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䌊藀最䞀郎 『「誰でもよいあなた」ぞ 投壜通信』  今どきの柔な「哲孊曞」

    曞評䌊藀最䞀郎『「誰でもよいあなた」ぞ 投壜通信』講談瀟

    本曞の著者は、フランスの哲孊者ゞャンリュック・ナンシヌの研究者である。ナンシヌの翻蚳曞を䜕冊か持぀ものの、自著は本曞が初めおのようだ。

    フランス珟代思想の入門曞皋床は霧っおいるので、私もナンシヌの名前くらいは知っおいた。
    もしかするず読んだこずがあるかもず、そう思っお「Wikipedia」を確認したが、それらしい翻蚳曞名が芋圓たらない。ただ、ナンシヌの堎合は、同じくフランスの哲孊者である、フィリップ・ラクヌラバルトずの共著が倚いずあったので、たしかラクヌラバルトの方は、笠井朔のミステリ小説『哲孊者の密宀』の参考文献になっおいたこずから、ずいぶん昔に読んだはずだず思い、それがナンシヌずの共著だったのではないかず思ったのだが、やはり、ナンシヌずラクヌラバルトの共著にはそれらしい本がない。で、ラクヌラバルトの著曞を確認したずころ、それがあった。『政治ずいう虚構――ハむデガヌ、 芞術そしお政治』藀原曞店・1992幎である。
    私はこの本を、ナンシヌずの共著のように蚘憶しおいたのだが、そうではなかった。䞡者には共著が倚いこずから、この本でもナンシヌぞの蚀及が倚くお、それを蚘憶しおいたずいったこずか、あるいは、『哲孊者の密宀』の参考文献衚に、ナンシヌの著曞も挙がっおいたのに、そっちは読たなかったずいったこずなのではないかず思う。

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    ずもあれ、ナチスに協力した哲孊者であるハむデガヌの思想を、その思想の次元から批刀しようずしおいた䞡者なので、基本的には私は、ラクヌラバルトやナンシヌに「共感的」な立堎である。
    だから、ナンシヌの研究者である本曞の著者䌊藀最䞀郎にも、倧筋で共感的な立堎だずは蚀えるだろう。

    たた、私が本曞を賌読したのは、玀䌊囜屋曞店倧阪本店の「思想哲孊」の棚に、新刊ずしお眮かれおいた本曞を手に取りパラパラずめくっおみたずころ、『䞭井英倫『黒衣の短歌史』』P127ずいう蚀葉が目に入ったので、これは読たねばならないず思ったのである。

    そんなわけで、ひさしぶりに「フランス珟代思想」系の、日本人著者による本を読んだわけだが、忌憚なく蚀っおしたえば、本曞は完党に期埅倖れだった。

    著者の「立堎」に぀いおは、いろいろず共感できる点が倚い。

    硬盎した「専門家」的なスタンスでは、物足りない。
    ゞャンル越境的なものに惹かれる。
    本を買うこずが趣味であり、読みきれないほど買っおしたうが、それはそれで意味がある。
    安倍晋䞉に䜓珟された、自民党政治が嫌いであるオリンピックにも批刀的。「勇気をもらった」ずかいった蚀葉は銬鹿くさい。

    他にもあるが、だいたいこういったずころだ。

    しかし、本曞著者に足りないのは、こうした衚局的なあれこれではなく、思考の「培底性」なのだ。
    「哲孊」における肝心芁の郚分で、物足りなかったのである。

    これは、やに関わっおくるこずで、たしかにゎリゎリに硬盎した「専門性」の、「硬盎性」や「暩嚁䞻矩」や「芖野狭窄」や「独りよがり」ずいったものは私も嫌いだし、それではダメだずいうのは、著者ず立堎を同じくするのだけれど、著者の堎合は、そういうものを拒吊する䞀方で、哲孊者哲孊研究者には是非ずも必芁な「培底性」぀たり「ゎリゎリさ」の方も足りないのだ。

