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本能寺の変1582 【重史262】 №6-166 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史262】 №6-166

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
     
     1戦国時代=相互不信の時代
      2美濃
      3尾張
    ←2 光秀の実像
     
     1信長という男
      2光秀という男
      3光秀と光慶  1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
      4先祖の教訓
      5大量殺戮
      6信長の弱点
    ←3 光秀の苦悩
     
     1粛清の怖れ
      2志向の相違
      3光秀の老い
      4四国問題
      5自立への道
    ←4 武田の滅亡
     
     1甲斐遠征
      2勝頼の首
      3武田効果
    ←5 信長の油断
      
    「事態急変」
      1 勝利の余韻 概略 4月21日 24日
      2 四国出陣  概略 5月7日 1/3 2/3 3/3 11日
      3 足蹴事件  概略 5月12日 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 15日
                密室にて 1/3 2/3 3/3 ① ② ③ ④ ⑤
      4 中国出陣
      5 時は今、・・・・・。
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
    ←【人物】
    ←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
    ←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
    ←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
    ←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
    ←【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正 

    【重史262】 №6-166

    ①是れは遠州表の事。

    ②武田信玄、遠州二股の城取り巻くの由、注進これあり。

    ③信長公御家老の衆、佐久間右衛門・平手甚左衛門・水野下野守

    ④大将として、御人数、遠州浜松に至り参陣のところに、

    ⑤家康も浜松の城より御人数を出だされ、

    ⑥身方ヶ原にて足軽ども取り合ひ、

    ⑦家康公・・・身方ヶ原のきし道の一騎打ちを退かせられ候

    ⑧(家康)浜松の城堅固に御拘(かか)へなさる。

    ⑨信玄は、勝利を得、人数打ち入れ候なり。

                           『信長公記』


    元亀三年1572、十二月二十二日。
                  157211222

    武田軍と徳川軍が三方ヶ原で激突した。

    武田信玄、南下。
    家康の領国 遠江に侵入した。
    家康は、これを信長へ。

      是れは遠州表の事。
      霜月下旬、武田信玄、遠州二股の城取り巻くの由、注進これあり。

    信長は、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元ら三千余の援軍を派した。
    浜松に到着。
    家康と合流。

      則ち、
      信長公御家老の衆、佐久間右衛門・平手甚左衛門*1・水野下野守*2、
      大将として、御人数、遠州浜松に至り参陣のところに、

      早(はや)、二股の城*3攻め落とし、
      其の競(きお)ひに、武田信玄、堀江の城*4へ打ち廻り、相働き候。

      *1 平手汎秀(ひろひで) 平手政秀の三男。政秀は信長を諌め自刃した。
      *2 水野信元 徳川家康の伯父。母の兄。緒川城主(知多郡東浦町緒川)。
      *3 二俣城 浜松市天竜区二俣町二俣(城山公園)
      *4 堀江城 静岡県浜松市西区舘山寺町

    家康は、籠城せず。
    浜松城から、三方ヶ原へ打って出た。

    徳川軍は、織田の援軍を合わせて一万一千ほど。
    血気にはやる家康、三十歳。
    信玄を追撃すべく、鶴翼の陣形で迫ったという。
     
    しかし、これが信玄の作戦だった。
    どうやら、信玄の方が役者が一枚上手だったようである。
    家康を挑発し、仕掛けた罠に誘い込む。

    武田軍は、進軍の向きをくるりと変えた。
    兵の数は、二万五千~三万ほど。
    老練の信玄、五十二歳。
    家康を手玉に取った。
    魚鱗の陣形で徳川勢を迎え撃ったと伝わる。

