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人口減少社会を生きる③:人のつながりの合間

    1. 人口減少社会を生きる①:「ふるさと」は記憶でつくられる(https://note.com/knt_music_lab/n/nb5562429df21)(5月5日20時公開)

    2. 人口減少社会を生きる②:「ふるさと」と「私」は揺らぐ(https://note.com/knt_music_lab/n/n2e318c626cd8)(5月12日20時公開)

    3. 人口減少社会を生きる③:人のつながりの「合間」(https://note.com/knt_music_lab/n/nd2b574b83d61)(5月19日20時公開)

    4. 人口減少社会を生きる④:それでも「ちいき」は続いていく(5月26日20時公開)(https://note.com/knt_music_lab/n/n2612d56d2c5f)

    関係は「合間」に生まれる

    「私」がわかってきたとき、人は自然と他者へと向かいます。では、そのつながりは、どのようにして生まれ、社会を動かしていくのでしょうか。

    人と人の関係は、それぞれが独立して存在し、そのあとで結ばれるのではありません。むしろ、関係の中で、「私」も「他者」も少しずつ変わっていく。その変化のプロセスそのものが、関係なのだと思います。

    近づきすぎると息苦しくなる。離れすぎると、何も響かない。重要なのは、完全に一致することでも、完全に分かれることでもなく、それぞれのリズムを保ちながら、同じ時間に居合わせることです。すべてが理解できなくてもいい。つながりきれない部分があるからこそ、その合間の中で、人はそっと寄り添うことができます。

    あるとき、名古屋でのまちづくりワークショップに講師として参加しました。主催者が赤い眼鏡をかけて登場し、「この眼鏡をかけると、まちの新たな側面が見えてくる」と言いました。参加者たちはまちを歩き、発見したことを新聞にしたり、私やプロのミュージシャンとともにまちのことを歌にしたりしました。

    赤い眼鏡一つが、場の空気を変え、見慣れたまちを別の場所に変えてしまう。関係は、こうした小さなきっかけの合間から生まれるのだと感じました。

    数年前、恩人や仲間とともに久留米で法人を立ち上げました。まちに新しい視点をもたらすような活動を、少しずつ始めています。今飼っている犬のイラストに赤い眼鏡をかけたその法人のロゴは、あの日の記憶と、これからへの思いを重ねたものです。

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    赤い眼鏡をかけた犬のロゴ

    奄美との出会い「はなはな」

    私が奄美大島と関わるようになったのも、縁と記憶の積み重ねでした。
    きっかけは、使われなくなりつつある大島紬をどう活かすかという、大学での私のゼミ演習でした。そこで出会った地元の方々との交流、家に招かれての食事、カラオケ。そうした時間の中で、「はなはな」という言葉を教えてもらいました。
    奄美大島で「はなはな」は、乾杯を意味する島口(方言)です。お酒を飲む時に、「お疲れ様」や「良かったね」といった親しみや労いの気持ちを込めて「はなはな」と言います。同じ日本語を話すのに、その時はじめて聞いたその言葉。その語感やリズムにとても惹かれました。

    人と人が同じ場に集い、笑い、声を交わす中で、そこにしか生まれないリズムが立ち上がります。それは、誰かが設計したものではなく、関係の合間から自然に生まれるものです。

    価値観や背景が異なっても、人は一瞬にして仲間になれる。その喜びを描いたのが「はなはな」という楽曲です。失敗も旅立ちもすべて祝福し、前へ進む生命力が、この言葉には宿っている気がします。

    他者の中に、記憶の断片を配置する

    私は長いあいだ、意図的にSNSから距離を置いていました。
    常に他者の視線が流れ込み続ける環境の中で、自分の感覚や思考の輪郭が薄れていく気がしたからです。
    特に、地域や記憶、感覚のような、ゆっくりと時間をかけて立ち上がるものを考えようとするとき、即時的な反応や評価から距離を取る必要があるように感じていました。
    しかしその一方で、ある頃から別のことを考えるようになりました。
    自分では「何気なく続けているだけ」と思っているような行為も、他者から見たときには、まったく違う意味を持って現れているのではないか、ということです。

