
一冊だけの本屋⑤
第五話 夢を諦めた男
あなたは夢を叶える。
そして、その代償として、取り返しのつかないものを失う。
田辺さんからのメールは、午前中に届いた。
件名は「企画書の件」。那由はしばらく、開けなかった。スマホを伏せ、コーヒーを一口飲む。それからまた、画面を裏返したまま見つめた。開ければわかる。でも開ける前の今だけは、まだどちらでもある。
やがて、那由はメールを開いた。
お話する前にまず現状をお伝えします。
面白い企画だと思います。ただ、今のままではうちでは出せません。
それだけだった——いや、続きもあった。市場規模のこと、時期のこと、もう少し著者のプロフィールが必要なこと。丁寧に書かれていた。でも那由の目には、最初の二行しか入ってこなかった。
面白い。でも出せない。
間違ってない。でも通らない。
那由はスマホを置いて、天井を見た。泣くかと思ったが、泣けなかった。ただ、胸のあたりに重いものが沈んでいくような感じだけが残った。
気がつけば、夕方には石畳の上に立っていた。
本屋に入ると、柊がいた。
今日はカウンターの前の古い椅子に座っている。店主の姿は見えなかった。柊は膝の上に文庫本を開いていたが、ページはしばらく動いていないようだった。
「今日は店主がいないんですか」
那由が声をかける。
「奥にいるみたいです」
柊は顔を上げた。「那由さん、顔色が悪い」
那由は棚の前に立った。
「メールが来て」
「出版社さんから?」
那由はわずかに目を上げた。
「……話しましたっけ」
「那由さん、以前、出版社に企画を持ち込んだって言ってましたよね」
「どうでしたか」
「面白いけど出せない、って」
柊は何も言わなかった。
その沈黙が、妙に静かに寄り添ってくる。
「柊さんも、そういうことありましたか」
柊は文庫本を閉じた。少しだけ間をおいて、口を開く。
「ここで最初に本をもらったとき」
「——あのときのことを、話してもいいですか」
那由は椅子を引き、向かいに座った。
「聞かせてください」
*
二十六歳の冬、ライブ帰りだった。
対バン相手のバンドが、その夜メジャーデビューを発表した。打ち上げには出なかった。おめでとう、と言える顔が作れなかった。終電を逃し、あてもなく歩いていた。
ギターケースを背負ったまま、気づいたら石畳の上にいた。
ガラス張りの小さな店。明かりがついていた。柊は吸い寄せられるように、ドアに手をかけ、そのまま押した。
「いらっしゃい」
店主は今より少し若かった。でも同じ目をしていた。逃がさない感じの目。
「今日は何の悩みだ」
柊は少し笑った。笑うつもりはなかったのに、口元だけが先に動いた。
「音楽、やめようと思ってます」
「そうか」
店主は座ったまま言った。
「やめてどうする」
「普通に働きます」
「普通に」
「ええ」
店主はそこで初めて棚の方へ視線を向けた。しばらく背表紙を眺め、一冊を引き抜く。
古い本だった。表紙はすり切れ、タイトルは読めない。著者名も消えかけている。渡されて開くと、歌詞が並んでいた。古い歌の、古い言葉。
「歌詞集ですか」
「百円だ」
柊は財布を出した。
アパートに帰ると、柊はギターケースを壁に立てかけた。
シャワーも浴びず、ベッドに腰を下ろして歌詞集を開く。古い紙の匂いがした。知らない曲の歌詞が続いている。
三分の一ほど読んだところで、手が止まった。
見覚えのあるフレーズがあった。
柊は目を疑い、もう一度読む。間違いなかった。半年前に自分が書いた歌詞と、ほとんど同じフレーズだった。言葉の順番が少し違うだけで、メロディまで頭の中で同じように鳴った。
既視感ではなかった。
もっと奇妙な感覚だった。自分が書いたものが、すでにここにある。先に書かれていた。
動けなかった。
ページをめくると、最後の一節に、活字ではない手書きの文字があった。
「あなたはもう一度、ステージに立つ」
柊はその一文を、何度も読んだ。
やめようと思っていた。諦める理由は全部揃っていた。仲間は先に行った。自分には才能がない。続けても意味がない。
——そう思っていた。
でもこの一文を読んだとき、柊の中で何かが静かに向きを変えた。
