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第1章:「正解」という名の出荷基準を疑う

    曲がったキュウリに、まっすぐ学ぶ。デザインの「規格外」を愛でる技術

    スーパーの青果売り場。冷気とともに整然と並ぶキュウリたちを見て、私たちは「美しい」と感じる。いや、正確には「安心」するのだ。 長さが揃い、太さが均一で、トゲが適度にあり、そして何より「まっすぐ」であること。 その均一性は、近代流通が生んだひとつの「奇跡」であり、同時に「呪縛」でもある。

    デザインの現場も同じだ。 20年以上この業界に身を置き、オペレーターからキャリアをスタートさせた私にとって、最初の10年は「まっすぐなキュウリ」を作るための修行期間だったと言ってもいい。

    「文字詰めは完璧か」
    「ガイドラインから1ミリもはみ出していないか」
    「クライアントが提示した『正解』という名の金型に、どれだけ思考を流し込めるか」

    それがプロの仕事だと信じていた。 しかし、ふと思う。私たちが必死に整えているその「美しさ」は、一体、誰のためのものだろうか。


    「正解」という名の麻酔

    「正解」を出すことは、実はとても楽なことだ。 世の中には「デザインの正解」があふれている。SNSを覗けば「バズる構図」のテンプレートがあり、広告業界には「クリックされる配色」の統計がある。優れたノーコードツールを使えば、誰でもある程度の「整った店構え」は作れてしまう。

    それは、規格通りのキュウリを育てるための「ハウス栽培」に似ている。 温度を管理し、栄養剤を与え、型にはめて育てる。そうして出来上がったものは、確かに不備がない。しかし、そこには「野生の味」がしない。

    私たちが「正解」という名の麻酔を打ち続けている間に、デザインから「手触り」や「体温」が失われていく。「整っていること」は、思考停止の言い訳になりやすいのだ。「基準通りですから」という言葉は、自分を守るための盾になる。しかし、その盾の裏側で、クリエイティビティという名の筋肉は少しずつ衰えていく。

    曲がったものを、曲がったままに、どう美しく見せるか。 その「工夫の余地」を、私たちは自ら放棄してはいないだろうか。

    私というテンプレートにあてはめるな!といった具合だろうか。

    「完璧」なパンフレットがゴミ箱へ向かうまで

    ある企業のパンフレット制作に携わった。 ミリ単位の修正が何度も入り、色味は極限まで「平均的」であることを求められた。仕上がったものは、確かに完璧だった。一分の隙もなく、誰も傷つけず、どこに出しても恥ずかしくない。

    だが、完成品を手に取ったとき、私は不思議な虚無感に襲われた。
    「これは、私が作ったものである必要があったのだろうか?」

    そのパンフレットは、翌年には古くなり、ゴミ箱へと直行する運命にあった。「ロングライフデザイン」を意識する今の私から見れば、それは単なる「規格品」の大量生産に過ぎなかったのだ。

    パッケージデザインは特にそう思っていた。買うまでのデザイン。買ったあとは即ゴミ箱行き。そんなデザインに、ちょっとさみしさを感じていた。

    美しさとは、整えることだけにあるのではない。 むしろ、整えようとする意思と、それでもはみ出してしまう「個性(クセ)」との間にこそ宿る。キュウリが曲がるのは、太陽を求め、風に耐え、必死に生きようとした証だ。その「必死さ」を、なぜ私たちは「欠陥」と呼んでしまうのだろう。

    効率化の果てに捨てられた「粋(すい)」

    大阪でデザインスタジオ「ond」を立ち上げたとき、私は自分にひとつの誓いを立てた。 それは、「整理はするが、去勢はしない」ということだ。

    デザインは、クライアントの混沌とした思いを整理する仕事だ。 しかし、整理しすぎて、そのブランドが持つ本来の「毒」や「癖」まで取り除いてしまったら、それはもはやデザインではない。ただの「清掃」だ。

    日本には「粋(すい)」という言葉がある。足したその先に無駄を削ぎ落とす。そのさらに先にある、洗練された色気。それは決して「のっぺらぼうな均一性」を指すのではない。削りに削り、最後に残った「どうしても削れなかった歪み」こそが、そのブランドの「粋」になる。

