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一冊だけの本屋⑦

    第7話(最終話) あなたの物語


    この物語の編集者は、あなたです。


     通告は、一枚の紙だった。
     A4サイズ、。横書き。フォントはゴシック体十二ポイント。「退職通知書」という題名の下に、整然と並んだ文字列は、如月那由のこれまでの八年間を、過不足なく終わらせていた。

     貴殿の雇用契約は、本書面をもって終了とします。

     那由はそれを三回読んだ。一回目は意味を理解するために。二回目は見間違えではないかと確かめるために。三回目は、もはや意味などなかった。

     同じ朝、もう一通のメールが届いていた。
     差出人は、担当作家の桐嶋透(きりしまとおる)の妻だった。件名は「夫のことについて」。本文は短く、丁寧で、残酷だった。――夫は昨夜、主治医から宣告を受けました。今後、執筆を続けることは難しいと、本人も決意したようです。長い間、支えてくださって、ありがとうございました。

     那由はスマートフォンを机に伏せた。

     窓の外、9月の空が白すぎた。


     電車に乗ったのは反射的だった。
     どこへ行くかも考えていなかった。ただ、部屋にいられなかった。自分の本棚が目に入るのが耐えられなかった。自分がこれまで世に送り出してきた本たちが、背表紙を並べて立っているのが。

     誰も、救えなかった。

     桐嶋の新作は、刊行の目途が立たないまま三年が経っていた。担当として伴走してきたつもりだった。原稿のたびに赤を入れ、電話で話し込み、締め切りを一緒に乗り越えてきた。それでも、彼の体は、止まった。

     自分が救えたものは何もない、と那由は思った。

     いや。
     本当は、もっと前から気づいていた。

     本に呼ばれるように、自分はいつも「人の物語」の脇に立っていた。編集者だから、それは当然のことだと思っていた。著者が主役で、読者が主役で、自分はあくまで「橋渡し」だと。

     でも。

     那由は窓の外を流れる景色を見つめた。

     橋渡しを続けるだけの人間には、自分の岸がない。


     気がつくと、商店街の入り口に立っていた。
     見慣れた、くたびれたアーケード。その奥、ひと気の途切れた角に、例の本屋がある。

     表に看板はない。照明は控えめで、通りすがりに気づく人などいないだろう。それでも那由には、磁石に引き寄せられるようにして、その場所がわかる。

     ドアを押すと、鈴が鳴った。

     老いた店主が、カウンターの奥に座っていた。いつもと同じ姿勢で、いつもと同じ目で、那由を見た。驚いた様子はまったくなかった。まるで、今日ここへ来ることを、ずっと前から知っていたかのように。

    「いらっしゃい」

     那由は挨拶を返す余裕もなく、まっすぐ歩いた。棚の奥まで進んで、立ち止まり、それから振り返った。

    「桐嶋さんが、筆を折ります」
    「聞いとる」
    「私は、会社を辞めます」
    「知っとる」

    「どうして」
    那由は声を荒げそうになり、かろうじて呑み込んだ。
    「どうして、あなたはいつも知っているんですか。この本屋はいったい、何なんですか。私に何をさせたかったんですか」

     店主が立ち上がった。那由は一歩、後退りしそうになった。言葉でも表情でもなく、ただそこに立っている、それだけで圧があった。

     店主はカウンターの下から、何かを取り出した。

     白かった。

     本だった。ただし、表紙も背表紙も、何も書かれていない白い本。
     そして、その横に、厚みのある原稿の束。クリップで留められた、手書きと印刷が混在した紙の重なり。

     テーブルの上に、静かに置かれた。

     那由は近づいた。

     白い本の表紙を、恐る恐るめくった。

     タイトル欄があった。そこには、こう書いてあった。

     ――一冊だけの本屋

     著者欄には。

     ――如月 那由
    __

     那由は顔を上げた。

    「これは」
    「読んでみ」

     那由は原稿の束を手に取った。

     一枚目。
     書き出しはこうだった。

     「残業で疲れ切ったある夜、私はその本屋に迷い込んだ。店主に差し出された本のタイトルは、『明日、あなたは職を失う』だった」

     那由は息を呑んだ。

     これは、自分が最初に読んだあの本の書き出しではない。あの本を「読んでいた」誰かの物語だ。

     二枚目。

     「推しがわからなくなった、と言って本を買っていった女性がいた。店の外で、嫌いになれない、という声が聞こえた。数日後、SNSに短い言葉が流れた。五年間は本物だった、と」

     三枚目。

     「子どものこと、とだけ言った女性がいた。店主は迷わず一冊を選んだ。タイトルも著者名もない本を。女性はそれを受け取って、店を出た」

     那由は手を止めた。

     この文章を書いたのは誰だ、と思った。
     だが、それは文体の話ではなかった。

     これらの人たちを、那由は知っていた。この本屋で、ほんのいっとき同じ時間を共に過ごした人たちだ。名前を知らないのは、店主と、あの母親だけだった。

     前に来たとき、店主に言われた言葉が頭の中で反響した。
     ――選んだのは、いつもあんたらだ。

    「これを、私が書いたということに……なっているんですか」

    「なっとらん」店主は静かに言った。
    「あんたが書いた分は、まだない。これはここに来た人間が、ここを出た後で生きた物語だ。あんたはそれを目の前で見てきた。ただし」



    「続きを書けるかどうかは、あんた次第だ」


     那由は、白い本を見た。
     著者欄の自分の名前を見た。

     それはまだ、誰の手も加わっていなかった。本の中身は白紙だった。原稿の束の続きは、まだない。タイトルだけがあり、著者名だけがあり、あとはすべて、これから書かれるのを待っていた。