その夜、柊はギターを手に取った。
ライブは二週間後だった。
小さなライブハウスで、客は三十人もいなかった。でも柊はステージに立った。本に書いてあったから、ではない。少なくとも、その瞬間はそう思っていた。やりたかったから立った。
演奏が始まり、最初の一音を鳴らしたとき、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
ずっとここに戻りたかったんだと、ふと腑に落ちた。成功とか、メジャーとか、そういうことじゃない。ただ音を鳴らして、それが誰かに届く瞬間のために、ずっとやってきたんだと。
ライブが終わり、柊はステージの袖に引っ込んだ。
スマホに、未読のメッセージがあった。
ライブ中に届いていた。送り主の名前を見た瞬間、息が止まる。ずっと連絡を取っていなかった人だった。
「今日、見に行こうと思ってたけど、ごめん、行けなかった」
それだけが書かれていた。
しばらく、画面を見ていた。
ああ、これでよかったんだ、と。
でも同時に、もう遅いとも思った。
その三ヶ月後、柊は別の本を読んでいた。オーディションの前夜だった。
あの歌詞集ではない。名前のない、別の本。ページをめくると、一行だけ書かれていた。
「その扉は、お前のための扉ではない。」
その一文を前に、動けなくなった。
信じた。——迷っていたからだ。
翌朝、柊はオーディションに行かなかった。
それが正しかったのかどうか、今でもわからない。本が止めたのか、自分が止めたかったのかも、もう分からない。
ただ一つだけ確かなのは、あの夜届いたメッセージに、柊はまだ返事をしていないということだった。
*
静けさだけが残った。
那由は柊の顔を見ていた。柊は窓の外を見ている。本屋の小さな窓から、石畳の一部だけが見えた。
「本に書いてあったからやったのか——やりたかったからやったのか、もう分からない」
那由は言葉を返せなかった。
「でも」と柊は続けた。
「やったことは、後悔してません。やらなかったことの方が」
そこで言葉が止まった。
那由は田辺さんのメールを思い出した。面白い。でも出せない。間違ってないのに通らない。その感触が、柊の言葉に重なる。
——やらなかったことの方が。
那由は、今日ここに来なかった自分を想像した。メールを読んで、塞ぎ込んで、部屋にいた自分。そちらの方が、ずっとつらかった気がした。
「私も」と那由は言った。
「やったことは、後悔したくないと思ってます」
柊は少し間を置いて、那由を見た。
「那由さんは」と柊は言った。「その後返事は出しましたか」
「もう少し著者のことを調べて、もう一度出してみます、って書こうと思ってます」
柊はそれを聞いて、小さく頷いた。
「それがいいと思います」
その言葉が、静かに残った。
那由はそのとき気づいた。この人が来ない日が続いたら、と想像すると、少しだけ胸が詰まる。
いつも棚の前にいる人。いつも選ばない人。——でも、いる人。
帰り際、那由はカウンターに置いてある歌詞集に目を留めた。
柊が持ってきたものだろうか。古い表紙はすり切れ、タイトルは読めない。手に取って、奥付を開く。
編集担当の名前が、かすれた活字で印刷されていた。
——見覚えがあった。
那由はもう一度、目を凝らした。
その名前は、那由が編集者を目指したきっかけになった人のものだった。十年以上前に業界から姿を消した、伝説と呼ばれた編集者。まだ一度も会ったことのない人。
那由は顔を上げた。
「店主さん」
奥から店主が出てくる。
那由は歌詞集を差し出した。「この編集者を、ご存知ですか」
店主は歌詞集を一瞥し、それから那由を見た。
「あいつはな」
「本じゃなくて、人間を編集してた」
それだけ言って、また奥へ引っ込んだ。
歌詞集を手に持ったまま、しばらくそこに立っていた。
あの店で渡されるのは、本じゃないのかもしれない。
そう思いながら、那由はそっと歌詞集を元の場所に戻した。
——それでも、人はそれを開いてしまう。
次に手に取る一冊は──
その代償を、那由はまだ知らない。
__
#創作大賞2026 #エンタメ原作部門
▶ 次の話はこちら
◀︎前の話はこちら