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今村倏子 『あひる』  ドラマ性の偏芋を突く 侀侀 今村倏子論

    幎間読曞人

    曞評今村倏子『あひる』角川文庫

    今村䜜品は『むらさきのスカヌトの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いお冊目だが、今村倏子の実像が、かなり芋えおきたように思う。

    本䜜には、衚題䜜「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄効」が収録されおいるが、他の長線や䜜品集にくらべるず、やや児童文孊的な柔らかさが匷いように思う。
    しかし、独特の「䞍穏さが挂う」ずいった点は、他の䜜品ず倉わりはないので、本質的な違いはどこにもないず蚀っお良いだろう。

    さお、冊目にしお私が読み取った「今村䜜品の本質」ずは、今村が描くのは「どこか䞍穏さをかもす、しかし優しい日垞」ずいった「䞊っ面」ではなく、「日垞に存圚する䞍穏さに、過剰なドラマ性を芋おしたう偏芋を突いおくる、その批評性」ずいうこずである。

    䟋えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いおおり、それゆえの呚囲ずの軋蜢葛藀も倚少はあっお、その点で「危うさ」や「䞍穏さ」が挂うのだが、しかし、物語は最埌たで、よくある「砎局」も「どんでん返し」もなく、「そのたた」の日垞が続いおしたう。

    これは、本䜜品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの䜜品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さたを拝んでいる」ようだが、それで倧きな砎綻がおずずれるわけではなく、物語はありふれた日垞的生掻の䞭に収たっおしたう。
    「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最埌は性栌が倉わっおしたうが、悪い方に倉わるわけではない。単に掻発になるだけだ。
    たた「森の兄効」に登堎するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子䟛奜きなおばあさんに過ぎない。

    そしお、これは『むらさきのスカヌトの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。
    これらの䜜品では、盎接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「倉人」や「知的障害者」ずいった「普通から倖れた人たち」が描かれお、倚少は呚囲の「普通」に波颚を立おはするものの、それで決定的な「砎局」や「どんでん返し」的なものがおずずれるわけではなく、最埌は「日垞」に回垰しおしたう。

    ぀たり、今村の描く「日垞」ずは、私たちの考える「圱の差さない日垞」などではなく、「ずきどき圱が差すものである日垞」なのだ。

    私たちは、普通に生きおいれば、ずきどきその生掻に「䞍穏な圱」がさすものなのだが、それはたいがい「䞍幞の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、い぀のたにか䜕事もなく過ぎ去っおしたうものだ、ずいうこずを知っおいるのではないだろうか。

    それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「䞍穏な圱」がさすず、それを、䜕か䞍幞がおずずれる「サむン合図」であり「耇線」だず思いこんでしたう。そのような「物語的王切り型」に銎らされおしたっお、小説ずいうものに「偏芋」を持っおしたっおいるのだ。

    ぀たり、今村倏子は、そうした「偏芋の虚構性」を、物語においお突いおいるのである。「その発想は、銎れによる偏芋に過ぎないよ。予感はあくたでも予感であっお、的䞭する予蚀でなんかないんだ」ずいう批評であり、これはきわめお「玔文孊的な詊み」だず蚀えるだろう。

    私たちは「新興宗教」ずいうず「うさんくさい」ずか「䜕か裏があるのではないか」などず、王切り型の発想で偏芋を持っおしたうが、蚀うたでもなく新興宗教にもいろいろあっお、それは人間に癜人もいれば黒人もいるずか、日本人にもネトりペもいればパペクもいるしノンポリもいる、ずいったこずず同じである。

    しかし、私たちは「密宀殺人が起これば、そこにトリックがある」などずいったような「パタヌン」で物語を芋おしたう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けお、きわめお「先入芳に無自芚」であり「偏芋」的だず蚀っおもいい。

    今村倏子は、こうした私たちの「物語的偏芋」を、「反・物語」によっお逆照射しお芋せおいるのではないだろうか。「こっちの方が、圓たり前普通なんですよ」ず。

     ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 

    【補蚘】2019.07.12

    以䞋にご玹介するのは、珟時点で既巻の今村䜜品冊を、すべお読んだ段階で曞かれた「今村倏子論」である。
    ぀たり、個々の䜜品論ではなく「䜜家論」ずしお曞かれたものなので、それたでに曞かれた䜜品論ずしおのレビュヌの巻末に収録させおいただいた。
    なお、䞋の曞籍タむトルは、䞊から刊行順で、末尟に付しお数字は、私が読んだ順番である。

    『こちらあみ子』
    『あひる』
    『星の子』
    『父ず私の桜尟通り商店街』
    『むらさきのスカヌトの女』

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     あなただっお倉な人今村倏子論拡匵版
      侀侀 Amazonレビュヌ今村倏子『父ず私の桜尟通り商店街』

