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第23話 「空腹不眠症」

    私は大学のゲストハウスに居を構えているのだが、外人客専用かというとそうでもない。本質的には学生宿舎で韓国人学生が住んでいて、一部を外人客に賃貸しているのである。学生宿舎に外人客が入るのは西欧でも珍しい事ではなく、独逸に住んでいた時もそうだったし、ノルウェーを旅した時も学生宿舎に泊ったことがある。言葉の不自由さを除けば別に困ったり驚いたりする事も殆んど無いのであるが、それでも言いたい事がある。それは非常に眠り悪いという事である。ベッドが安っぽくてギシギシするとか、壁が薄くて学生が大音量の音楽を流して五月蝿いとか、最中の喘ぎ声が聴こえて嬉しいとか、そういうありきたりな煩悩ではなくてもっと深遠な理由で眠り悪いのである。

    まず最初に、私の部屋の環境を説明せねばならない。

    台所用品、家具、寝具、掃除機、英語放送のあるテレビ、冷房装置等が揃っており什器備品一式だけを見れば、観光客用ホテルとしても充分通用する品揃えであり、音響効果抜群の鉄筋コンクリート造で月額4万5千円也。只、少しだけ構造上の欠陥があって、入口のドア下部にゴミや蟲の侵入を防ぐ役目の敷居が無いのと、一階なのと、バスルームがちょっとアレなくらいで、他に不満な点はと言えば、自分専用の郵便受けが無かったり、停電とか断水のお知らせを英語でしてくれないとか、門限が深夜一時だったり、守衛のおっさんとは漢字で筆談だったり、韓国語で訳の分からない電話が掛かって来て応対に困ったり、電話は受信専用だったり、御蔭で部屋から出前を注文する事もエッチな電話サービスを受ける事も出来なかったりするなど、色々不便な事が挙げられるくらいで、さして困窮する程でもない。この間も門限に遅れてしまって徹夜する羽目に陥ってしまったけれど。

    改善が図られる事を切に望む。

    それでバスルームがどういう風にアレなのかというと、排水口が詰っているとか、ドアが木製でペンキもボロボロ剥離状態で、蝶番が真赤に錆びてしまっているだとか、それはシャワーカーテンが無い所為であるとか、便器とシャワーが鉢合わせなので常に濡れまくってそりゃもう大変であるとか、換気扇が屋外に向けて設置されておらず換気効率が悪いとか、西欧の所謂一星安宿状態であるとか、日中に部屋の換気をしようにも一階なので、窓を開放して留守にする訳にも行かないとか、ものすごい事になっているのである。

    さて、この一階というのが曲者で、蟲の侵入に一役買っている点も見逃してはならない。この点に鑑みて、私はゴキブリの侵入から身を衛る可く「ゴキブリの餌となる生ゴミを生産しない為に自炊しないよ外食しても日本より格安だし作戦」を敢行している。御蔭でゴキちゃんの侵入を未然に防ぐ事に成功しているのだが、如何せん湿気を好む蚰蜒やら蛩(蟋蟀)が侵入して来るのである。げじげじとこおろぎ。ひぃ。こおろぎも「恐しくて心のない虫」と書くのだから、恐しいに決まっている。あの風涼な虫の声に騙されてはいけないのである。

    特に夜中が問題である。いざ就寝と消燈するや鳴き始め、着燈すると鳴き止むのだから中中眠らせてはくれないのである。更にこっちが睡っている隙に、鼻腔やら耳腔やらに侵入されては堪らない。事実、何年か前に西欧では、耳が痛いので医者に診てもらったらゴキブリが棲息していたという事件が報じられ、私自身高校生の時には就寝中に背中を蜈蚣(百足)に剌されたこともある。そういう訳で蚰蜒も蛩も絶対入って来るに決まっている。絶対にそうだ。絶対にうそだではない。間違えないで戴きたい。そういう恐怖に戦き乍ら眠りに入るのは許されないので早速部屋から排除して睡る。ぐースカ。まず壱スカ。

    そして早朝を迎える。

    はて、未だ浅い意識の中で撃退した筈の蛩の声がする。外で鳴いていると思いきや、段々と意識が入って来るにつれ室内で鳴いている事が判明する。全く五月蝿い奴である。仕方無く起き上がって撃退しようとすると、何と其れは電話の音だったりする。これで弐スカ。全くもってスカである。更に電話に出てみると露西亜語じゃないか。未だ六時半であるぞよ。どうやらお向かいさんの露西亜人が目当てであるらしい。最近、局番が変更されたので其の所為かも知れないが、またもやスカである。これで参スカの完成だ。間違いである旨を英語で告げると無言で切れてしまったが、折角だから「そおっスカ」ぐらいは言って欲しいものである。

    それは兎も角、早朝に起きると腹が減っていけない。普段の外食癖で冷蔵庫は空っぽだし、麺麭屋が開くまで時間がある。然し、こういう粉食物は中途半端な量を摂取すると反って食欲を増進する作用があるし、かといって多量に摂取すると熱量過多に陥るし、この侭起きていても更に空腹が増すだけなので、何も食べずに再び眠るのが得策である。老化の原因となる活性酸素の産生を抑える事も出来て正に一石二鳥。一見完璧であるが実は落し穴がある。それは、

    「空腹刺激は体の機能を活発にし、更に眠れなくなり、お腹がスカスカになる」

    という事実である。これは空腹不眠症と称され、夜中に腹が減っても近所に常時営業の便利店が存在しない又は利用不可能な状況、例えば人里離れた山村でキャンプ中だとか、門限があって外出禁止だとか、閉店法がある国だとか、電視台から目が離せない状況だとか、雨が降っているだとか、颱風だとか、高熱に魘されて一人で病床に伏しているだとか、独逸では門限も便利店も無かったけれど今度はどっちもあって役立たずだとか、ハングルが分らなくて塩かと思ったら砂糖だったりとか、諸々の状況に於て誰の身にも訪れる深刻な問題なのである。早朝に露西亜人から間違い電話が掛かって来ないからといって油断できないのである。

    そんな訳で今夜もまた蛩と格闘の末に空腹不眠なのである。あ、蚰蜒が。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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