    「どういうことですか」
     那由はもう一度言った。今度は静かに。ただ、確かめたかった。

    「私に、本を書けということですか」

    「人の悩みが少し軽くなる物語を書けるのは、あんたくらいのもんだろう」

    「私は編集者です。書く人間じゃない」

    「だった、だろ」

     那由は黙った。

     店主は続けた。

    「あんたが最初に読んだ本、覚えとるか」

     那由はうなずいた。忘れるわけがなかった。

    「明日、あなたは職を失う」
     その本がなければ、那由はこの本屋に来ることもなかった。

    「あの本の最後に、あとがきみたいなページがあっただろう」

    「……ありました」

    「ちゃんと読んだか」

     那由は記憶を辿った。あのページは、確かに読んだ。短い文章で、本の内容への振り返りが書かれていた。だが、最後の一文だけは、読み飛ばしていた。小さすぎたから。目が疲れていたから。そこだけフォントが一段階小さく、ページの余白に滲むようにして、ほとんど欄外に紛れていた。

     那由はかばんの中を探した。

     まだ持っていた。あの本を。
     読み終えた本を捨てる習慣が、那由にはなかった。

     ページをめくった。最後のあとがき。最後の段落。最後の一文。

     あなたにはまだ、編集できる人生が残っている。

     那由は動けなかった。

     どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。窓の外で、人の話し声がした。商店街の、夕暮れ前の空気。

    「ずっと……ここに、書いてあったんですか」

    「ずっとな」

    「どうして言ってくれなかったんですか」

    「言われた言葉は、その人の物語にならん」

     那由は本を閉じた。
     白い本と、原稿の束を見た。
     自分の名前を、もう一度見た。


     扉の鈴が鳴った。

     柊だった。

     那由は驚いて顔を上げた。柊は入り口に立ったまま、少し呆れたような、でも安堵したような顔をしていた。

    「やっぱりここにいた」

    「なんで」

    「なんとなく」
     柊は歩いてきた。棚の間を抜けて、那由の隣に立った。テーブルの上の白い本を見た。那由の名前が書かれた著者欄を見た。

    「……それ、那由さんのですか」

    「そうらしいの。まだ中身はないけど」

     柊は少し間を置いてから、言った。

    「俺は、本に従う生き方を、やめようと思う」

     那由は柊を見た。

     柊はまっすぐ前を向いていた。棚を見ていた。何百冊もの、他の誰かの物語を眺めていた。

    「この店がなかったら、もっとぐずぐずしてた。でも、もうここに頼りに来るのは終わりにする。自分で決めたいから」

    「それは」
     那由は言葉を選んだ。

    「この本屋との別れ、ということ?」

    「本屋とはな」
     柊は那由を見た。 

    「那由さんとの別れじゃない」

     沈黙があった。

     長い沈黙でも、気まずい沈黙でもなかった。どちらも、その言葉の重さを、静かに量っていた。

     那由は白い本に目を落とした。
     著者欄に書かれた自分の名前。

     それから、思い切って言った。

    「答えを、まだ返していなかった」
     那由は言った。

    「一緒に、何か作りませんか、って。あの言葉」

     柊は少し目を細めた。

    「本を作りたい」と那由は続けた。「私が書く。あなたの音も、一緒に」

     柊が振り返った。

    「俺と?」

    「あなたは、ここで色んな人を見てきた。私も見てきた。二人が見てきたものを、一冊にしたら、もしかしたら、誰かの悩みが少し軽くなるかもしれない」

     柊はしばらく那由を見ていた。

     それから、笑った。小さく、でも本物の笑いだった。

    「仕事の話か、それとも」

    「両方」と那由は言った。

     今度は、迷わなかった。


     店主は二人のやりとりを、カウンターの奥から見ていた。
     何も言わなかった。

     ただ、白い本をそっと那由の方へ押した。

     那由はそれを受け取った。

     受け取った瞬間、不思議なことに、本が少しだけ重くなった気がした。何かが込められたように。あるいは、これから込められるものの予感のように。

     二人は本屋を出た。

     商店街は黄昏が始まっていた。橙色の光がアーケードの隙間から斜めに差し込んでいた。どこかの店から、出汁の匂いがした。子どもが走っていった。

     那由は白い本を両手で持った。

     那由は白紙の本を両手で持った。何を書けばいいか、どんな言葉から始めればいいか、まだわからなかった。ただ、最初の一文だけは、不思議と浮かんでいた。

    「何かを失うことは、何かを得ること。……何かを得ることは、何かを失うこと」
     その先は今日決めなくていいことだと、初めて思えた。

    「どこから書く?」と柊が言った。

    「子どものいるお母さんから」と那由は答えた。『子どものこと、だと思います』ってだけ言って、本を受け取って帰っていった人」

     柊は少し間を置いた。
    「覚えてます」
    「あの人のことを、書きたい」
     二人は歩き出した。
     同じ方向に向かって。


     本屋は、まだそこにあった。

     翌朝も、翌々朝も、看板のない本屋は、くたびれたアーケードの角に、ひっそりと佇んでいた。

     次の誰かのために。

     カウンターには、また新しい一冊が置かれていた。店主が誰かのために選んだ本。タイトルは、まだ読めない。

     それが誰の物語になるかは、その人が扉を開けてから、わかることだ。


     次に買うべき一冊は──
     ただし、その代償はまだ知らない。

     白紙のページが、風でそっとめくれた。

    __
    了
    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門
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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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