    そこで私は、一定期間、SNS上で間接的に自分を表現する実験を始めてみようと思いました。
    日常を直接語るのではなく、音楽や文章、短い映像や風景を通して、自分という存在が他者の中でどのように立ち上がるのかを試してみたかったのです。
    もちろん、何でもよかったわけではなく、ある程度、作品や考えが自分の中でまとまり始めたタイミングでなければ成立しないとも感じていました。そこに時間の層や感覚と思考の連続性がなければ、単なる情報の消費で終わってしまうからです。
    だから今、「人口減少社会を生きる」というこのシリーズを含めて、音楽、文章、画像、映像、短い言葉を少しずつSNSへ流しています。
    それは再生回数などへの宣伝というより、自分だけの「記憶・思考の断片」やその表現が、どう配置されると、他者の中にどのような像として立ち上がるのかを試す実験に近いものです。
    こうした断片的な表現の実験に、関心を持つ人もいるかもしれませんし、まったく気にも留めない人もいるかもしれません。何かが響くこともあれば、何も残らず流れていくことも多いと思います。
    それも含めて、一人でもいいので、「私」と他者、人と人とのあいだで、記憶や物語のつながりがどのように立ち上がっていくのかを、確かめてみたいと思いました。それにより、自分の知らない、新たな「他者」の一面も知ることができるはずです。

    新しい「つながり」

    SNSに「記憶・思考の断片」を流していく際、もう一つのことを意識するようになりました。それは、対面的な共同体とは異なる、新しい「つながり」が生まれる可能性です。

    SNS上の関係は、多くの場合とても弱いものです。一瞬だけ映像を見る。短い言葉を読む。音楽を聴き流す。それだけで終わることも少なくありません。しかしその一方で、そうした断片が、誰かの記憶や身体感覚に静かに残り、時間差を伴いながら、どこかで他者とつながっていくこともあるように感じています。

    それは、従来の地域共同体のように、常に顔を合わせ、強く結びつく関係とは異なります。むしろ、遠く離れた場所で、互いの生活をほとんど知らないまま、それでも何かの感覚だけが微かに共有されるような関係です。

    弱いけれど、完全には切れない。そして時に、その弱さゆえに、強く残る。SNSによって、そうした新しい「合間」の関係性が生まれ始めているのではないかと感じています。実際、間接的に自分を表現する作品の一部をSNS上に流すと、言葉もわからない海外の方からの反応が多いことが分かってきました。そして、多くの場合、そのような方々も何らかの形で自己表現をSNS上でされています。

    地域を越えて、それぞれ異なる土地で生きる人々が、記憶や感覚の断片を通して、ゆるやかにつながっていく。それは、これまでの人と人との関係とは少し違う、新しい公共性の芽なのかもしれません。

    揺らぐ輪郭

    人は、何を見て、何を覚え、どのように他者を理解していくのか。
    そして、地域や社会は、どのような記憶によって形作られていくのか。
    SNSもまた、その問いの延長線上にあるのかもしれません。
    そして、それは、AIの登場によって、さらに大きく揺さぶられています。
    AIとSNSによって、人の自己表現の幅は、かつてないほど広がりました。文章、映像、音楽、世界観。以前なら専門的な技術や組織が必要だったものを、個人でも形にできる時代になっています。
    自分という輪郭は、技術によってどこまでも外側へ広がっていく。
    しかしその一方で、輪郭が広がれば広がるほど、自分の内部は大きく揺らぎ始めます。
    どこまでが自分で、どこからが技術なのか。表現が増えれば増えるほど、中身が空洞化していくような気すらします。
    だからこそ今、重要なのは、「どれだけ表現できるか」だけではないのかもしれません。
    何を物語として記憶し、何を引き受け、どのような時間を生きているのか。その厚みが、以前にも増して問われているように感じます。