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    なにも矛盟した話をしおいるのではない。
    そもそも哲孊ずは、「垞識」に捉われるこずなく、物事のギリギリの起点にたでたち戻っお怜蚎しなおす、ずいう思考䜜業のこずである。だから、「起点にたで戻る」ずいう䜜業自䜓が、たず「ゎリゎリの懐疑䞻矩」でなければできないこずだし、そこからひず぀ひず぀思考を重ねおいくずいう䜜業は、「ゎリゎリの慎重居士」でなければできないこずなのだ。
    ぀たり、「適圓に起点らしきずころたで戻っお、適圓に思考を重ねおいく」ずいうような「䞖間䞊みの柔な態床」では、それは「哲孊」ではないのである。

    したがっお、「哲孊する」者に必芁なのは「ゎリゎリにやる培底性」ず同時に、「それだけで満足しおはいけない。それだけでは䞍十分なのだ」ずいう「自己懐疑」だ。
    「ゎリゎリにはやるけれど、それだけでは十分ではない」ずいう、そうした䞡面性を䜵せ持っおいお、初めお「哲孊」が始たるのである。

    ずころが、本曞著者の堎合、「ゎリゎリにやる」ずいう郚分が、ぜんぜん物足りない。劙に今颚に柔で、倉に物分かりが良さそうであり、芁は、䞍培底なのだ。

    䟋えば、著者の䌊藀最䞀郎は、珟圚の日本における「哲孊曞」の劣化に぀いお、次のように批刀をしおいる。

    『いわゆる「倧陞哲孊」ずそこに根差す「珟代思想」にしばしばみられるこのような倧颚呂敷にどこか心を打぀ずころがあるずすれば、それがひず぀の時代の終わりを宣告し、新たな時代の始たりを告げおいるからだろう。ずお぀もなく倧きな過去を盞手にしおいるようでありながら、芖線は珟圚からその先ぞず向けられおおり、期埅であれ䞍安であれいかなる情動がそこに぀きたずおうずも、閉塞するこずなき来るべき未来が率盎に肯定されおいる。垞識から出発した「等身倧」の問題を明瞭・簡朔な孊術論文のフォヌマットに萜ずし蟌む哲孊の勢いが匷たりそんな哲孊はChatGPT にでもたかせおおけばよい、日垞のモダモダを手がかりにするような哲孊颚゚ッセむが流行ず化し぀぀ある珟圚においお、こうした巚芖的な芖座は時代遅れの過去の遺物にもみえるだろうが、その倧颚呂敷性にはいただ考えるべき䜕かが残されおいるようにも思われる。』P126

    『おそらく、こうした事態は「掚し」ずいう蚀葉に限らず、広く芋られるものだろう。「ファンあっおのプロ野球」でもなんでもよいが、ファンコミュニティに向かっお「サヌビス」する蚀葉は最近はじたったこずではないし、採算が取れなければ掻動できず、収入がなければ生掻できないのだから、文芞の䞖界にずっおも無関係ではない。しかし、SNS※ の「むむね」数によっおポゞティノな反応が数量ずしお可芖化される珟圚、曞き手が承認の共同䜓の内郚に向けお蚀葉を発する傟向は匷たっおいるようにも思える。
     しかし、固定客向けの蚀葉はどこかで頭打ちになるにちがいない。なぜなら、そこには倖郚が存圚しないからだ。オタク文化を超えお䞀般化した「掚し」なる語が瀺しおいるのは、自己の存圚のために他者を必芁ずしながら、その裏で異質な他者ずは出䌚わずに枈たせたいずいう欲望である。「掚す」偎もあおこんだ蚀葉を投げ、「掚される」偎もあおこんだ蚀葉を投げる鏡仕掛けの装眮のなかに、期埅を裏切る他者は存圚しない。たずえそれが時代の「玄」※ 玄束・誓玄なのだずしおも、少なくずも私は、そのような閉じた空間に蚀葉を投げたいずは思わない。私が立っおいるのは、吉田※ 歌人・吉田隌人ず同じく「玄」がすでに砎られたずころだ。「投壜通信」を暙抜する以䞊、どこたでも遠く、期埅の地平を越えお「あおこたない蚀葉」を投げおみたい。』P133

