
菜那花とお兄さんはアタラヤで 10
第1話は こちら から
前話(第9話)は こちら から
机の上に置いていたスマホが振動して体に力が入ってしまい、紙に滑らせていたシャーペンの芯が折れてしまった。するすると弧を描いて転がっていく芯が床に落ちたのを見送ってから、はあ、とため息とも呼吸とも言えない何かを吐き出してからスマホに手を伸ばした。時計は二十時前を差していて、その下に母さんからのメッセージが表示されている。
『早く帰ってきなさい』
誰のせいでこんな時間まで勉強してると思ってるんだ、とは言えない。夏休み前の期末テストが平均とほぼ同じだったことをガミガミとしつこく言ってくる母さんは犬みたいだ。目にしたものに対して噛みつくことしかできない。お兄ちゃんはちゃんとできていたのに、優真もお兄ちゃんと同じ大学に行くのよ、と耳にタコができるほど聞いたセリフ。本当に、台本に書かれたセリフかと言いたくなるほど同じことを繰り返す。父さんの言葉を繰り返しているだけなのに、まるで自分まで偉者になったかのような口ぶりだ。
ロック画面のまましばらく見つめていると画面が暗くなった。けれどすぐに明るくなって、母さん、という文字を表示させて今度は長く震えた。画面をスライドしてからスマホを耳に当てる。
「もしもし」
『もしもし、いつ帰ってくるの?』
「今から帰る」
『お父さんももう帰ってきてるから、ちゃんと顔見せるのよ。今日の塾の範囲も』
毎日のことなんだから分かってるよ、と言いたくなる気持ちを抑えて、うん、とだけ言った。母さんに聞こえているのかは分からないけれど、聞こえなかったら電波のせいにしておこう。聞こえなかったが通用するから電話は少しだけ心が軽い。
気を付けて帰ってくるのよ、と言うと僕の返事も待たずに通話は切られた。毎回一分にも満たない同じ会話に、何の意味があるのか分からない。分からない問題があったら自分で調べなさいと言うけれど、じゃあ母さんは答えを知っているのだろうか。
机に広げていたテキストとノートを閉じてトートバックに入れる。自習室には誰も残っておらず、窓の外を走る車の音が時折聞こえるくらいだ。自習室の明かりを落として、控えめな廊下の明かりを頼りに歩く。残っている先生たちに挨拶をしてから外へ出ると、むっとした夏の蒸し暑さがまだ残っていて、冷えた体はすぐに常温に戻った。
点々とした明かりを辿るように帰路に着く。大きな道路から一本中に入ると車どころか人通りもほとんどなく、ささやかな風が肌にぶつかる。心なしか涼しい気がするけれど、しばらく歩いていると汗が滲んできた。学校も塾も家も冷房が効いていて快適だけれど、蒸し暑さの中で時折感じられるわずかに冷たい風の方がよっぽど気持ちがよい。快適な空気に調整された場所はどこも勉強をする場所で、僕を休めさせてくれるわけではない。こういう生温い空気がある場所こそが僕の唯一休憩できる場所になっていて、そう思うたびになんて寂しいやつなんだと自分を貶してしまう。
帰ったら父さんと母さんに塾の範囲を見せて、ちゃんと勉強しているかを確認されて、きっとまた文句を言われる、それからご飯とお風呂を手早く済ませてから、冷房の効いた部屋で寝るまで机と向き合う。
帰りたくない。でも足は家に向かっている。毎日決まった流れ。
リビングには父さんと母さんがいて、おかえり、と言ってくれたのは母さんだけだった。
「ほら、早く座りなさい」
いつもの僕の椅子に座ると目の前にお茶が出されて、でも飲む暇もなく母さんが覗き込んでくる。
「今日はどこをやったの、早く出しなさい」
机に出してくれたお茶は何なんだよ。
お茶を端に寄せてから、トートバックからテキストと今日配られたプリントを取り出す。母さんの手が伸びてきて、奪い取るように掻っ攫っていく。長らく探し求めていた宝物が本物か確かめるように、プリントに顔を近づけて一文字一文字逃さずにプリントをくまなく見た後、それらを父さんに回す。スーツを着たままの父さんはプリントを寄せると、読んでいるのか分からない距離で、けれど瞳だけはしっかりと動かしていた。
エアコンの稼働音だけが聞こえる。部屋の空気は冷たくて、先ほどまで生温い空気に触れていた肌をすぐに冷やしてくれて心地良い。けれど、酷く重い。熱中症になった時のような体の重たさ。空気のせいだ。
「もう一度やり直しなさい」
そう言ってプリントが目の前に滑ってくる。落ちないように受け止めながら父さんから目を離さないでいると、うっすらと開いた目から黒い瞳が覗いて、この時初めて寒いと思った。
「はあ、もう、またなの」
隣に座る母さんのため息が聞こえた。
「いつになったら完璧になれるのよ。お兄ちゃんたちはちゃんとできていたのに。同じように塾に通わせても全然できないじゃない」
はっきりと言われてしまった。
「こんなんでどうやって大学に行くの? 何度も言ってるんだからもっとちゃんと勉強しないと」
してる。朝から晩まで。ドラマを見る時間も、スマホを触る暇も、息抜きをする休憩も、もう削れるものは全部削ってきた。
「やっぱりお兄ちゃんと同じ高校に行かせるべきだったのよ」
行けなかったんだよ。落ちたから。
「ちゃんとした高校に通わないと成績が伸びないのよ、きっと。今からでも編入できないかしら。優真はちゃんとしたところに行くべきよ」
「ちゃんとしたところって、どこだよ」
まるで今通っている高校は頭が悪いみたいな言い方。だから僕の成績も伸びなくて、決して自分たちが悪いとは思わない。そりゃそうだ、関係ないもんな。勉強しろ勉強しろって言うだけで。それだけなのに偉そうにしているあんたらの、何が偉い?
