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本能寺の変1582 【 重史 019 】 250924 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【 重史 019】「武家事紀」    250924

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 250924 

    【 重史 019】 ◎第116話             250924

    ⑧相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、

    ⑨甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、

    ⑩路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、

    ⑪京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、

                           「武家事紀」


     天正十年1582、三月十七日。             158200317
    【 重史 018】(①~⑦/⑪) ←

     信長は、松井友閑へ戦勝を伝えた。2/2

     ⑧信長は、北条氏との友好関係を保持していた。

       相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
       東八箇国の儀は勿論、異儀なく隙を明け(平和である)候、

     ⑨信長は、信忠を現地に残した。

       然らば、甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
       信長は、不日帰国すべく候、

     ⑩信長の、老臣に対する姿勢である。

       爰許(ここもと)見廻り、無用に候、
       年寄ども、呼び寄すべきと存じ候へども、
       路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候、

     ⑪信長は、友閑に、世に喧伝するよう命じた。

       此の口の趣、安土へも未だ申し越さず候、
       京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
       其の為に具(つぶさ)に染筆候也、

         三月七日(十脱)        信長
         宮内卿法印
               (「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑧~⑪/⑪)


     【引用】


     【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
     【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話

     【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
         そ第74話② 武田効果 
     【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話
         信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
         「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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