
第19話 「だから」
また、
何となく橋に来た。
今日も風が吹いている。
川は変わらず流れている。
あたしは欄干の上にいた。
少女も来ていた。
橋の真ん中に立ち、
川を見ている。
お互いに何もしない。
いつも通りだった。
その時だった。
聞き覚えのある声がした。
小さい。
かすれた声。
あたしの耳が動く。
少女も顔を上げた。
また聞こえる。
今度ははっきりと。
鳴き声だった。
橋の下からだった。
あたしは欄干から飛び降りた。
橋のたもとへ走る。
下を見る。
川の水が少し増えていた。
護岸の途中。
崩れかけたコンクリートの出っ張りに、
小さい猫がしがみついていた。
下では、 茶色く濁った川が流れている。
いつも橋の上から見ている川だった。
こんなに近くで見ると、 思ったより大きかった。
思ったより速かった。
小さい猫が鳴く。
前足が滑る。
小さな身体が傾く。
いままで、
ずっと、
自分が生き残ることだけ考えてきた。
その瞬間、
あたしは走っていた。
堤防道路を蹴る。
草むらを突っ切る。
風が耳元を裂く。
息が苦しい。
脚が熱い。
それでも止まれない。
護岸まで、
思ったより遠かった。
でも。
遠いなんて考えていなかった。
ただ走る。
ただ急ぐ。
小さい猫がもう一度鳴いた。
前足が外れる。
身体が沈む。
あたしは飛んだ。
堤防から護岸へ。
身体が宙に浮く。
着地したコンクリートが崩れる。
爪が滑る。
川面が迫る。
冷たい匂いがした。
それでも。
前へ。
さらに前へ。
小さい猫の首筋へ噛みつく。
身体が大きく揺れる。
あと少し遅ければ、
川へ落ちていたと思う。
あたしも。
小さい猫も。
でも、
まだ落ちていない。
だったら十分だった。
足場を探す。
飛ぶ。
登る。
滑る。
もう一度。
飛ぶ。
そして。
草の上へ転がり込んだ。
小さい猫も転がる。
しばらく動かなかった。
あたしも。
小さい猫も。
風だけが吹いていた。
橋の上を見る。
少女がいた。
欄干から身を乗り出すようにして、
こちらを見つめている。
初めて見る表情だった。
驚いているのか。
祈っているのか。
心配しているのか。
あたしには分からない。
でも。
目を逸らしてはいなかった。
だから、
あたしも前を向いた。
やがて。
小さい猫は立ち上がる。
身体を震わせる。
そして。
何事もなかったみたいに、
草むらの奥へ歩いていった。
振り返りもしなかった。
あたしは少し笑った。
たぶん。
猫だから。
それでいい。
それがいい。
息が苦しい。
胸が痛い。
脚も震えている。
あたしは空を見上げた。
青かった。
ただ青かった。
川が流れている。
風が吹いている。
少女がいる。
街がある。
みんな、 そこにある。
その時。
あたしは初めて分かった。
ずっと考えていたわけじゃない。
探していたわけでもない。
でも。
今なら分かる。
あたしは。
あたしは、 だから生まれてきたんだ。
風が吹いた。
橋の上で。
少女が小さく笑った気がした。