
菜那花とお兄さんはアタラヤで 11
第1話は こちら から
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私は優真くんに飛びついた。
振り上げられた腕に手を伸ばしたけれど、振り下ろされる勢いを止めることはできなくて、私の腕も一緒に投げられてしまった。体だけは離さないようにしがみ付き、勢いのままに優真くんの体を押し倒すと、地面にぶつかった衝撃で体が圧迫されたように苦しくなる。
がしゃん、とガラスの割れる甲高い音。見えなくても石が当たってしまったのだと分かる。割れてしまったものに対してくよくよしても仕方がない。優真くんが逃げないように腕を地面についたまま、体を起こした。
──何でこんなことをするの。
喉まで出かかっているのに、これではない、と即座に思い直した。喉が震えて出てくる直前だったのに言葉はなんとか空気になり、言おうとした勢いで体だけが前のめりになった。
「大丈夫⁉ ケガはない⁉」
受け身を取らずに倒れてしまったためか、優真くんの目はしばらくふらふらと揺れていた。月明かりだけの中でも、ぼんやりと眉間にしわを寄せているのが分かる。険しい顔をした優真くんはしばらくすると後頭部をさすりながら上半身を起こして、覆い被さる私に気が付いてようやく状況を理解したようだった。
はっと優真くんの目が大きく見開かれる。優真くんが逃げてしまわないように腕を掴む。今度こそ振り払われないようにしっかりと握りしめる。優真くんは何も言わない、けれど顔だけがどんどんと焦りに満ちていく。
何を言えばいいのだろう。どう声を掛ければいいのだろう。
「落ち着いて」
私は優真くんを傷つけることはできない。まだ熱っぽい体では、逃げ出した優真くんを追いかけるのは難しいだろう。だからどうか暴れないでほしい。額から流れ落ちる汗に気付かないふりをしながら、じんじんと唸るような頭の痛みに奥歯を噛み締める。
「急に飛び掛かってごめんね。びっくりしたよね」
目に涙が滲んできそうで、視線を離したくて仕方がなかった。でも絶対に離してやらない。暗くても見られていると分かってしまうほど、まっすぐに、優真くんを見続けた。
「でも、大切なお店を傷つけられるのは、放っておけなかったの」
「……」
優真くんのお腹も足も細くて、同い年の男の子よりも小さい。羨ましいと同時に、ちゃんとご飯を食べているのか心配になった。晩ご飯は美味しいだろうか、夜食が美味しいって知っているのだろうか。
「優真くん」
目の前の優真くんは俯いてしまって、まるで影みたいだった。
「優真くん、どうして」
どん、と体に衝撃が走って、勢いに堪えられず後ろに尻もちをついてしまった。優真くんの影が大きくなって、立ち上がったのだと気付いて名前を呼んだけれど、体が重たくて追いかけられない。額を拭うと、想像以上に汗で濡れた。
ようやく立ち上がって一歩踏み出した時に、足元でぱきりとガラスの割れる音がして視線を落とす。足元まで飛んできていたガラスが粉々に割れていた。
顔を上げると、優真くんは大きなガラスの破片を握っていた。鋭く尖った、大きなガラスの破片の切っ先に月の光が落ちて煌めき、私を睨んでいる。ガラスの破片を握った優真くんの手からはぽたぽたと血が流れ落ちていた。
「優真くん、血が──」
「分かっててやったんだよ」
圧のある、叫び声にも似た低い声だった。夏の夜の熱気と一緒に空気が震えて、これ以上優真くんに近づくことができない。
「井上さんの大切な場所だって知っててやった。扉も壊したし、棚も倒した。床に転がった商品も踏んづけた。商品がない店に客が来るわけがない。だからこの店はもう終わり、営業できないと思ったのに」
「……在庫を狙ってまた中に入ろうとしたの?」
「また営業ができるって言ったから。在庫が無かったら店は開けられない」
「在庫なんて無いよ」
優真くんの表情から少しだけ力が抜けた気がした。現実を受け入れられないように固まった後、首を振った。嘘だ、と言っているようだった。
「しばらく営業できないのも、片づけを手伝っているのも本当。でも在庫は無いし、次の商品が入ってくる予定もないから、片付けが終わっても営業はできないと思う」
