メインコンテンツへスキップ
見出し画像

一冊だけの本屋④

    第四話 正しさの、その先に

     あなたは今日、誰かの言葉を疑う。
    正しさとは、誰のためのものか。

     那由が本を読み返したのは、深夜だった。
     田辺さんからメールが来ていた。件名は
    「企画書について」

     本文は短かった。
    「一度お話しできますか」
     それだけだった。良い知らせなのか、断りの前置きなのか、読み取れなかった。

     返信を書きかけて、やめた。今夜考えても仕方ない。そう思ったとき、ふと棚の上の本が目に入った。仕事を失った夜に買った、淡い青地の本。あの夜から何度か手に取ったが、最初の予言のページ以降は、ちゃんと読んでいなかった。

     那由はソファに座って、本を開いた。
     既読のページを過ぎて続きをめくった。しばらく物語が続いた。主人公の女性が職を失い、古い企画書を持って小さな出版社に向かう場面。那由は自分がたどったはずの道を文字で読んでいるような、奇妙な感覚を覚えた。
     そして、新しい一節が現れた。

     あなたは今日、誰かの言葉を疑う。

     那由はその一文を見て、本を膝の上に置いた。
     今日。また今日だった。
     疑う。誰かの言葉を。
     田辺さんのメールのことを思った。あの短い文面。

    「一度お話しできますか」
     あれは希望なのか、それとも丁寧な断りなのか。疑えばきりがない。でも疑わずにはいられない。
     那由はもう一度、その一文を見た。

     あなたは今日、誰かの言葉を疑う。

     ——これは予言なのか。それとも、もうすでに起きていることなのか。


     翌日の夕方、那由は本屋に向かった。
     理由は自分でもよくわからなかった。田辺さんへの返信はまだ書いていなかった。ただあの一文が頭から離れなくて、気づけば石畳の上に立っていた。

     店内に入ると、あの男がいた。
     いつもの場所に、いつもの姿勢で立っていた。那由は棚の端に立ち、様子をうかがった。店主はカウンターの奥で本を読んでいた。静かだった。 

    「また来ました」と那由は言った。
     男が振り返った。
    「また来ましたね」

    「少し、聞いてもいいですか」

     男は棚から目を離して、那由の方を向いた。
    「どうぞ」

    「本の予言って」と那由は言った。
    「本当に当たると思いますか」

     男はすぐには答えなかった。背表紙の列に視線を戻した。
    「当たりますよ」とやがて言った。
    「少なくとも、僕には当たった」

    「でも」と那由は続けた。
    「信じるから当たるんじゃないかって、最近思うんです」
    「予言を読んで、無意識にそっちに動いてしまうだけで」

     男は少し間を置いた。

    「それが『当たる』ということじゃないですか」

     那由は黙った。

    「予言が先に来るか、行動が先に来るか」と男は言った。
    「でも結果が同じなら、どっちでもいい気がして」
    「僕はずっと、そう思ってました」

    「思ってた、って」

    「今は違うかもしれない」

     その言葉の続きを男は言わなかった。


     店主が本を伏せた。
     那由はカウンターに近づいた。今日は聞こうと決めていた。
    「あの本は」と那由は言った。

    「どうして当たるんですか」
     店主は那由を見た。いつもの、逃がさない目で。

    「当たると思ってるのか」
    「思ってます。でも」
    「でも?」
    「信じるから当たるのか、本当に予言だから当たるのか、わからなくなってきたんです」