    家康は、ものの見事に信玄の術中に嵌まった。
    全ては、信玄の思惑通り。

    斯くして、戦いが始まった。
    戦いは夕刻に始まり、ほどなくして勝敗が決した。

      家康も浜松の城より御人数を出だされ、
      身方ヶ原にて足軽ども取り合ひ、

      佐久間・平手を初めとして、懸けつけ、
      互いに人数立ち合ひ、既に一戦に取り向かふ。
     
      武田信玄、水股の者と名付けて、三百人ばかり、真っ先にたて、
      彼等にはつぶてをうたせて、推し大鼓を打ちて、人数かゝり来たる。

    平手汎秀、討死。
     
      一番合戦に、
      平手甚左衛門・同家臣の者、家康公の御内衆、成瀬藤蔵(正義)、
      十二月廿二日、身方ヶ原にて、数輩討死これあり。

    この戦いで、信長の元家臣・佐脇良之らが奮戦のすえ討死したという。
    佐脇良之は、前田利家の弟。
    彼らは、信長の勘気を蒙り家康のもとにいた。
     
      さる程に、
      信長公、幼稚より召し使はれ候御小姓衆、長谷川橋介・佐脇藤八・
      山口飛騨・加藤弥三郎四人、
      信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑(たの)み奉り、遠州に身を隠し、
      居住候ひし。
      是れ又、一番合戦に一手にかゝり合ひ、手前比類なき討死なり。

    具足屋玉越三十郎のこと。
     
      爰(ここ)に希代の事あり。
      様子は、
      尾州清州の町人、具足屋玉越三十郎とて、年の頃廿四、五の者あり。
      四人衆見舞ひとして、遠州浜松へ参り候。
      折節、武田信玄、堀江の城取り詰め、在陣の時に候。
     
      定めて此の表相働くべく候(=必ずこちらにも攻めて来るだろう)。
      さ候はば一戦に及ぶべく候間、早々罷り帰り候へと、
      四人衆、達つて異見候へば、
      是れまで罷り参り候のところを、はづして罷り帰り候はば、
      以来、口はきかれまじく候間、
      四人衆討死ならば、同心すべきと申し切り、罷り帰らず、
      四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。

    徳川軍は、総崩れ。
    家康は、命からがら浜松城に逃げ帰った。


    大軍勢を擁した武田軍の圧倒的な勝利である。
    しかし、信玄は攻城せず。
    そのまま西進。
    刑部(おさかべ)*にて、越年する。
     
      家康公、中筋切り立てられ、軍の中に乱れ入り、左へつきて、
      身方ヶ原のきし(=崖)道の一騎打ち(一騎懸けの細道)を退かせられ候を、
      御敵、先に待ち請け、支へ候。
      馬上より御弓にて射倒し、懸け抜け、御通り候。
      是れのみならず、弓の御手柄今に始まらず。
      浜松の城堅固に御拘(かか)へなさる。
      信玄は、勝利を得、人数打ち入れ候なり。
                               (『信長公記』)

      *刑部 静岡県浜松市北区細江町中川

    佐久間信盛・水野信元は、戦わずに逃げた。

    信長は、執念深い。
    根に持つタイプ。
    後で、必ず、蒸し返す。

    このことを忘れなかった。

    何しろ、相手は武田信玄。
    それも、大軍勢。
    「衆寡敵せず」
    彼らは、生き残ることを優先した。
    しかし、そのことが裏目に出る。
    「災いの種」
    彼らは、自らの手でそれを蒔いてしまった。

    信長は、合理主義者。
    この時は、目を瞑った。
    未だ、必要とされた。

    だが、やがて、用済みになる時が来る・・・・・。

    信長は、疑い深い。
    後年、この時の行動を問題視。

    戦いが終われば粛清が始まる。

      飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)る、
      狡兎(こうと=うさぎ)死して、走狗(そうく=犬)烹(煮)らる、
                     【重史009】 (「史記」越王勾践世家)

    「問答無用」
    二人とも、粛清される。

    天正三年1575 五月  長篠の戦い。
            十二月 水野信元、切腹。
    天正八年1780 八月  本願寺、退城。
            同   佐久間信盛、追放。


     【引用】


     【参照】
     【重史238】 16~17/19           公 天正08 1580108**
      ①三十年奉公を遂ぐるの内に、
      ②比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
      ③先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
      ④一人も殺さず。
      ⑤剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、
                                『信長公記』



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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