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本能寺の変1582 【重史239】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史239】 『信長公記』

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     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
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    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史239】 18~19/19

    ①此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、

    ②父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、

                           『信長公記』


     天正八年1580、八月**。
                 1580108**

     信長は、信盛を切り捨てた。
     「手柄を上げる」か、「討死」するか。
     これすなわち、「不要」の意。
     
     18一、此の上は、いづかた(何方)の敵をたいらげ、
        会稽(かいけい)を雪(そそ)ぎ、一度帰参致し、
        又は、討死する物かの事。

     信長は、不意を衝く。
     恐ろしい時代だった。
     正に、「一寸先は、闇」。
     信盛は、全く、予期していなかった。

     そして、追放。
     高野山へ。
     信盛は、従う他なかった。

     19一、父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
        連々以て(それをずっと続ければ)、
        赦免、然るべきやの事。
                              (『信長公記』)

     信盛は、全てを失った。
     地位も、名誉も、所領も、家臣も、財産も。
     一瞬にして、奈落の底へ。



     【引用】【粛清 佐久間信盛】
         【四国問題】 天正十年1582 五月十二日
         ◎第14話

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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