    芁は、珟状流行䞭の、「哲孊オタク」向けの蚀葉では「ダメだ」、もっず「匷床のある蚀葉」を語っおいかなければならないはずだし、自分はそれをしようず思う䞀䞀ず、倧筋でそのようなこずを語っおいるわけだ。

    で、このご意芋には倧いに賛成なのだが、しかし、ここで語られた蚀葉自䜓が、その決意を完党に裏切っおしたっおおり、いかにも「軜い」ずいう印象が、吊めない。

    著者の「反時代的」に正統掟の哲孊者たらんずする熱意は本物だず仮に認めるにしおも、それが実行できおいるずはたったく思わないし、なにより良くないのは、著者自身が「やれおいない」ずいう事実に、たったく無自芚な点である。

    著者は、敬愛する先茩哲孊研究者である现芋和之の著曞に倣い、「投壜通信」ずいう蚀葉に、本曞の䞻匵を象城させようずするのだが、それがどうにも独りよがりな自己満足の域を出ず、「なるほど」ず玍埗させる域には党く達しおいない。
    著者が自身が「これこそが投壜通信なのだ」ずくりかえす、そんな抌し぀けがたしさだけが、錻に぀くのである。

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    もちろん、最初にも曞いたずおり、著者は、基本的には「真面目な良い人」なのだろうから、「投壜通信」ずいう蚀葉を「鬌面人を嚁す」態の「ハッタリ」ずしお䜿っおいるのではなく、あくたでも本気でそのようなものを曞いおいる぀もりなのだろう。
    だがそれは、圓人が思っおいるほどのものになっおはいないし、なによりその無自芚こそが、著者の最倧の問題点なのだ。

    䟋えば、著者は、これもフランスの哲孊者であるポヌル・リクヌルが、匟子の著䜜に察しお攟った「ずおもよいですね、けれどそこに裏庭は」ずいう蚀葉を取り䞊げお、次のように曞いおいる。
    少々長い匕甚ずなるが、議論の前提ずしお、著者の䞻匵を正しく理解しおいただくためなので、ご容赊願いたい。

    『 2庭付きの蚀葉

    「ずおもよいですね、けれどそこに庭は」
     博芧匷蚘で知られる二〇䞖玀フランスの哲孊者ポヌル・リクヌルは、匟子が出版した初の著曞を読んで本人にこう告げたずいう。しかも、庭に面した窓を開けながら蚀ったずいうのだから、哲孊者は匟子の本に䜕らか閉じたものを感じたのだろう。庭を欠いた蚀葉。ずおもよくできおはいるが窓が開いおいない蚀葉。それはどのようなものだろうか。
     たず気づくのは、リクヌルのこの蚀葉が䜕を謂わんずしおいるのかすぐにはわからないずいうこずだ。「ずおもよい」ず評䟡されたそばから、「庭」がないず指摘されたずころで、䜕を蚀われおいるのか即座に理解できるひずはほずんどいないだろう。䜕かが欠けおいるず批刀されたこずはわかるが、それが「庭」だず蚀われおも困惑するのが普通の反応にちがいない。むろん、リクヌル自身もそのような反応が返っおくるこずくらい癟も承知のはずである。そうであれば、少しばかり芖点をずらしお、これはすぐには理解されないこずを狙った蚀葉なのだず考えおみたらどうだろうか。぀たり、謎めいた蚀葉を発するずいう行為それ自䜓が、この蚀葉を読み解くヒントになっおいるのである。
     盞手に謎を䞎える蚀葉、これを「暗号」ず蚀い換えるずしたら、若き日のリクヌルが傟倒したドむツの哲孊者カヌル・ダスパヌスの思想がたず思い浮かぶ。「あらゆるものが暗号に成りうる」ず述べるダスパヌスにずっお、䞖界は暗号に溢れおおり、その暗号を解読するこずによっお、超越者存圚や神ず束の間の関係を結ぶこずができるのだった。あるいは、リクヌルず芪しかった「人栌䞻矩」の思想家゚マニュ゚ル・ムヌニ゚も暗号解読の重芁性を語っおいる。䞻著『人栌䞻矩』の䞀節では次のように語られおいた。

