
03_答えられなかった問い - 石巻かほく随想コラム「つつじ野」掲載文(2026.04.21)+あとがき
宮城県石巻市の地方紙「石巻かほく」の随想コラム「つつじ野」に、2026年4月7日から寄稿させていただいています。このnoteでは掲載された文章と、書ききれなかったことや執筆時に考えていたことなどを掲載していきます。なお、新聞掲載時には規定により一部の漢字表記などが変更されましたが、こちらでは原稿のまま掲載いたします。
掲載文「答えられなかった問い」
「日本の、特にあなたの地元の歴史や文化ってどういう感じなの?」
高校を卒業して少し経った頃、オーストラリアの内陸の町で、旅をしていた同世代の人たちにそう聞かれました。けれど、うまく言葉が出てきません。「何もないよ」と答えてみたものの、誰も納得していない様子で、「そんなはずはない」と言わんばかりの視線が返ってきます。
やり取りを重ねるうちに、自分でも何を言っているのか分からなくなり、ただ自分のルーツを何も知らないのだという事実だけが浮き彫りになりました。あのときの気まずい空気は、今でも鮮明に思い出すことができます。
それがきっかけとなり、私は「目の前にある夢」を追いかけるだけでなく、「自分が今どこに立っているのか」を意識するようになりました。
帰国してから、祖父や父に地域の古い話を聞かせてもらったり、そのゆかりの場所へ足を運んだりしました。知れば知るほど、その奥にはさらに深い歴史や人々の思いが視えてきます。さらに知らないことも増えていき、「正解」から何故か遠ざかってしまうような感覚にもなりました。
一度聞いた話をそのまま鵜呑みにするのではなく、その向こう側にあるものを探し続ける。そんな「終わりなき道」を行くのだと腹を据えたとき、バラバラだった断片が繋がり、新しい風景が見え始めた気がします。
今、また同じ問いを投げかけられたら。きっと、相変わらず一言でうまく答えることはできないでしょう。けれど「何もない」とはもう思いません。
自分の足で歩いて出会った音や、そこで感じた物語や風景なら話すことができます。「何もない」と思っていた場所に、実は豊かな響きが満ちていたことを伝えるための表現、演奏を、私は今も探し続けています。
あとがき
この話は、19歳の頃だから2002年。初めて一人でオーストラリアへワーキングホリデービザを持って渡り、海外へ出て「何も知らない」という状況が新鮮で面白く思え、毎日何か新しいことを知れるのが楽しくて仕方なかった頃の話です。
バックパックに荷物をパンパンに詰め込み、WWOOF(Willing Workers on Organic Farm)をしながら、数週間から数ヶ月おきに場所を転々としていました。場所によっては部屋が相部屋で、僕と同じように旅をしている様々な国の同年代の人たちと一緒になることもありました。
お互い、そんなに上手じゃない英語で話すのも新鮮で、会話が弾んでいくと、自然と自国や地元の話になります。みんな本当に楽しそうに色々なことを教えてくれました。
今パッと思い出せるだけでも、北イタリアと南イタリアでは税金が違うこと。ユーロが導入された時は色々と混乱したこと。お昼休みには一度家に帰って家族や親戚とランチを食べること。コーヒーとブランデー(だったと思います)を混ぜて、工芸品のような木製のカップに入れ、それをみんなで回し飲みすること。冬は山で仕事をしながら、モンブランでトレッキングやスノーボードを楽しむこと。そんな話を、楽しそうに聞かせてくれました。
そこで聞かれるのが、「そっちの国や、地元ってどんな感じなの?」という問いでした。けれど、すぐに浮かんでくることが本当に何もなくて、思わず出た言葉が、あの「何もないよ」だったのでした。
すると、「いやいやいや、そんなわけないだろ〜!」と言われます。
慌てて、小学校は六年制で、中学校が三年あって、義務教育はそこで終わって、その後は高校に進学して……と、なんとか思いつくことを話した記憶があります。
返ってきた反応は、
「Oh... yeah, I see...(ああ、そうなんだね・・・)」
そんな感じだったと思います。
世界のことを何も知らないのは面白かったのに、自分のことを何も知らないという事実には、初めてショックを受けました。恥ずかしいような、悔しいような。でも、それを認めたくないような。そんな、うまく言葉にできない感情だったことを今でも覚えています。
このイタリアの話をしてくれた人とは、今でもたまに交流があります。ミラノ万博で演奏をした時には、会場まで足を運んでくれました。
改まって地元の話をする感じではないけれど、多分僕の活動を通してこの人にはあの時の学校の話以上のことは伝わっているんじゃないかなと思います。
少なくとも、もう「何もないよ」とは答えられません。