    本曞『父ず私の桜尟通り商店街』には、衚題䜜の他「癜いセヌタヌ」「ルルちゃん」「ひょうたんの粟」「せずのママの誕生日」「モグラハりスの扉」が収められおいる。

    珟時点での最新䜜である『むらさきのスカヌトの女』から読み始めお、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』ず読んできお、珟圚刊行されおいる本ずしおは最埌に残った本曞『父ず私の桜尟通り商店街』を読了した珟時点では、本曞が最も完成床の高い冊だず思う。

    今村倏子の䜜颚に぀いおは『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏芋を突く今村倏子論」を曞いたので、本曞に぀いおは、その読みが倖れおいなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、倧筋で倖れおはいなかったようである。

    おなじこずを繰り返すのも䜕なので、先に前蚘の『あひる』に぀いおのレビュヌ「ドラマ性の偏芋を突く今村倏子論」を玹介しおから、埌で本曞『父ず私の桜尟通り商店街』に぀いお曞くこずにする。

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     ドラマ性の偏芋を突く今村倏子論
      䞀䞀 Amazonレビュヌ今村倏子『あひる』

    今村䜜品は『むらさきのスカヌトの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いお冊目だが、今村倏子の実像が、かなり芋えおきたように思う。

    本䜜には、衚題䜜「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄効」が収録されおいるが、他の長線や䜜品集にくらべるず、やや児童文孊的な柔らかさが匷いように思う。
    しかし、独特の「䞍穏さが挂う」ずいった点は、他の䜜品ず倉わりはないので、本質的な違いはどこにもないず蚀っお良いだろう。

    さお、冊目にしお私が読み取った「今村䜜品の本質」ずは、今村が描くのは「どこか䞍穏さをかもす、しかし優しい日垞」ずいった「䞊っ面」ではなく、「日垞に存圚する䞍穏さに、過剰なドラマ性を芋おしたう偏芋を突いおくる、その批評性」ずいうこずである。

    䟋えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いおおり、それゆえの呚囲ずの軋蜢葛藀も倚少はあっお、その点で「危うさ」や「䞍穏さ」が挂うのだが、しかし、物語は最埌たで、よくある「砎局」も「どんでん返し」もなく、「そのたた」の日垞が続いおしたう。

    これは、本䜜品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの䜜品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さたを拝んでいる」ようだが、それで倧きな砎綻がおずずれるわけではなく、物語はありふれた日垞的生掻の䞭に収たっおしたう。
    「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最埌は性栌が倉わっおしたうが、悪い方に倉わるわけではない。単に掻発になるだけだ。
    たた「森の兄効」に登堎するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子䟛奜きなおばあさんに過ぎない。

    そしお、これは『むらさきのスカヌトの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。
    これらの䜜品では、盎接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「倉人」や「知的障害者」ずいった「普通から倖れた人たち」が描かれお、倚少は呚囲の「普通」に波颚を立おはするものの、それで決定的な「砎局」や「どんでん返し」的なものがおずずれるわけではなく、最埌は「日垞」に回垰しおしたう。

    ぀たり、今村の描く「日垞」ずは、私たちの考える「圱の差さない日垞」などではなく、「ずきどき圱が差すものである日垞」なのだ。

    私たちは、普通に生きおいれば、ずきどきその生掻に「䞍穏な圱」がさすものなのだが、それはたいがい「䞍幞の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、い぀のたにか䜕事もなく過ぎ去っおしたうものだ、ずいうこずを知っおいるのではないだろうか。

    それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「䞍穏な圱」がさすず、それを、䜕か䞍幞がおずずれる「サむン合図」であり「䌏線」だず思いこんでしたう。そのような「物語的王切り型」に銎らされおしたっお、小説ずいうものに「偏芋」を持っおしたっおいるのだ。

    ぀たり、今村倏子は、そうした「偏芋の虚構性」を、物語においお突いおいるのである。「その発想は、銎れによる偏芋に過ぎないよ。予感はあくたでも予感であっお、的䞭する予蚀でなんかないんだ」ずいう批評であり、これはきわめお「玔文孊的な詊み」だず蚀えるだろう。

    私たちは「新興宗教」ずいうず「うさんくさい」ずか「䜕か裏があるのではないか」などず、王切り型の発想で偏芋を持っおしたうが、蚀うたでもなく新興宗教にもいろいろあっお、それは人間に癜人もいれば黒人もいるずか、日本人にもネトりペもいればパペクもいるしノンポリもいる、ずいったこずず同じである。

    しかし、私たちは「密宀殺人が起これば、そこにトリックがある」などずいったような「パタヌン」で物語を芋おしたう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けお、きわめお「先入芳に無自芚」であり「偏芋」的だず蚀っおもいい。

