高畑勲『赤毛のアン』(1979)感想
高畑勲が監督した、世界名作劇場のアニメ『赤毛のアン』(全50話)を観ました。
敬愛するオタクの先輩につよく薦められて、今年1月から観始め、半年弱かけて観終えました。
毎朝、朝食をたべながらiPadで1話ずつ観るのがルーティーンとなり、実質朝ドラのように楽しみました。
モンゴメリの原作は未読です。
世界名作劇場をみるのは初めてで、そもそも70年代アニメをみるのも初めてだと思います。(これまで観た最も古いアニメが95年の『エヴァ』だったので)
さすが不朽の名作、とっても楽しめました。
序盤はほぼ毎話、泣いていました。全50話のうち半分以上の回で号泣していると思います(とても涙もろい)。
それはもちろん、高畑勲ならびに制作陣の卓越したアニメ化の技量があってこそなのですが、わたしに刺さったのは単純に、『赤毛のアン』がとてもよい児童文学だから、という面が大きいと思います。
ふだん色んな流行りものに逆張りしたり批判しまくったりしている根性のねじ曲がったオタクのわたくしも、児童文学にはとにかく弱いので。。
アンの魅力

マシュウとマリラの老兄妹が2人暮らしをしているグリーンゲイブルスの家に、ふとした手違いで孤児院からやってきた11歳の少女、アン・シャーリー。
本作の魅力はなによりもまず、このまばゆい個性をはなつ主人公の造形にあるでしょう。

アンは過酷な境遇で育ってきたことから、つらい現実から己の心身を守るように「空想家」の才能を身につけています。想像力豊かで、語彙があり、とにかく口がよく回る子どもです。
とくに序盤は、キャラ紹介としてかなり強烈にその個性があらわれるので、面食らうひともいるかもしれません。
わたしはこういう聡明でお喋りな子どものキャラクターが大好きなので、1話でアンが喋り始めた時点でもう、「あ、わたしはこのアニメを楽しめる!」と確信しました。
アンを見てまず、わたしは「国シリーズのヒマワリや虹子のようだ……!」と思いました。わたしがいちばん好きな物語作品のいちばん好きなキャラクター達です。


口を開けばおもしろい言い回しや発想のセリフが飛び出す、こうした "口から生まれた" キャラクターをわたしは愛しています。
なので、アン・シャーリーという少女をみてわたしは「国シリーズのヒマワリや虹子の元ネタって『赤毛のアン』だったのか!!!」と叫びました。
いや、実際のところは知らないですけれど。でも彼女たちは完全に同じ系譜にいます。

こちらが1投げかけたら10でも100でも返してきて、こちらが投げ返さなくても、自分の言葉のうえに乗っていつまでもお喋りの階段を昇っていける。
しかも喋る内容が目を見張るほど、笑ってしまうほどに創造的で面白い。
2話でマリラと初対面して名前を訊かれた際に「わたし、アン・シャーリーじゃなくてコーデリアと呼ばれたいの。すばらしくエレガントな名前なんですもの」と言い出したのなんて大傑作です。大笑いしちゃいました。

そうだよね、こどもは本当に呼ばれたい名前をそれぞれに持っているよね……(そんなこたぁない)
ただ、最序盤に抱いた感想として以下のこともあります。
たしかにアンはめっちゃ面白くて魅力的な子で嬉しいが、「いい子だから引き取ってもらえた」じゃあダメなんだよな……倫理的には。
物語として魅力的かつ感動的にするには主人公をすごく才のあるいい子に設定するべきだが、そうすると「あらゆる子どもは保護され尊重されるべきである」という普遍的な前提からはズレやすくなってしまう。孤児引き取り系児童文学のジレンマ?とでもいおうか。
でもまぁ、現代の児童文学はここらへんのジレンマに真正面から取り組んでくれる作品だってあるはず!!という信頼がある。
『赤毛のアン』は、こうして夢見がち、どころか想像の世界と共に生きるアン・シャーリーの成長を、4クール・全50話という長尺でとにかく丁寧に描きます。
4クールという尺
わたしは普段、1・2クールアニメを観ることが多いので、世界名作劇場のような、1年間通して長編を物語るアニメには疎いです。
そのせいもあるのか、本作がひたすら丹念にアン・シャーリーの生活を1話1話追いかけて描いていくさまに、深い感銘を受けました。
驚いたのは、4クールのなかで、アンの身長が少しずつ少しずつ伸びて大人びていくことです。