    「引き算のデザイン」とは、単に要素を減らすことではない。 主役となる「曲がったキュウリ(個性)」を際立たせるために、周囲のノイズを静かにさせていくプロセスだ。すべてをまっすぐに整えてしまったら、そこには「余白(よはく)」さえ生まれない。余白とは、不完全なものが存在するからこそ、見る側の想像力を刺激する場所なのだから。

    「1ミリの正解」に殺されかけた夜

    今でこそ戦略や哲学を語っているが、私のキャリアのスタートは地べたを這いずるような場所にあった。20年以上前、デザインの現場はもっとずっと「肉体的」だった。

    徹夜明けの、血走った目でモニターを睨みつける日々。インキの匂いが染み付いた色校正紙に、赤ペンで容赦ない修正が書き込まれる。あの頃の私にとって、「規格外」とは単なる「ミス」であり、「悪」だった。

    一度、クライアントの要望を120%反映させ、寸分の狂いもない完璧に「整った」チラシを作ったことがある。自信満々で出したその案に対し、クライアントの担当者は一言こう言った。

    「綺麗だけど、なんか、つまらないね」

    頭を殴られたような衝撃だった。出荷基準をクリアしたはずの「まっすぐなキュウリ」は、誰にも食べてもらえないまま、棚の隅で枯れていく。 私は整えることに必死になるあまり、そのデザインが「誰の、どんな感情を揺さぶりたいのか」という、一番泥臭い部分を置き去りにしていた。

    「独立」という名の規格外へのダイブ

    10年務めた事務所を辞め、独立した。大阪の片隅で小さな旗を掲げたとき、私は自分がとてつもなく「歪んだ存在」であることを自覚せざるを得なかった。

    大きな組織の後ろ盾もなく、実績もない。「今は時期が悪い」「甘くない」と、まっすぐな道を歩むための忠告をたくさんもらった。しかし、独立して最初に出会った仕事は、そんな私の「歪み」を面白がってくれる人たちからのものだった。

    「普通にきれいに作ってくれる人はたくさんいる。でも、あなたみたいな『面倒なこだわり』を持つ人に、うちのブランドを掻き回してほしいんだ」

    その時、私は気づいた。 プロの仕事とは、要望をそのまま形にすることではない。彼らが自分たちでも気づいていない、内側に秘めた「歪み」や「情熱」という名の規格外要素を掘り起こし、それを唯一無二の魅力へと昇華させることなのだ。

    実践・YOGŪ:あえて「立ち止まる」不自由さ

    私が主宰する茶ブランド「YOGŪ(ヨグ)」を立ち上げたときも、まさにこの思想が試された。 現代の市場において、飲料の正解は「いつでも、どこでも、効率よく」だ。ペットボトルで喉の渇きを潤すのが「まっすぐな成功ルート」だろう。

    しかし、私が目指したのはその真逆。「わざわざ急須で淹れる」「わざわざ立ち止まって、一息つく」。 効率化を突き詰める社会において、これはある種の「規格外の行動」だ。

    だが、私はあえて「曲がった道」を選んだ。知覧茶の繊細な風味を引き出すために「引き算」を徹底し、デザインに「余白」を持たせた。結果、その「立ち止まる」という不自由さに共感した人たちが、深く、長く、ブランドを愛してくれるようになった。

    「まっすぐ」な競合他社がひしめく中で、YOGŪという「曲がった存在」は、誰かにとっての「なくてはならない居場所」になったのだ。

    「余白の設計」という考え方は、私たちの日常、特に休憩のあり方にも全く同じことが言えるのではないか。そんな思いから、私は2023年に知覧茶のブランド「YOGŪ(ヨグ)」を立ち上げました。

    「E案」という名の異端児

    プレゼン資料の最後尾にこっそりと添えられた「規格外E案」。 それはクライアントの要望を無視したわけではないが、明らかに「出荷基準」からは逸脱している。「少し毒が強すぎるかもしれません」と言い訳を添えて出すその案は、自分でも苦笑いしてしまうほど「曲がりくねったキュウリ」だ。

