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第22話 「七嶌先輩」

    手もとに一枚の紙がある。この紙の前所有者である七嶌先輩が逝ってしまってから凡そ一年が経つ。これを見ていると色んな記憶が甦る。週に一度ジャズ喫茶へ演奏に行く趣味を持ち、物理学辞典【改変版】レベルのくだらない駄洒落を愛好し、晩飯を奢ってくれたり、私の生き方に多大な影響を与えてくれた人物である。彼が広島を去る際には引越しを手伝って、餞別に貰ったのがこの紙である。

    軅て私は外国暮らしの身となり、この10年間で僅か二三度会うという関係になった今、私の下へ訃報など来る筈もない。昨秋帰国中に久々に酒を酌み交した同窓から告知されたのは、既に殀折から四箇月も後のことである。亡骸は死後数日経ってから発見されたと聞くが、他にも土耳古で惨殺された先輩もいたりして、何故か非業の最期に縁のある私である。私もこのまま異国の地で朽果てるのであろうか。否、この紙を所持した侭でそんな事は絶対に許されぬのである。

    その理由を述べる前に、美しい思い出を一つだけ記しておきたい。

    最初の出会いは私が大学院に入ってすぐの春。寸胴な胴体とは不釣合いなバイク用ヘルメットを被り、机に向って難解な計算をしている姿はちょっと奇人かと思ったが、どうやら家庭教師に出掛ける間際であったらしく、そんな訳でちょっと剽軽な人というのが私の抱いた初見の印象である。人情味溢れる優しい人でもあった。その優しさ故に印度のヨガ留学では聖名「カターミ」を授かったという逸話がある。

    その頃の私は失恋の真っ只中、絶望のどん底であり、死んで仕舞いたいと何度も自棄になった。「痛いのは嫌なので核兵器が頭上で炸裂して一瞬で死にたい計画」という第一希望は、とばっちりを受けたくない何百万人もの人達から反対されるので止む無く断念し、第二希望の「毎食即席拉麺を食べて栄養失調になって衰弱死する計画」は一見成功するかに思えたが、私は胃腸が弱いため衰弱死する以前に下痢で苦悶するのであった。噫。悶絶する程に痛いので計画は敢え無く頓挫である。

    結局は、酒を呑んでは硝子を割ったり、酔い潰れて道路に寝込んだり、コンビニで購入した歌本を見ながら同級生と肩を組み共に涙しながら歌ったり、どう見ても30代半ばにしか見えない中核派の学生牴牾と喧嘩をしたり、机上に酒瓶を置いておけば酒豪呼ばわりされるものだから、調子に乗って昼間から呑んだくれる始末である。兎に角、呑んでは泣き喚く。啼く、鳴く、哭く、泣く。そして踊る。というか脚が絡まって転倒だけども。

    そんな或る日、宴会が終って例の如く泣き崩れていると、七嶌先輩が肩を叩きながら優しく囁き掛けて来るではないか。
    「どうしたんだ、はるちゃ。その胸の痛み、俺にも良く分るぜ。話してみな。べいべえ」

    二人共かなり酩酊しており、傍目には酔っぱらいが三流芝居の稽古でもやっている風にしか見えない光景だが、今の私なら確実に腹を抱えて笑うところである。不覚にも私は「をを、是が青春ドラマか」と、感動してしまい落涙に拍車を掛けて事の顛末を訥訥と話すと、先輩は自らの悲しい思い出を語りながら励ましてくれるではないか。印度の山奥から広島に出てくる時に、契りを交したピアノ弾きの女性から婚約を破棄されたことを明かし、両手を広げて「御蔭でこんなに太っちまったぜ」と言ってみせる。米国人がドラマでよくやる戯けの仕草である。ふざけてんだか励ましてんだかどっちだよ。

    だが冷静に考えれば太るか太らないかの違いは、脂肪の貯蔵役を果している白色脂肪細胞が、β-3アドレナリン受容体の作用でうまく燃焼する事が出来るか否かの違いであって、日本人は3人に1人はこの作用に異常があるという事を考慮に入れると、単にその3分の1の人だったというだけで失恋の所為ではないのである。然し、提婆達多の荒行をもってしても困難を極めたという肥満解消の途はとても険しいことだと悟り、見事失意の底から這い上る事に成功したのである。恐るべし、七嶌パワー。

    閑話休題。餞別に貰った件の紙は、先輩の西欧旅行(国際会議)の土産であり、激動の青春を共に過した友情の証しに譲り受けたものであり、数十齣に亘る連続漫画が簡潔に収められた圧巻ものである。登場人物は裸体と思しき男女二名のシルエットで科白は一切無く、振動を表現する〃〃なる記号が全てを物語る。

    ストーリーはこうである。Λの形で尻を向けて構える女と、それに向ってジャンプする男。ジャンピングの凄まじさは彡なる斜線記号で表現され、手を腰に当てたままジャンピングインサート。そして男女協力の下に魅せる円滑な体位変形は当に変幻自在。中には不可能と思える遷移もあるがそんな懸念をよそに齣はどんどん進行し四十八手の限りを尽した後、なんと男は女の足裏から空気を抜いて肢体を畳む行為にでる。畳まれた元女体はボストン鞄を形成し、予め所持していたと思われる取手を装着し、男は「鞄」を持って平然と去って行く。何とも不条理な展開である。

    そんな事をすれば折れるだの、南極Z号の説明書ではないかとか、よくもこんな物を見つけてコピーを取って来たものだとか、一体どんな会議に出てきたんだとか、俺にもコピーを一部くれだとか色々な論議が巻き起ったが、結局この不条理漫画の意図するところは不明という事で終熄していった。今となっては全てが闇に葬られた訳で真に悔やまれる。

    然しである。最も重要で深刻な問題は、これが形見の品となってしまった事である。捨てるに捨てられず、こんな情け無いモノが形見とあっては肩身が狭いではないか。双方ともに一生の不覚であり、カターミ七嶌も草葉の蔭で涙しているに違いない。合掌。

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    142話までは「パブロフの屁」(ぱりぱり噛めん:Parikame) のテキスト復刻版です。見出し形式「第○○話」がテキスト本編、「no.○○」が対応するダイジェスト図解版です。ご贔屓いただけると新作公開の励みになりますのでよろしくお願いいたします。え?頑張らなくていい……ですか

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