    ※ 匕甚文始たり
     人栌によっおなされる自己の召呜に関する䞍断の解明は、利害、順応、成功等、あらゆる手近な目暙を絶えず打ち砕いおいるものであるから、この意味においお、人栌ずは、たずえ圌の行為の各々は玄束されたものであり、誓われたものであるずしおも、無償性そのものであるず蚀うこずができる。人栌ずは、人間のうちにあっお、利甚され埗ないずころのものである。
    ※ 匕甚文終わり

     ムヌニ゚においお「召呜」ずは、神から呌びかけられるものであるが、それはすぐに理解できるかたちで䞎えられるわけではなく、あたかも暗号のようなものずしお人間に珟れる。その暗号を詊行錯誀しながら「解明」するこずによっお、はじめお人間は俗䞖の利害関係を超越し、瀟䌚的な有甚性ずいう尺床から解き攟たれる。ムヌニ゚の語っおいるずころをこのようにたずめるず、いかにも内省的で聖曞の蚀葉を読み蟌むこずを説いおいるようにも思えるが、遠藀呚䜜ずずもに戊埌いちはやく人栌䞻矩を日本に玹介した加藀呚䞀が指摘しおいるように、ムヌニ゚の思想の意矩は瀟䌚倉革を志向する点にあった。しかし、戊埌を代衚する知識人が泚目した存圚でありながら、ムヌニ゚の名はいたやほずんど忘れ去られおおり䟋倖は、須賀敊子や『人栌䞻矩』の蚳者のひずり越知保倫に぀いおの若束英茔の仕事だろう、その理由を探るこずは戊埌日本の思想史を考えるうえで興味深いが、この点に぀いおはいたは措いおおこう。いずれにせよ重芁なのは、キリスト教的な語圙に圩られたムヌニ゚の思想が、その実、人間の根深い欲望を捉えおいるずいうこずである。神から䞎えられた召呜を解読するこずが生き生きずした人栌に぀ながるずいう発想は、暗号ずいう謎の解明を生の原動力ずしおいる点で、芋事に人間の欲望のあり方を組み蟌んだ議論ずなっおいる。暗号研究者の長田順行は、䞀九䞃䞀幎に発衚したその名も『暗号䞀䞀原理ずその䞖界』のちに『暗号倧党』ず改題を、「情報化時代ず呌ばれる今日、ある意味で暗号はたさに時代の花圢である」ずいう䞀文から曞き起こしおいたが、それから五〇幎以䞊が経過した珟圚、暗号はさらに身近なものずなり、セキュリティが求められるいたるずころに存圚しおいる。ずはいえ、暗号の存圚は、それを解読したいずいう欲望ず぀ねに背䞭合わせにある。暗号を砎ろうずいう䌁おがなければ、セキュリティを高めるためにより匷床の高い暗号化方匏を求め぀づける必芁などないだろう。ムヌニ゚の思想が普遍性をも぀ずすれば、暗号を解読したいずいう人間の根本的な欲望を捉えおいるからにほかならない。
     そもそも芆いがかかっおいるずそれをめくっお内偎を芋おみたくなるずいう人間のあり方は、暗号のみならず人間の営みのさたざたな堎面に芋られるものであり、フランスの叀兞孊者ピ゚ヌル・アドの『むシスのノェヌル』は、ノェヌルをたずった自然の女神むシスず、そのノェヌルを倖しお自然を探究しようずする人間の知の二五〇〇幎に及ぶ歎史を描き出すものであった。アドの著䜜を読めばわかるように、カバヌずカバヌを倖すこずが織りなす思想の物語は驚くほど倚面的だがたずえば、ゲヌテは自然に剥ぐべきノェヌルなどはじめからないず蚀う、少なくずも二〇䞖玀の哲孊や思想においおくりかえし問われおきたのが、ノェヌルを倖した先に䜕か真正なものは存圚するのか、ずいう問いであったこずはたちがいない。ノェヌルの先に真の姿があるずいう発想は、蚀葉の意味ずいう面で考えれば、解釈を研ぎ柄たしおいくこずで、い぀の日か唯䞀無二の真正な意味に蟿り着くこずができるずいう態床ずなる。これはいっおみれば、珟時点でさたざたな解釈が乱立しお混乱しおいるように芋えようずも、それらはいずれひず぀の正しい意味に収斂しおいくずいう倧団円の発想である。この堎合、未来ぞず向かうこずは、倚様な解釈の可胜性を削ぎ萜ずしお正解ぞず向かっおいく過皋にほかならない。他方で、この真正な意味を、いったん倱われたあずに回埩されるべきものず捉えたずしおも構造的にはほが同じこずになる。バベルの塔であれ原眪であれ疎倖であれ、玔粋無垢や統䞀の状態にあったものが毀損され、やがお回埩ぞず向かっおいく神話や物語は数倚くあるが、それらにおいおは原初の状態ず未来のゎヌルが等号で結ばれおおり、向かうべき未来はあらかじめ定められおいる。いわば、倱われた過去ずいただ到来しない未来の到達目暙は時間軞の䞡端で手を携えおおり、過去ず未来はあたかも埪環するかのような様盞を呈するのである。もずもずの意味にノェヌルをかけお第䞉者から隠匿し、それを倖すこずで意味の埩元をおこなう暗号解読もたた、この埪環構造のひず぀の倉奏であるずいえるだろう。』P18〜22

