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本能寺の変1582 【四】十 0512 7/7 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【四国問題】天正十年1582 5月12日 7/7

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】
     【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正

    天正十年1582 5月12日 7/7

    十 目次

     〃 〃 7/7 【重史236】          ✓ 天正10 1582005**
    信長は、傲慢になっていた。
    フロイスが、証人である。
    余程、強い印象を受けたのだろう。
    「傲慢」「驕慢」を多用している。

      ①彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑した
      ②我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
      ③彼(信長)は数回説教を聴き、
      ④傲慢であるためデウスの御恵を受くることができなかった。
      ⑤謙遜することなく、かへって益々傲慢となり、
      ⑥ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
                           「イエズス会日本年報」

       【参照】【重史052】
           「かくの如く驕慢となり」
                          
    (「イエズス会日本年報」)

    このことが、「信長の油断」へと繋がった。

    そして、五月二十九日へ・・・・・。          →【重史033】



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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