     店主はしばらく那由を見ていた。それから、静かに言った。

    「本は正しさを与えない」
     那由は聞き返さなかった。続きを待った。

    「選び方が変わるだけだ」と店主は言った。
    「その本を読む前と後で、あんたの『受け取り方』が変わる。それだけのことだ」

    「じゃあ、予言じゃない?」
     店主は答えなかった。椅子に深く座り直して、また本を開いた。
     それ以上、話は続かなかった。


     店を出ると、男が外にいた。
     石畳の上に立って、夜空を見上げていた。那由が出てきたのに気づいて、少し頷いた。

    「あの、名前、聞いてもいいですか」と那由は言った。

    「柊です」と男は言った。「榎本柊」

    「那由です。如月那由」
    それだけだった。でも、何かが少し変わった気がした。

    「聞こえてました」と柊は言った。
    「店主に聞いたんですね」

    「聞いてよかったのかわからないですけど」
    「どうでしたか」
    「正直、よくわからなかった」と那由は言った。

    「選び方が変わるだけ、って言われても」
    「そうですね」と柊は言った。
    「僕も最初はわからなかった」
     二人は並んで、少し歩いた。本屋から遠ざかるわけでもなく、どこかに向かうわけでもなく。ただ石畳の上を、ゆっくりと。

    「音楽、やってたんですよね」と那由は言った。
     柊は少し間を置いた。
    「やってました」
    「やめたのは」
    「本に、そう書いてあったから」
     那由は足を止めなかった。でも、息が少し止まった。

    「オーディションの前の夜に」と柊は続けた。
    「本を読んでいたら、一行だけ書いてあって」 
    「何と」
     柊は少し考えてから、言った。

    「『その扉は、お前のための扉ではない』」

     那由は何も言えなかった。
    「信じたんですよ」と柊は静かに言った。
    「迷ってたから。だから信じた。本がそう言うなら、そうなんだって」

    「後悔してますか」
     柊はしばらく黙っていた。
    「後悔、というのとも違って」とやがて言った。
    「正しかったと思います。今でも。でも」
     言葉が途切れた。

    「空っぽになった?」と那由は言った。
     柊が那由を見た。少し驚いたような顔だった。

    「そうです」と柊は言った。
    「正しかったのに、空っぽになった。その感じが、ずっとわからなくて」
     那由はその言葉を、自分の中で転がした。
     正しかったのに、空っぽ。
     ずっと正しくあろうとしてきた。上司の言う通りに企画を直して、会社の方針に合わせて、市場性のある本を作り続けて。それが編集者として正しい道だと思っていた。でも燃え尽きた。正しさに従ってきたのに、なんで空っぽなんだろう、とずっと思っていた。

    「わかります」と那由は言った。「その感じ」
     柊は何も言わなかった。でも少しだけ、表情が変わった気がした。責められているわけでも、慰められているわけでもない。ただ、わかると言われた。そのことだけで何かが変わる、そういう顔だった。
     那由はそのとき初めて、この人はまだどこかで続いているんだと思った。壊れた側じゃない。壊れながら、それでもまだ何かを抱き続けている人だ。


     しばらく歩いて、二人は本屋の前に戻ってきた。
     柊はドアに手をかけて、止まった。
    「本を、信じすぎたと思いますか」と那由は聞いた。
     柊はドアを開けなかった。少し考えてから、言った。
    「信じたことは後悔してない。でも」
     また言葉が途切れた。
    「でも、自分で決めたかったとは思います。今は」
     那由はその言葉を聞いて、何も言わなかった。
     柊はドアを押して、店内に戻った。那由は外に残った。
     石畳の上に一人立って、空を見上げた。

     あなたは今日、誰かの言葉を疑う。

     予言は当たったのかもしれない。でも那由が疑ったのは、本の言葉だけじゃなかった。ずっと正しいと思ってきた自分の選択を、今夜初めて、疑った気がした。
     もし信じるから当たるなら。
     信じることをやめたら。
     那由はその問いを答えのないまま持ち帰った。本屋のドアには触れなかった。今夜は開けない気がした。

     家に帰って、那由は田辺さんへの返信を書いた。

    「ぜひお話しさせてください」
     送信ボタンを押してから、また本を開いた。あの一節のその先を読もうとした。でもページをめくると、そこから先は白紙だった。
     まだ、書かれていない。
     那由は本を閉じて、しばらくそのまま座っていた。

    次に手に取る一冊は──
    その代償を、那由はまだ知らない。

    __
    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門
    ▶ 次の話はこちら

    ◀︎前の話はこちら

     
     
    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

    あなたへのおすすめ