
一冊だけの本屋①
📕あらすじ
編集者の如月那由は、仕事帰りのある夜、見知らぬ路地に迷い込み、看板のない小さな本屋に引き寄せられる。店主は客一人に一冊だけ、タイトルも著者名もない本を百円で差し出す。予言のように書かれた言葉は、時に残酷で、時に静かに人の背中を押す。那由はこの店で、推しへの愛に揺れる女性、子育てに追い詰められた母親、夢を諦めた男・柊と出会う。やがて那由自身も問われる。選ばされる側で生きてきたのか、それとも自分で選んできたのか。仕事も居場所も失った先で、那由は初めて「書く側」になることを決意する。何かを失うことは、何かを得ること。白紙の本が、静かに風でめくれた。
第一話 あなたは明日、職を失う
あなたは明日、職を失う。
そして、それが始まりになる。
10月の終わりの、妙に生あたたかい夜だった。
地下鉄の出口を上がって3分も歩けば自宅マンションに着くはずが、那由はいつの間にか見知らぬ路地に入り込んでいた。考え事をしていたわけでもないのに。ただ、さっきまで何を考えていたのか、うまく思い出せなかった。最近、ずっとこんな感じだった。
おかしい、と思った。この街に住んで6年になる。道に迷うような場所ではないはずだった。
路地は細く、街灯がひとつだけ、オレンジ色の光を石畳に落としていた。両側に古い建物が並んでいるが、どの店も看板を出していない。シャッターが下りているわけでもなく、かといって営業している様子もない。ただそこにある、という感じの建物たち。
引き返せばいい。そう思ったのに、なぜか引き返せなかった。足が止まったというより、体が選んでいた、という感じだった。
一軒だけ、明かりがついていた。
ガラス張りの小さな店。外から見ると、壁一面に本棚があるのがわかった。天井まで届く棚に、背表紙がぎっしりと並んでいる。古本屋、だと思った。看板はなかった。ドアに、手書きの紙が一枚貼ってあるだけだった。
那由は一度読み流して、ドアに手をかけた。でも止まった。もう一度見た。
「一人につき、一冊」
意味はわかる。でも何かが、ひっかかった。
那由は少し考えてから、ドアを押した。
ベルも鳴らなかった。
店の中は、外から想像したよりずっと狭かった。三坪あるかないか。本棚と本棚の間の通路は、那由が横を向かなければ通れないくらい細い。天井が高いせいで、棚の上の方の本には脚立を使わないと届かなそうだった。
棚の前に、先客が一人いた。男で、背表紙をじっと見ていた。那由が入ってきた気配に気づいているのかいないのか、動かなかった。なぜかそれが、少し印象に残った。
においがした。古い紙と、かすかなコーヒーのにおい。どこかで豆を挽いているのか、それとも染みついているのか。
「いらっしゃい」
声が聞こえて、那由は奥を見た。
カウンターの向こうに、男が座っていた。年齢がよくわからない人だった。四十代にも六十代にも見える。白髪交じりの短い髪に、くすんだ水色のシャツ。読んでいた本を伏せて、那由を見ていた。値踏みするような目つきだったが、不快ではなかった。
「迷い込んだ顔してる」
「……そうかもしれません」
「初めての人はみんなそういう顔だ」
店主は立ち上がった。背が高い。棚に手を伸ばすのに、脚立はいらなそうだった。
「今日は何の悩みだ」
「悩み?」
店主はそこで一度、那由をまっすぐ見た。逃がさない感じの間があった。
「悩みのない人間はここに来ない」
那由は少し考えた。どこから話せばいいかもわからなかった。今日の悩み。今日だけに限定するのが難しいくらい、悩みならいくらでもあった。
三年かけて育てた著者が、他社に引き抜かれた。半年前に出した本は初版で止まった。上司に出した企画は5本連続でボツになった。そして今日、部長に呼ばれて「来月から体制を見直す」と言われた。その言い回しの意味を、那由はちゃんと理解していた。
——全部、うまくいっていなかった。
「仕事、ですかね」と那由は言った。
店主はすでに棚の前に立って、背表紙を指でなぞっていた。迷う様子がなかった。最初から決まっているみたいに、一冊を引き抜いた。
表紙は地味だった。淡い青地に、タイトルも著者名もない。印刷された痕跡すらなかった。那由が表紙を返すと、裏にも何もなかった。まるで最初から、何も書かれていないはずの本みたいだった。
「これは?」
「読めばわかる」
「いくらですか」
「百円」