    べ぀に難しいこずを蚀っおいるわけではない。
    簡単に蚀えば「完党な真盞解明が可胜だず無邪気に信じおいるような、そんな単现胞に硬盎した態床では、芋えるものも芋えなくなっおしたう。もっず、芋えない䜙癜に目を凝らすような態床が、哲孊には必芁だ」ず、そういう話だ。

    ぀たり、ポヌル・リクヌルの、匟子の著䜜に察する「ずおもよいですね、けれどそこに庭は」ずいう、思わせぶりな感想の意味ずは「なかなかよく曞けおいたすね。しかし、君のこの本は、いささか硬盎的でもあれば、独善的であるずも蚀えるだろう。自分に芋えおいない郚分ずいうのが、想定されおおらず、自己完結的にすぎるんだ。だから、もっず、開かれた目で䞖界を芋るようにしなければならないし、そのような本を曞かなきゃいけないよ」ず、そういう話だずいうのが、本曞著者である䌊藀最䞀郎の「解釈」なのである。

    だが、この皋床の話なら、さほど「難解」なものずは蚀えないだろう。
    䟋えば、私は先日、黒柳培子の自䌝『窓ぎわのトットちゃん』を論じお、次のように曞いおいる。

    『アニメ※ アニメ版『窓ぎわのトットちゃん』でも描かれおいたずおり、トットちゃんも「教宀」の管理的な運営に銎染めず、すぐに倖を眺めおは、奜きな「チンドン屋さん、来ないかなあ」などず考えおいるような子だった。
    だから、先生も心埗たもので、トットちゃんに窓際の垭に぀けるこずで倧人しくしおいおもらおうず、いちおうは劥協し、折り合いを぀けおいたのである。

    そんなわけで、トットちゃんは、「邪魔者ずしお窓ぎわに远いやられた存圚」だずいう意味で「窓ぎわのトットちゃん」ずいうこずになったのである。

    だが、トットちゃんの「窓」ずは、無論「倖郚」ぞず開かれた、自由の呌び声を䌝えおくる開口郚だった。
    だから、倧奜きなチンドン屋さんが通りかかるず、トットちゃんは興奮しお、教宀の窓から身を乗り出し、倧声でチンドン屋さんに呌びかけるのであった。そのずき圌女は、「境界」を超えお「自由」の偎に倧きくはみ出しおいたのである。
    たた、だからこそ、退孊にもなったのだちなみに、か぀おは「チンドン屋さん」もたた、瀟䌚から蔑芖された、職業被差別的な存圚であった。』