1話ずつ順に観ているだけでは分からない、でも後半になって序盤のアンと見比べてみると、あまりにも違っている。
これは我が子を見守る親・保護者の目線そのものでしょう。アンを見守るマリラとマシュウとちょうど同じまなざしに、いつの間にか視聴者もなっているのです。
また、36・37話での時間経過の描写はとんでもなかったです。
「子供時代の終わり」、大人になってしまうことをこんなにも残酷に素晴らしく描いたアニメがあっただろうか、と思いました。
(いちばん好きなアニメ『凪のあすから』の構成ってこういうのが元ネタなのかぁ~と、またもや思いました)

4クールという長尺でしか表現し得ないものを数多く、稀有なレベルで達成しているアニメだと思いました。
ほんとうにアンのことが、マリラやマシュウやグリーンゲイブルスの皆が愛おしくなる。
ナレーションの魅力
そうそう、原作が児童文学である特徴のひとつといえばいいのか、本作では三人称の語り・ナレーションが常に物語に寄り添っています(羽佐間道夫さん)。
これも、普段わたしが観る深夜アニメでは希少なため、とても新鮮で心地よかったです。
ナレーションの言葉選びも、もとが小説……とくに海外の古典児童文学なので、語彙が素敵なんですよね。
アンのピュアな感性と、ナレーションの鷹揚な語り口が響き合うようでした。
ダイアナとの関係
アンがグリーンゲイブルスに引き取られて最初にできる友だちにして、一生涯の大親友となるダイアナの存在にも触れておかなければ。

林を抜けて数分あるいた家に住んでいる「ご近所さん」に、偶然アンと同い年の女の子がいて、ふたりはすぐに友だちになる。お互いにとって、かけがえのない、初めての同年代の友だち。ふたりはすぐに意気投合して親友になり、喧嘩やいろんなハプニング・イベントを経て、ますます堅く尊い友情を深めていく。

これは、都合がいいんです。でも、これこそが児童文学なのだと思います。
子どもたちに友達・他者・世界への希望を持たせること。あるいは、理想を与えてあげること。それが児童文学の役割であり矜持なのだと思います。
だから、アンとダイアナの関係がわたしは本当に好きです。
文字通り「かけがえのない」、運命的であり偶然であり都合がよすぎる、世界でもっとも尊い関係がここにあります。

出会った直後にあまりにも重い約束をアンはダイアナに要求し、それは実現するのです。
ふたりの出会いを描いた9話は、とくに最高の回でした。

木漏れ日→ブランコに乗るふたりの影 と繋いでいく演出には度肝を抜かれました。

(まだナウシカもカリオストロも作る前の宮崎駿が画面構成をしていたり、ガンダムが放映される直前の富野由悠季がコンテを担当するなど、まじで伝説の布陣だったと後で知りました)

アンとダイアナの親友関係がほんっっとうに好きなのですが、だからこそ「なんでこんなにも信頼し合い愛し合っている、互いの一番の座を与えあっているふたりが、生涯を通じて一緒に暮らすことができないんだ……」と、世の異性愛規範につくづく絶望してしまうほどでした。

そう、『アン』には異性とのドラマもあります。
ギルバートとの関係
第14話、地域の学校に通い始めたアンは、隣の席に座る男の子から、最大のコンプレックスである赤毛をからかわれて激昂し、アンガーマネジメントに失敗して手元の黒板で思い切り頭を殴ってしまいます。

アンがすごいのはここからです。ぶん殴ってもまったく腹の虫がおさまらないアンは、その男子にもう会いたくないからと、この日から通学を拒否します。ストライキ。登校拒否。アンのこういう芯の強いところが大好きです。
相手の男の子の名前はギルバート。いわゆるカーストトップの、成績優秀なハンサム少年です。
いろいろあって3話後にアンは学校に戻りますが、ギルバートとは絶対に話そうとしません。悪かったと謝罪されても無視します。自分の尊厳を踏みにじった者は絶対に許さない、という崇高な意志をかんじます。
出会いは最悪だったけどなんやかんやですぐに仲直り──ではないのです。
そこからアンは本当に、何話も、何年も、ギルバートと口をきこうとはしません。
4クールのうちの多くは、この「拒絶」期間に占められています。
この尺の使い方も最高だと思います。4クールアニメでしかできないドラマの作り方です。