安い、と思った。安すぎる、とも思った。でも那由は黙って財布から百円玉を出して、カウンターに置いた。
店主はそれを見もせずに、また椅子に座って伏せていた本を開いた。
それ以上、話す余地はなさそうだった。
マンションに帰り着いて、シャワーを浴びて、ソファに座って、那由はその本を開いた。
最初の一ページに、こう書いてあった。
あなたは明日、職を失う。
那由はしばらくその一文を見ていた。まばたきを忘れていた。息が、少し浅くなっていた。
笑えばよかったのかもしれない。変な本を掴まされた、と。
——でも、できなかった。今日の部長の「体制を見直す」という言葉が、まだ耳に残っていた。
ページをめくった。
二ページ目以降は、普通の小説だった。主人公は三十代の女性で、出版社に勤めていて、ある朝突然リストラを宣告される。どちらが物語の外なのか、わからなくなりながら、それでも読み続けた。
やめようと思った。でもページを閉じられなかった。気がつくと、夜中の二時になっていた。
翌朝、部長に呼ばれた。
「君の今後についてなんだが」という出だしで、那由にはもう十分だった。もう知っている話だった。
「わかりました」と言って、立ち上がった。
「君は優秀だよ」と部長は言った。その言葉が、何かを終わらせた気がした。
那由は何も言わなかった。優秀、という言葉がどれだけ空虚に響くか、部長は知らないんだろうと思った。三年間、那由は優秀だったかもしれない。でも優秀であることと、やりたいことをやれることは、まったく別の話だった。
自席に戻って、引き出しを開けた。
一番下の引き出しの奥に、企画書が一冊、眠っていた。六ヶ月前に仕上げて、上司に出して、「市場性がない」と三分で返されたやつだ。一番、やりたかった企画だった。那由はそれをクリアファイルごと取り出して、バッグに入れた。
退職の手続きは来週でいい。今日やることが、一つある。それはもう、決まっていた。
昼休みに会社を抜け出して、那由は電車に乗った。
向かったのは、神保町の小さな出版社だった。社員が十人もいない、でも何度も棚の前で足を止めたことがある本を出しているところだった。一度だけ仕事で接点があって、名刺を交換した編集者がいた。
アポなしだった。非常識だとわかっていた。でも今日じゃないと、一生できない気がした。——明日がどうなるか、もう知っていたから。
受付で名前を告げると、五分待たされてから通された。担当の編集者——田辺さんというひとで、那由より少し年上の女性——は、那由の顔を見て少し驚いた様子だったが、「どうぞ」と椅子を引いてくれた。
「折り入って相談があって来ました」と那由は言った。
「今日で会社を辞めることになりました。それで、これを」
企画書を差し出した。
「会社でボツになった企画です。でも私は、これは絶対に面白いと思っています。読んでいただけませんか」
田辺さんは黙って表紙を見た。指先が、角をゆっくりなぞった。那由は息を止めていた。時間が、妙に引き伸ばされた感じがした。
「……置いていっていいですよ」と、田辺さんは言った。
「読みます」
その一言で、何かがかすかに動いた気がした。約束はそれだけだった。出版してもらえるかどうかも、返事がもらえるかどうかも、わからなかった。でも那由は、神保町の駅に向かいながら、胸の奥に溜まっていた何かが、やっと外に出た気がした。六ヶ月ぶりだった。
会社への反撃じゃない。ただ、この企画だけは死なせたくなかった。それだけを、那由は選んだ。
夜、もう一度あの本を開いた。
どこまで読んだかわからなくなっていて、ページを開いたら、こんな一節があった。
失うことでしか、手に入らないものがある。
那由はその一文から、目を離せなかった。
窓の外、あの夜と同じように、妙に生あたたかかった。
ふと、昨日の本屋のことを思い出した。帰り際、棚の前に立っていた男のことを。目が合って、でもどちらも何も言わなかった。ただ少しだけ、会釈した。なぜか、そのことだけは妙に印象に残っていた。なんとなく、また会う気がした。根拠はなかった。
また行くことになる気がした。そう思ったのは、たぶん——
理由は、うまく言葉にならなかった。
この人の人生は、あと16時間で壊れます。
——だが、壊れた先に何があるかは、本には書かれてなかった。
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