    ぀たり、トットちゃんの「教宀」の堎合は、「窓ずいう境界」を介しお「倖郚」ず盎接接しおいたのだけれども、リクヌルの匟子の著䜜は、そもそも「倖郚」が無かった。
    より正確に蚀うならば、想定されおいお然るべき「倖郚」が想定されおいないから、そもそも「窓」が存圚せず、議論が「郚屋の䞭」に終始する「自閉的なもの」にすぎなかった。だから、リクヌルは匟子に察しお、「倖郚に開かれおあれずたでは蚀わないが、せめお内郚ず倖郚を繋ぐ媒介空間ずしおの䞭庭くらいは、備えおおくべきだよ」ず、そう助蚀したずいう話なのである。

    したがっお、「䞭庭」が「倖郚ぞの開かれ」の象城比喩であるずいったこずくらいであれば、哲孊の玠人である私ですら気づく話なのだから、たしお、リクヌルの匟子が、この皋床の「謎かけ」を「難解」だなどず思うこずはありえないのである。

    では、その「ありえない」こずを、さも「そうであるかのように」、本曞著者が描いおみせた意図ずは、奈蟺にあったのか

    それは、「倖郚ぞの開かれ」ずいうのは、なかなか困難であり、「だからこそ本曞の䞻匵も、たさにそこにある。投壜通信ずいう比喩は、読者を限定せず、すべおの読者である、あなたがた個々に開かれた本曞のこずなのだ」ずいう䞻匵を際立たせるための、いささか手前味噌な挔出だったのである。

    だから、䞊の匕甚郚分で、著者は、

    『 ムヌニ゚においお「召呜」ずは、神から呌びかけられるものであるが、それはすぐに理解できるかたちで䞎えられるわけではなく、あたかも暗号のようなものずしお人間に珟れる。その暗号を詊行錯誀しながら「解明」するこずによっお、はじめお人間は俗䞖の利害関係を超越し、瀟䌚的な有甚性ずいう尺床から解き攟たれる。ムヌニ゚の語っおいるずころをこのようにたずめるず、いかにも内省的で聖曞の蚀葉を読み蟌むこずを説いおいるようにも思えるが、遠藀呚䜜ずずもに戊埌いちはやく人栌䞻矩を日本に玹介した加藀呚䞀が指摘しおいるように、ムヌニ゚の思想の意矩は瀟䌚倉革を志向する点にあった。しかし、戊埌を代衚する知識人が泚目した存圚でありながら、ムヌニ゚の名はいたやほずんど忘れ去られおおり䟋倖は、須賀敊子や「人栌䞻矩』の蚳者のひずり越知保倫に぀いおの若束英茔の仕事だろう、その理由を探るこずは戊埌日本の思想史を考えるうえで興味深いが、この点に぀いおはいたは措いおおこう。いずれにせよ重芁なのは、キリスト教的な語圙に圩られたムヌニ゚の思想が、その実、人間の根深い欲望を捉えおいるずいうこずである。神から䞎えられた召呜を解読するこずが生き生きずした人栌に぀ながるずいう発想は、暗号ずいう謎の解明を生の原動力ずしおいる点で、芋事に人間の欲望のあり方を組み蟌んだ議論ずなっおいる。』

    ず曞いお、「ムヌニ゚がキリスト教埒だからこそ、倖郚ずしおの神を想定した議論を展開しおいるのだず、そう考えるのではなく、結果ずしお、そのような態床が、人間ずいうものを考える䞊で、より厚みのある思考をもたらしおいるずいう事実にこそ泚目すべきなのだ」ず匷調しおいるのだけれど、これは、いかにも手前味噌にすぎよう。

    たしかに「倖郚」を想定するこずは重芁である。人間に「すべおのこずが理解できるわけがないどこたで行っおも、倖郚は残る」ずいうのは明癜な事実なのだが、しかし、だからずいっお「神はいる」ずか「神の存圚は吊定できない」などず蚀い出すのは、いかにも「盲信者らしい手前味噌」でしかないのず、これは同じ話だからである。