    私(I)・AI・愛・合間

    「はなはな」と同じく奄美群島に由来する旋律をもとにした「アイノシマ」は、I(私)、AI、愛、そして「合間」という複数の意味を重ねた楽曲です。
    見知らぬ土地に足を踏み入れるとき、人は不安と期待の入り混じった感情を覚えます。しかし、その場所こそが、新しい自分を呼び起こす場にもなります。
    関係が深まるからこそ、別れが生まれる。
    その余韻まで含めて、この楽曲では、現代の地域と技術、人と人との関係を描こうとしました。
    AIは情報を生成できます。しかし、意味を生きることはできません。
    記憶に深さを与え、意味をつくるのは、あくまで人間です。
    だからこそ、人と人の合間に生まれるもの、その関係性そのものが、これからの地域の核心になっていくのだと思います。
    この楽曲も、幸いにも国際映画祭で賞を頂きました。
    AIとヒト、土地の記憶や、人と人の合間というテーマは、国や文化を越えて響くものなのだと、あらためて感じています。

    記憶が、社会を動かす

    「はなはな」も「アイノシマ」も、特別な目的から生まれた楽曲ではありません。人と人が同じ時間を共有し、その経験が記憶として積み重なる中で、自然と生まれてきたものです。

    私たちはこれまで、社会を動かす原動力を「欲望」に求めてきました。より豊かに、より便利に。しかし欲望は持続しません。満たされたはずのものはすぐに過去になり、また新しい欲望が生まれます。

    マーケティングでは長らく、注意(Attention)→関心(Interest)→欲望(Desire)→行動(Action)というAIDAモデルが用いられてきました。いかに、注意や関心を集め、欲望を促し、行動を起こさせるかというモデルです。SNSにおいても、このモデルがいかに機能しているかが、よく分かります。
    しかし、これからの地域や社会では、欲望(Desire)の代わりに記憶(Memory)を重視することが大事だと思っています。注意が関心を生み、関心が記憶(Memory)として蓄積され、それらの記憶が次の行為を呼び起こす。そしてその行為が、また新しい記憶をつくる。この循環こそが、地域を内側から動かす力です。AIMAモデルです。

    欲望が消費を生むのに対して、記憶は関係を残します。欲望は一度きりの行動を生みますが、記憶は繰り返し関わる理由を生みます。記憶は、保存されるだけのものではなく、行動を再び生み出す装置でもあるのです。

    ところで、音楽を聴いたとき、脳の報酬系が活性化することが確認されています。それは、食欲や金銭的報酬と同じ回路です。音楽は物質的な報酬なしに、記憶と感情を通じて人を動かします。人間は、欲望だけでなく、記憶・意味・関係によっても強く動かされる存在なのです。

    豊かさは、記憶でできている

    ここで、豊かさという問いに立ち戻ります。私たちは長いあいだ、豊かさを経済成長で測ってきました。しかしそれだけでは見えてこないものがあります。人の健康や学び、自然環境、そして関係性。これらは時間の中で蓄積されるものです。

    豊かさとは、今満たされている状態だけではありません。過去から受け継いだものの上に現在があり、その現在が未来へ何を残すのかという、時間の重なりの中にあります。

    地域とは、場所ではなく、人と人の関係が重なり、記憶が蓄積されることで持続されるものではないかと思います。その関係は、必ずしも一つの場所に固定されません。人が移動し、記憶を持ち運び、別の場所で関係を結び直すとき、地域は場所を超えて現れます。
    これを「ちいき」と呼びたいと思います。

    「ちいき」とは、行政区や人口の数ではありません。同じ記憶が響き合い、互いの経験が少しでも重なり合う範囲のことです。ある出来事を知っている、ある祭りに参加したことがある、ある場所の物語を聞いたことがある。
    そうした弱い重なりが輪郭をつくります。

    人口が減っても、記憶の響きが続く限り、「ちいき」は持続し得ます。

    人はなぜつながり続けるのか。
    それは、つながりの合間にこそ、新しい意味が生まれるからではないでしょうか。
    そしてその意味が、記憶となり、次の行為を生み、社会をかたちづくっていきます。

    次回は、その連なりの先にある「志」と「未来」へと向かいます。

    人口減少社会を生きる④:それでも「ちいき」は続いていく(5月26日20時公開)(https://note.com/knt_music_lab/n/n2612d56d2c5f)

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

     
     
    久留米大学教授・サイバー大学客員教授。東工大大学院修了、博士(工学)。九州大学、東大社研等を経て現職。地域づくり研究と創作活動を実践。パリ国際映画祭最優秀ミュージックビデオ賞受賞。著書多数。

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