
一冊だけの本屋⑥
第六話 あなたは選ばされていると思っている
あなたはずっと、選ばされてきたと思っていた。
でも本当に、そうだったのだろうか。
田辺さんへの返信を送ったのは、三日前だった。
「もう少し著者のプロフィールを整えて、再度提出させてください」
そう書いた。送信ボタンを押した瞬間は、少しだけ軽くなった気がした。でも三日経って、その軽さはもうなかった。
フリーランスの仕事は、少しずつ入り始めていた。知人の紹介で、小さな冊子の編集を一件。単価は低かったが、断る理由もなかった。やればやるほど、自分が何をしたいのか、わからなくなっていった。
その夜、那由は本屋に向かった。
特に理由はなかった。ただ、あの場所が頭から離れなかった。
ドアを押すと、いつもと違う気配がした。
店主がカウンターの前に立っていた。座っていることが多い人なのに、今日は立っていた。カウンターの上に、包装された本が一冊置いてあった。薄い紙で丁寧に包まれていて、リボンはなかったが、明らかに誰かのために用意された形をしていた。
「いらっしゃい」と店主は言った。
那由は店内を見回した。他に客はいなかった。柊もいなかった。
店主は包装された本を、那由の方に押し出した。当然のように。まるで最初からそこに置いてあったように。
那由は、それを取らなかった。
「一人一冊じゃないんですか」
店主の手が、止まった。
那由はそれを見ていた。ほんの一瞬だったが、確かに止まった。これまで那由が見てきた店主は、常に迷いのない人だった。棚から本を選ぶときも、客に渡すときも、値段を告げるときも。迷いがなかった。
でも今、止まった。
「勝手に、続きを決めないでください」と那由は言った。自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
店主は那由を見た。いつもの逃がさない目で。でも今日は、その目の奥に何か別のものがある気がした。
「続きを渡さないと、進めないやつもいる」と店主は言った。
「私は自分で進みます」
「そう言って、動けなくなるやつもいる」
那由は黙った。包装された本を見た。中に何が入っているのか、わからなかった。わからないまま、受け取りたくなかった。
「聞いていいですか」と那由は言った。
店主は答えなかったが、カウンターに寄りかかり、続きを待った。
「なんでこの店をやってるんですか」
しばらく間があった。店の中が静かだった。背表紙がずらりと並んで、黙ってこちらを見ていた。
「差し出すのが、遅かったことがある」と店主は言った。
「一度だけ」
那由はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
「本を、ですか」
「ああ」
「それで……間に合わなかったことがある?」
店主は答えなかった。でも否定もしなかった。カウンターの下に視線を落とした。那由はその視線を追って、カウンターの下の棚を見た。奥の方に、包装されたままの本が一冊あった。埃をかぶっていた。ずっと前から、そこにあるようだった。
誰かのために用意されて、渡されなかった本。
那由は、それ以上聞けなかった。
少し間を置いて、那由は言った。
「本が当たるんじゃないんですか」
店主は顔を上げた。
「当たったと思いたいだけだ」と店主は言った。
「選んだのは、いつもあんたらだ」
「でも」と那由は言った。
「私は選んでない。ずっと、誰かに選ばれる側だった。
少し息を吸ってから続けた。
「編集部でも、会社でも。売れるかどうかでしか見られなくて、私の意見なんて最初から——」
「あの企画書は」と店主が遮った。
「誰が書いた」
那由は黙った。それから、顔を上げた。
「——なんで知ってるんですか」
店主は答えなかった。
「引き出しにしまったのは誰だ。持ち込みに行ったのは誰だ」
「それは」
「あんたが選んでないと言うなら」と店主は続けた。
「あの原稿も、あの作家も、ただ流されて壊れただけってことになる」
「そんなの、あんたが一番許せないはずだ」
那由は何も言えなかった。
店主の言葉が、胸のどこかに刺さっていた。抜けなかった。でも、まだ受け入れられなかった。受け入れてしまったら、何かが変わる気がした。何が変わるのかは、わからなかった。
「受け取りません」と那由は言った。包装された本を見たまま、続けた。
「今日は」
店主は何も言わなかった。
那由はドアに向かった。出る前に一度振り返った。店主はもう椅子に座って、本を開いていた。
包装された本は、カウンターの上に残ったままだった。
石畳の上に出ると、夜風が冷たかった。
那由はしばらくそこに立っていた。手ぶらで来て、手ぶらで帰る。
それでいい気がした。今夜は、何も受け取らなくていい。
スマホが震えた。
画面を見ると、柊からのメッセージだった。
「那由さん、今夜、本屋に行きましたか」
那由は少し驚いた。返信を打ちかけて、止まった。また別のメッセージが来た。
「今日、久しぶりにギターを弾いたんです」
那由はその一文を読んで、何かが胸の奥でかすかに動いた。
返信しようとしたとき、また通知が来た。
「唐突なんですけど、
一緒に、何か作りませんか」
那由は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「音楽でも、文章でも、なんでもいい。
那由さんが持ってる言葉と、僕の音を、どこかでつなげてみたいと思って」
那由は石畳の上に立ったまま、空を見上げた。
一緒に作る。
編集者としてではなく、
誰かの原稿を直すのでもなく。
「那由さん自身の言葉で、書き直してみませんか。那由さんの話を、聞きたいんです」
那由はスマホの画面をもう一度見た。返信を打ちかけた。でも言葉が出てこなかった。
うまく言えなかった。
うまく言おうとすること自体が、もう疲れていた。
画面を一度消して、ポケットにしまった。
今は、どの本も開けない。
でもこのメッセージだけは、まだ開かないでいたかった。
那由が去ると、店内は静かになった。
店主は椅子から立ち上がり、カウンターの上の包装された本を手に取った。しばらく眺めてから、カウンターの下の棚に戻した。埃をかぶった古い包装の隣に。
「また、選ばせられなかったな」
誰にともなく、そうつぶやいた。
棚の本たちは、黙っていた。
次に手に取る一冊は──
その代償を、那由はまだ知らない。
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