    実際、本曞では説明されおいないが、ここに登堎するキリスト教埒は、なにも゚マニュ゚ル・ムヌニ゚だけではない。

    ポヌル・リクヌルも「神孊曞」を持぀、神孊者の偎面を持ったキリスト教埒たぶんカトリックだし、著名なカトリック䜜家である遠藀呚䜜は無論、須賀敊子や若束英茔も越知保倫もカトリック。加藀呚䞀も、亡くなる間際になっおカトリックの掗瀌を受けた人であり、芁は、長らく「無神論者を装ったカトリック」だった人に過ぎない。

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    そしおそれどころか、本曞著者の䌊藀最䞀郎自身が、䞇が䞀にも「カトリック」だったなら、本曞の䞻匵は、䌊藀の「無知」に基づく「偏頗で䞍十分なものの芋方」であるに止たらず、カトリック信者による意識的な「ペテン」だずいうこずにもなりかねないのだ。
    「倖郚を想定せよ」ずは、結局のずころ、これらの人たちにずっおは、「神の存圚を想定せよ」ずいうのず同じこずであり、䌊藀の議論は、カトリック信者の「ダラセ」だずも、「出来レヌス」だずも蚀えるからである。

    さらに蚀うず、䌊藀はここで、「暗号」ずいう、いかにも「非宗教的」に聞こえる話題を持ち出しおいるけれども、キリスト教における「自然神孊」ずは、芁は「自然の䞭に隠された、神の蚀葉痕跡ずしおの暗号を読み解け」ずいう趣旚の「信仰的孊問」である。
    「神がこの䞖界を創造したのだから、この䞖界の䞭には、神の意図が畳み蟌たれおいるはずだし、そのヒントも隠されおいるはずだから、それを芋぀けお読み解かなければならない」ずいうのが「自然神孊」であり、そう蚀いながら「神を完党に理解するこずは、人間には䞍可胜」だずもする。
    ずもあれ、この「自然神孊」から「自然科孊」が発展しおきお、のちには「神孊」ず敵察するものにたで成長しおしたったのだ。

    しかし、こうした「自然神孊」なるものが、孊問ずしお必ずしもフェアではなかったずいうのは、「異端審問」や「ガリレオに察する宗教裁刀」などでも明らかだし、最近では、魚豊の『チ。―地球の運動に぀いお― 』などでも、呵責なく描かれおいるずおりである。
    芁は、キリスト教䌚は「自然の䞭に、神の声を読み解け」ず蚀いながら、その読み解いた答が、教䌚の教えに合臎しないものであれば、それを「異端の説」ずしお、匕っ蟌めろさもないず火刑だぞず脅したのである。

    ぀たり、ムヌニ゚やリクヌル、あるいは、遠藀呚䜜、須賀敊子、越知保倫、若束英茔、加藀呚䞀ず蚀った「著名人」たちが、「開かれおあれ」ず、もっずもらしく語ったずしおも、それが玔粋に哲孊的な意味で語られたものだずいう保蚌などないずいった皋床のこずは、議論の前提ずしお、圓然螏たえお然るべきこずであった。
    それらは「党掟的な意図を隠し持った䞻匵ダラセ」だったのかもしれないし、その疑いは十分にあるのだ。
    だから、そうした事実を螏たえ、しっかりず確認した䞊で「仮に圌らが、神の存圚ぞの信仰を蚌蚀するずいう、誀った開かれ方をしおいたずしおも、それでも、人は自閉するのではなく、正しく開かれおあるべきだずいう䞀点だけは、正しかったのだ」ず、そう䞻匵するべきだったのだある。

    だが、本曞の著者には、その皋床のこずすら出来おいないのだから、薄っぺらいずか、柔だずかいった印象になっおしたうのは避けられないずころなのだ。

    著者は、本曞の䞭で「哲孊者ず哲孊研究者を区別するこずに、本質的な意味はない芁は、圢匏ではなく、䞭身の問題だ」ずいった議論をしおおり、これに぀いおは、実にもっずもなこずだず同意する。

    だが、自身のやっおいるこずを「哲孊」だず称する぀もりなら、「疑うべきこず」に察しおは、もっずもっず培底的に、ゎリゎリなたでに、疑わなければならない。
    「培底性を欠いた哲孊」などずいったものは、語矩矛盟であり、たさに「神」のごずき「非存圚」なのである。


    2024幎2月19日

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