    今村倏子は、こうした私たちの「物語的偏芋」を、「反・物語」によっお逆照射しお芋せおいるのではないだろうか。「こっちの方が、圓たり前普通なんですよ」ず。‚
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    私は、䞊のレビュヌで、今村の小説を「反・物語」ず衚珟した。これは、「小説のお玄束」を意識的に裏切っおみせる、批評性を蟌めた小説、のこずである。

    よく蚀われるように、今村の䜜品は「䞍穏」ず「優しさ」が同居しおいる「䞍思議な䞖界」なのだが、この「䞍思議さ」は、小説的に「ありがちなパタヌン」にはハマらない、むしろ本来ならば盞性が悪いずさえ考えられおいる「䞍穏」ず「優しさ」が同居させられおいる点においおこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意倖性を楜しむこずができるのだ。぀たり、平たく蚀えば「ありきたりの小説」ではないのである。

    しかし、䞊に玹介した「今村倏子論」でも指摘したずおり、そうした「面癜さ」は、読者の偎が「小説」ばかりではなく、「人間」に察しおも「偏芋」を持っおいればこそ、なのだ。

    「普通のたずもな人間」ずはどういうものであり、「普通のたずもな正矩」ずは、「普通のたずもな人間関係」ずはどういうものかずいったこずに぀いお、決たりきった「垞識」ずしおの偏芋に瞛られお、そこから倖れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」ず、深く考えるこずもなく決め぀けおしたっおいるからこそ、そうしたものの裏をかいおくる今村倏子の䜜品は、「䞍思議」な䜜品であり、それでいお読者にひず時の「自由」を䞎えおくれるのである。
    「あなただっお、べ぀に普通である必芁はないんだよ」ず。

    䟋えば、「癜いセヌタヌ」の語り手は、いたっおたずもな女性のようだが、こたっしゃくれた子䟛にひどい目にあわされたあげく、最埌は、ちょっず「おかしな人」になっおしたう。
    なぜに「嫌な思い出」のしみ蟌んだセヌタヌを埌生倧事にしたい蟌み、それをずきどき持ち出しおは匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によっおこそ、぀かめる「リアルな䞖界」ずいうものもあろう。わたしたちは「きれいごずずしおの普通」のなかでだけ生きおいるわけではないのだ。

    「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子䟛に察する情の濃い女性が登堎する。この女性は、垞識的には非垞に真っ圓な人だし、やや過剰ずも思えるある意味では、むワン・カラマヌゟフ的な「虐げられた子䟛たちぞの愛情」に぀いおも、本人は十分に自芚的なので、決しお「異垞」呌ばわりするのは劥圓ではないだろう。
    そしお、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子䟛たち」ぞの代替的愛情衚珟ずしお、人圢のルルちゃんを抱きしめるずいう行為も、決しお異垞なものずか蚀えない。
    しかし、ルルちゃんの立堎に立おば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感芚なのだ。

    「ひょうたんの粟」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にずり憑かれた女性」の物語ずいうこずになるだろうが、他人にはそうずしか思えなくおも、圌女自身はそれを少しも䞍郜合には感じおおらず、その䞖界芳を玍埗しお生きおいるのだから、圌女の䞖界芳が吊定されねばならない謂れはどこにもない。
    圌女は䜕も「間違っお」いないし、狂っおさえいない。あえお蚀うなら、すべおの人は、皋床の差こそあれ、それぞれの幻想䞖界に生きおいるからである。

    「せずのママの誕生日」も、「スナックせず」に集った、元埓業員の女性たちがそれぞれに語る「ほずんどあり埗ない奇劙な思い出」が、「矛盟なく」亀錯する䞖界である。
    「せずのママ」がいるかぎり、圌女たちの物語は、決しお吊定されるこずはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持぀「倧切な思い出」ずしお、そのたた存圚し埗るのである。

    「モグラハりスの扉」も、モグラさんずいう道路工事䜜業員の語った「物語」を生きる女性ず、その女性ずその女性の信じる䞖界を共有しようずする語り手の物語であり、圌女たちの間には、䜕の矛盟も䞍郜合もない。

    「父ず私の桜尟通り商店街」にいたるず、語り手が掎んで離さない「物語」は、珟実の方を倉えおいこうずさえする勢いだ。

    こうした「物語」から䌝わっおくるのは、私たちの持぀「普通」「垞識」ずいった物語は、「呚囲の顔色を窺い、呚囲の䞖界芳を内面化した、借り物」でしかない、ずいうこずなのではないだろうか。

    たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庞な䞖界」を遞ぶこずでもある。
    もしも私たちが、もっず「自分らしい䞖界」を生きたいず思うのであれば、「呚囲の無難な䞖界」を匟き返すくらいの匷床を「自分の䞖界」に䞎えなければならない。無論、それが出来るのは、「䞖間を目」を怖れない特別な「匷者」たちであっお、圌女らは、決しお「敗者」などではないのである。

    初出2019幎7月10日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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