    ところが、百戦錬磨の経営者がふと手を止めるのは、決まってそのページだったりする。 「……これ、いいですね」

    なぜE案が本命を凌駕するのか。 それは、A案やB案が「脳」に向けて作られているのに対し、E案は「血」に向けて放たれているからだ。人は「正しいもの」に納得するが、「正しくないが美しいもの」に心を奪われる。

    規格外のアイデアには、予定調和を破壊するエネルギーが宿っている。それは「失敗するかもしれない」というリスクと引き換えに手に入れた、圧倒的な生の実感だ。

    泥沼で見つけた、1ミリの真実

    かつて文字通り「泥沼」のような修正作業に没頭していた夜、私はモニターの向こう側で悪態をついた。 「あと1ミリ、ロゴを大きくしたところで誰が気づくんだ」と。

    しかし、深夜3時、静まり返った事務所で文字間を1000分の1ユニット単位で調整し続けていると、ふと視界が開ける瞬間がある。 それは、バラバラだった要素が、ある一点でガチリと噛み合い、ブランドの意志として立ち上がる瞬間だ。

    その「泥臭い微調整」こそが、実はクライアントの曖昧な思考を結晶化させるプロセスそのものなのだ。「なぜ、この1ミリが必要なのか?」 その問いに答えを出すことは、そのまま「このブランドは何を大切にし、何を切り捨てるのか」を決めることに直結している。デザインの現場における「美しさ」とは、天から降ってくる閃きではない。終わりのない修正の果てに、疲れ果てた指先がようやく辿り着く、「これ以外にあり得ない」という諦念に近い確信。その積み重ねだけが、人の心に「引っかかり」を残す。

    整理とは「光を当てる場所」を決めること

    20年のキャリアを経てわかった。 デザインとは、きれいな絵を描くことではなく、意思決定を整理することだ。

    クライアントの「あれもこれも」という不安を削ぎ落とし、そこに現れた「曲がったキュウリ」のような本音を際立たせる。 私が大切にしている「余白」は、スタイルの話ではない。「どこに光を当てるか」という覚悟の話だ。すべてを明るく照らせば、影がなくなり、奥行きが消える。あえて一部を暗がりに沈めることで、個性にスポットライトを当てる。

    「何をやらないか」を決めることは、苦しい。 しかし、その苦しさの先にしか、ロングライフデザインは存在しない。 基準に合わせて形を整えるだけの「加点方式」を捨て、本質だけを残す「減点方式」に身を委ねる。

    デザインにおける「覚悟」とは、その不揃いな形を「これでいい」と言い切る強さだ。 自分の作ったものが規格外であっても、そこに揺るぎない物語があるのなら、堂々と出荷すればいい。

    私たちは、用意された正解をなぞるために働いているのではない。 自分たちの手で、新しい「正解」という名の出荷基準を書き換えるために、今日もモニターの前に座っているのだ。


    (あとがき)
    「まっすぐなもの」は、消費される。 「曲がったもの」は、愛される。

    誰かの「規格外」は、誰かの「ちょうどいい」

    曲がっていることが悪いんじゃなくて、曲がっていることが面白い。
    まっすぐじゃないほうが、目に留まる。
    ちょっとズレた方が、記憶に残る。

    まっすぐじゃなくていい。むしろ、まっすぐじゃないからこそ、おもしろい。

    あなたの手元にあるその「ズレ」は、決して修正すべきエラーではない。 それは、これから始まる物語の、最も重要な一文字目なのだから。


    PHILOSOPHY
    温度をもった生きたデザイン
    ディレクションで音頭をとり、デザインで温度をあげる。

    私たちは、ブランディングやビジュアルデザイン、コミュニケーションを通して、見た目以上に“伝わる”もの、“残る”ものをつくり続けます。
    もし、さらに知りたい方がいらっしゃいましたら、私たち株式会社オンド のウェブサイトもご覧いただけると嬉しいです。ぜひお立ち寄りください。


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    PROFILE
    折尾祐希 
    クリエイティブディレクター・コピーライター

    株式会社オンド 代表取締役
    大阪・梅田を拠点に、事業とブランドの軸を骨太にする。導き手&伴走型。デザイン業界20年以上。引き算の美学とその裏側の泥臭い思考プロセスを綴っています。

    HP:https://ond-ond.com
    EC:https://yogu.jp/

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