「優真」
父さんの冷えた言葉がどん、と突き刺さる。その時ようやく声に出して言っていたことに気づいて、体の中心に向かって少しだけ縮んだ気がした。
「お前は一体何ができるんだ」
かっと、体の底から熱くなった。
座っていることができなくて立ち上がると、大きな音を立てた椅子に母さんは驚いたように目を瞑って腕で顔を隠した。喉まで何かが出かかったけれどちゃんとした言葉になってくれる気がしなくて、代わりに振り下ろした手でコップを投げ飛ばした。中身が散らばってスーツに掛かっても、父さんは身動ぎひとつしない。
言われたことを何でもやっているじゃないか。僕はあんたらのおもちゃじゃない。朝起きて学校に通って家に帰ってくる。勉強もしている。──それなのに、『お前は一体何ができるんだ』⁉
母さんの声が聞こえたけれど無視をして家から飛び出す。体に纏わりつく熱が煩わしい、でもここしか僕の居場所はなかった。行く当てもない。ないわけではない。ただ明確な目的地はないまま、走りたかった。足を止めたら叫び出してしまいそうだった。こんな夜に叫ぶわけにはいかないという理性が働いていてよかった。僕はまだまともだ。いや、ずっとまともなはずなのに。
人のいない駅についたと同時に電車が流れ込み、開いたドアから乗車した。冷気に包まれた電車の中に人はまばらで、四人座席に腰を下ろす。ゆっくりと動き出した車窓に視線を向けるが、暗い外の様子は見えず、窓を見つめる自分の顔が反射しているだけだった。お前には一体何ができる?
停車した駅で降りると、辺りに建物らしいものはほとんど見当たらなかった。二駅離れているだけなのに、家の周辺とは全然違う。カエルが鳴いている田んぼ沿いを歩くとしばらくして、作業小屋と間違えてしまいそうな建物が現れた。格子状に組まれた木の間に様々な柄のガラスが埋め込まれている戸には、臨時休業と書かれた紙が貼られている。戸にはカーテンが掛かっていて、明かりもついていない。二階は住居らしいけれど、カーテンの隙間から明かりが漏れていることもなかった。耳を澄ませてもカエルの鳴き声が聞こえるだけで、人の気配はない。
裏手に回り扉に手をかける。ドアノブは回ったけれど引いても開かず、何かが引っかかっているような感覚。何度も引いてみるけれどドアは開かず、扉の角に思い切り爪先をぶつけた。がん、と鈍い音がしただけで、扉はびくりともしない。
とても繁盛しているとは言えない小さな店。何度か話に聞いたことはあるけれど来るのは今回が二回目で、はじめは本当にここなのか疑った。施錠は甘いし防犯カメラもない。カエルの鳴き声がうるさいような場所にぽつんと建ったこの場所が大切な場所だなんて、と思ったと同時に、心底羨ましかった。空調設備はなく、窓を開けて風を呼び込むしかない。熱のこもった室内はとても快適とは言えない。でも立て付けの悪い戸の隙間からたまに入り込むささやかに冷たい空気が肌を撫でて、心地よいと思ってしまった。
ここには座る場所がある。体を休める場所がある。
話す人がいる。話を聞いてくれる人がいる。
僕の唯一と同じはずなのに、全然違う。
レジ裏に片づけられた椅子に足を掛けて、ゆっくりと押し倒した。バランスを崩した椅子はゆっくりと倒れていく。
がしゃん、と倒れてからのことは覚えていない。
気づいたら棚が倒れ、商品が床に散乱していた。その日は月も出ておらず明かりがなかったため、薄暗さの中で夢みたいだった。ぼうっとしたまま帰宅して、また勉強をして、眠って目を覚ましても、夢なんじゃないかと思った。でもあの子が、──井上さんが眉間にしわを寄せて悲しんでいたから、夢じゃなかった。
簡単な顔で、大変だねと言う。帰る場所も落ち着ける場所もある。楽し気に推しの話をして、友人がいて、家とは別に心を休められる場所がある。何も知らないくせに、僕が欲しいものを持っているくせに。
裏口から離れ、壁に沿って店の周りをうろつく。勢いで飛び出してきてしまったため今日は何も持っていない。
ふと窓が目に入る。窓には僕が写っている。
ゆっくりと屈む。地面に落ちている手ごろな石を掴んだ。
今日は窓ガラスの向こうに棚は無い。きっと店内まで飛んでいくだろう。
石を握りしめる。ゆっくりと体を起こして、窓ガラス目がけて腕を振り下ろした──。
「待って!!」
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