左手で握られたガラスが震えている。手のひらに食い込んで皮膚を突き破っているのか、震えるたびに血の滴が地面に落ちた。
「左手の絆創膏」ガラスを握る手を差す。「それ、どうしたの?」
薬指の付け根に貼られた大きめの絆創膏が頭から離れず、どうか見間違いであればと何度も願った。
怖くてずっと聞けなかった。どんな言葉が返ってきても私はきっと優真くんを疑ってしまう。怪しむことすら嫌で、わずかな引っ掛かりを気のせいで留めるのが精いっぱいだった。けれど、もう今は、今の状態では、確信づくしかない。受け入れるしかない。
優真くんはゆっくりと俯くと何も言わなくなった。
心のどこかで、このままでもいいと思った。
時折風が吹く。カエルが鳴いている。
でも、このままじゃいけない。
風に揺れて音を立てる草に交じりながらゆっくりと、優真くんとの距離を詰めていく。
「追い詰めて何が楽しいんだよ」
あともう少し手を伸ばせば優真くんの手を握られる距離。目と鼻の先にあったガラス片が視界から消えた。
優真くんは勢いよく腕を振り上げた。
「ほっといてくれよ! 僕のことなんか!」
月の光を受けて煌めく切っ先を見上げる。
「優真くん!」
叫んでもその腕は止まらない。
真っ直ぐに振り上げられた腕が最高到達点に達すると、振り上げた勢いを殺すことなく今度は振り下ろされる。
空を切る音。草木の擦れる音。心臓の鼓動。切っ先から目を離せない。それは容赦なく迫ってくる。
全てを受け止める覚悟で体に力を込めて、強く目を瞑った。
──ふわりと漂ってきた甘い香りに鼻腔をくすぐられた直後、体に衝撃が走る。勢いよくぶつかってきた何かに押し倒され、一気に地面の香りが強くなった。何事かと慌てて目を開けると、私に覆い被さる人の姿があった。
その人は私の首元に埋めていた顔を上げると、優真くんの方へ向き直る。
「そこまでにしとこか」
今や聞き慣れた声とイントネーション。お兄さんが私を突き飛ばしてくれたおかげで、ガラス片から逃れることができた。
お兄さんが手を伸ばす先に視線を向けると、怯えたように頬を痙攣させている優真くんの姿があった。優真くんの手のひらからするりとガラス片が落ちていく。
鈍い痛みの走る背中に堪えながら優真くんに駆け寄り、手首を握りしめる。汗でじっとりと濡れている。小刻みに震える腕をしばらく握っていると、少しずつ収まってきた。
「なんで、放っておいてくれないんだよ」
「……優真くん、いつも固い顔してたから、少しでも楽しい話ができたらいいなって思って。まだまだ優真くんのこと知らないけど、これからもっと仲良くなりたいから、嬉しいことも悲しいことも、話してくれたら嬉しい、です」
優真くんの腕に力は入っておらず、きっと握っていなくても大丈夫だろうと思った。けれど今は優真くんの肌に触れていたかった。月に照らされて淡く見える優真くんの表情の動きを見つめる。腕の震えは止まり、強張っていた頬からも力が抜けていくのが分かった。
「なんで、そんなこと言うの」
「優真くんがそうしてくれたからだよ。私の話いつも聞いてくれたじゃん。リョーガさんの話」
ポケットからハンカチを取り出して、血の滲む手のひらに押し当てる。
「これからも聞いてくれないかな? 優真くんに話を聞いてもらうの、いつも楽しみにしてるんだ」
眼鏡のレンズの向こうにある優真くんの目がこちらを見ている。
疲弊したように覇気のない瞳がゆっくりと落ちていく。
頷いたとも俯いたとも取れる動きだったけれど、優真くんの手を握っていた手が少しだけ温かくなって、小さな力で握り返してくる優真くんは子供みたいだと思った。
「菜那花」
突然名前を呼ばれ、体がびくりと跳ねる。その声は背後から聞こえてきた。
慌てて振り返ると地面に尻もちをついたままのお兄さんが右腕を掲げていた。そういえばさっきも右腕を伸ばしていたと思った直後、お兄さんの腕に広がる赤い滲みが目に入って、喉を絞られたような叫び声を出してしまった。
「救急車、呼んでくれへん?」
さっと血の気が引いた。地面には優真くんが握っていたガラス片が落ちていて、半分ほど赤く汚れている。先ほど見た優真くんの怯えた表情のわけが腑に落ちた。
お兄さんの顔色がみるみる悪くなり、冷や汗で濡れる顔を拭うと、力尽きたようにふらりと倒れてしまった。
第12話は こちら から