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Photo byyukiao

#2 気づいていたのに、なぜ事故は止められなかったか―ある手術室の事故が医療を変えた―

    シリーズ「なぜルールを増やしても不祥事はなくならないのか」第2回

    ある病院の手術室でのことです。37歳の女性が、日帰りでできるような、比較的軽い手術を受けるために入院していました。

    全身麻酔をかけたところ、気道を確保するための管が、うまく入りません。医師たちが何度も試みましたが、うまくいかず、血中酸素の値はみるみる下がっていきました。

    その場にいた看護師は、これはもう喉を切開して気道を確保するしかない状態だと判断し、医師にそう提案しました。

    けれど、その提案が、すぐに受け入れられることはありませんでした。

    結局、手術は開始から40分ほどで中止されましたが、女性の意識が戻ることはありませんでした。そして13日後、彼女は亡くなりました。

    これは、2005年にイギリスで実際に起きた事故です。亡くなったのは、エレイン・ブロミリーさんという、2人の子どもの母親でした。対応にあたったのは経験豊富な麻酔科医3名で、技術も人員も、決して足りていなかったわけではありませんでした。

    「個人の技術」ではなく「仕組み」の問題

    エレインさんの夫、マーティン・ブロミリー氏は、民間航空会社の機長でした。彼が病院に求めたのは、裁判ではなく独立調査でした。誰かを訴えるためではなく、何が起きたのかを正しく知り、同じことを二度と起こさないためです。

    調査を担当した専門家がたどり着いた結論は、プロトコルが守られていなかったこと、状況の把握が追いつかなかったこと、その場の指揮が定まらなかったこと、そして看護師が声を上げる努力をしたにもかかわらず、その声が届き行動につながる仕組みがなかったことでした。個人の技術力の問題ではなく、システムと訓練の欠如が死を招いたと結論づけられています。

    航空業界とCRMという考え方

    マーティン氏は、旅客機の世界と医療の現場との違いに気づきます。コックピットでは、たとえ経験の浅い副操縦士であっても、機長の判断に懸念があれば、それを伝えることが訓練されています。CRM(クルー・リソース・マネジメント)と呼ばれる考え方です。階級や経験に関係なく、気づいた人が声を上げ、その声が実際の行動につながる仕組みが、安全のために欠かせないとされてきました。

    2007年、マーティン氏はClinical Human Factors Group(CHFG)という団体を設立し、ヒューマンファクターの視点を医療界に広める活動を始めます。ブロミリー家は、この事故の調査報告書を家族の名前を伏せたうえで教育目的に公開しました。以来、この事例は患者安全研修の代表的な教材として、世界中で使われ続けています。

    「権威勾配」という構造

    この事故で本当に問われたのは、看護師の技量や、勇気の有無ではありません。声を上げる努力があったにもかかわらず、その声が届かなかった、という構造です。

    上下関係の角度が急なほど、下の立場の人は、上の立場の人の判断に異議を唱えにくくなります。これは「権威勾配」と呼ばれる考え方です。権威勾配が急な現場では、たとえ誰かが正しく気づき、実際に声を上げていても、それが結果に結びつかないことがあります。

    次回に向けて

    「言えなかった」ことにしてしまうと、問題は個人の弱さの話になり、同じことがまた起きます。気づいたことを、気づいたときに伝え、その声がきちんと拾われる文化。それがReporting Culture(報告する文化)です。この文化とJust Culture(公正な文化)がどう支え合っているかは、シリーズ5『なぜ誰も正直に報告してくれないのか』で詳しく取り上げます。

    参考:AAGBI (Association of Anaesthetists of Great Britain and Ireland) Independent Review, "Independent Review of the Care Given to Mrs Elaine Bromiley" (2005)/Clinical Human Factors Group (CHFG)

    シリーズ全6回「なぜルールを増やしても不祥事はなくならないのか」
    シリーズ1:ミスを厳しく罰してもミスが減らないわけ
    シリーズ2:気づいていたのに、なぜ事故は止められなかったか(この記事)
    シリーズ3:罰していい人と、そうでない人の見分け方
    シリーズ4:遅刻に罰金を科したら、遅刻がもっと増えたわけ
    シリーズ5:なぜ誰も正直に報告してくれないのか
    シリーズ6:一人を処分しても、また同じことが起きるわけ


     
     
    いろいろ考えたこと思っていることをnoteします。

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