第31話でアンはギルバートに命を助けられ、改めて真摯に謝罪をされるも、アンは意固地になって拒んでしまいます。

こうして最大の和解のチャンスを逃したふたりは、なんと最終回まで、仲直りの機会を延ばすことになりました。しかも、互いにクラスでは成績トップのライバル関係として。
…………こういうヘテロ関係、めっっっっちゃ好きです。
アンが簡単に折れずに当初の自分の怒りを大事にし続けるのもいいし、それが本当に長い時間をかけて解消してゆき、ふたりの言葉を交わさない関係がかけがえのないものへと変質していくのがすばらしい。
出会ったときから仲良くなり、ずっといちばんの友だちでい続けたダイアナ。
出会い方が最悪で、ずっと距離を置いてきたけれど最後の最後に友だちになれたギルバート。
これらの対比にも、目を見張るものがあります。
マリラとマシュウ

そしてアンにとってもっとも大切な「親」がマリラとマシュウのふたりです。
子どもに恵まれなかった老夫婦、ではなくて、どちらも結婚しなかった老兄妹、という設定がかなり重要な気はします。アンにとってマリラは「母」だしマシュウは「父」だけれど、ふたりは夫婦ではない。アンが来たことで「家族」になった。(いや兄妹も家族だけど!)
背景にあるキリスト教の清廉で教育的なテーマゆえに、「性」(生殖)のにおいを排除したかったのかな~~とか雑に考えてました。
もちろん2人とも、人間味あふれる魅力的なキャラクターで大好きなんですが、だからこそ、アンがすくすくと見違えるほどに成長するとともに、彼らが痛ましいほどに老いていく終盤は、ま~~~~じでしんどかったです。
大名作だとは思いますが、正直いまは二度と見たくない、と思っている原因はそれです。
ひとが生活して生きていくこと。子どもが育っていくこと。大人が老いていくこと。
人間の人生のリアルを、このアニメは描きすぎている。とてつもない精度で。
50話アンたちの営みを追いかけてきたわたしには、それを「フィクション」だと一笑に付すことは到底できなくなっていました。
あと、これは観ているわたしの年齢・人生の段階ゆえのことも大きいでしょう。育ててくれた家族の老いに、そろそろ向き合わなくてはいけない時期になってきたので。だから、そういう自分事としても考えてしまって、終盤はちょっと見続けるのがきつくて、次の話をクリックするのが嫌でたまりませんでした。
でも、ここまでやるのが「児童文学」であり、世界名作劇場の「アニメ」なんだよなぁ・・・・・・
『赤毛のアン』は、そうして、私にとって大切な位置を占める作品にはなりましたが、同時にすごく鬱々とした感情を想起させもしました。軽薄な言い方をするならば、わたしはこれ以上の「鬱作品」を知りません。
親の死、のくだりもきつかったのですが、そこからさらに、アンがせっかく勝ち取った大学への奨学金を、マリラの健康具合や、一家のふところ事情と不動産事情などを踏まえて、辞退することになる結末がマジでつらかったです。こんなに才能あふれる、向学心のある若者が、家庭の事情でその前途を諦めて、「地元」に残る決意をする………… マシュウはそれどう思うかなぁ・・・と考えてしまいます。でも、アンはマリラを見捨てられないし、なにより2人と過ごした思い出の詰まったあの家を守り抜きたいよなぁ……
『Anne of Green Gables』という原題はそういうことだったのか……と、自分至上最悪のタイトル回収を見せられました。
ただただ、かなしい。
ただ、アンは地元で教師をしながらも、大学進学とおんなじ内容の自学をする!と宣言していたのは希望です。
原作はこのあとも長くシリーズが続くでしょうし、アンの学びと人生はここで終わりでは決してない、というのが児童文学に残された常なる希望と責任なのだろうな……と思います。
その他
ちょっと重い話題が続いてしんどいので、軽い話をしましょう!
ダイアナの幼い妹、ミニー・メイがめっちゃかわいかったです
キャラデザはいちばん好きで、スクショの半分以上はミニー・メイが締めているほどですw










それから、サブキャラでは、アンの同級生ジョーシー・パイもいいキャラしてましたね~~~

端的にいえば「イヤな奴」です。現実にいたらお近づきにはなりたくないですが、こういう児童文学には一人いてくれると非常に助かる、いいキャラでした。
というわけで、アニメを観終えたことだし、原作を読んでいこうと思います! 2巻以降、ギルバートとの関係がどうなっていくのか楽しみです。。


