メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史235】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史235】 「イエズス会日本年報」

    はじめに ←目次  
    ←【 重要史料 】 【全】 【 重史一覧 】
     【四国問題】 八 九 十 【四国問題 概要】 八 九 十 ←  
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史235】

    ①信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、

    ②心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、

    ③常に日本の人心を収攬し、

    ④短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、

    ⑤日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。

    ⑥彼は益々その勢力と名声を現はさんため、

                      「イエズス会日本年報」


     天正十年1582、五月**。
                 1582005**

     信長は、大衆に人気があった。
     「常に日本の人心を収攬し」、とある。
     フロイスの観察眼は、鋭い。

      彼(信長)が僅かに尾張といふ一国の半ば領主より、
      その努力と武勇とによって公方様(将軍 足利義昭)すなわち全日本の王、
      すなわち全日本の王、内裏につぐ、第二人者である人に
      都を治めさせたこと、

      また信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、
      心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、
      常に日本の人心を収攬し、
      公方を都より追うて天下(すなわち日本王国)と称する隣接諸国の征服に
      着手したことは(以下略)・・・・・。

     信長の野望は、止まるところを知らず。
     「天下布武」=「日本統一」を成し遂げれば、・・・・・。
     次は、「さらなる夢」へ。
     これすなわち、信長の野望。
     拡大意欲は、衰えず。
     戦いは、まだまだ続く。 

      而して(そして)これに成功したため、
      信長の名誉と領土は広がり、
      短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、
      征服したる諸王を殺し、多くの宝を集め、
      日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。

      彼は益々その勢力と名声を現はさんため、
      記憶すべき多くのことをなしたが(以下略)・・・・・。
               
    (「イエズス会日本年報」天正十年十月二十一日付)


     【引用】【四国問題】 天正十年1582

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