライパンが転がっていた。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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