
over the spring ——輝くアイドルと新人看護師の労働讃歌——【30】
アンコール(五十嵐舞)
強い光が夏っぽく入ってくる。まだ、肌を刺す感じはないのだけど、それでも光量は多くなっている。いつものライブの一回分を遥かに超える疲労感があって、無意識にドームの大きさを感じる。それでも今日もまたライブがあると思うと、やり切らねばならないという使命感とあの場所の幸福感が入り混じる。自分史上一番広い会場は人生で見た他の景色と比べて圧倒的だった。
ベッドからすくっと起き上がって、キッチンに向かう。いつものようにヤカンに水を入れて、お湯を沸かす。今からまたあのドームの会場に立つのかと思うとこの生活は地味だなと思うのだけど、でもそんなことはいつものことだ。ステージに立っている瞬間だけ私たちは輝けばいい。
沸々と沸くやかんを見ながら、結衣ちゃんは来てくれるのかが気になってくる。前の方でチケットが取れているとよく顔も見えるのだけど、流石にドームほどの広い会場になると後ろの方はなんとなくしか見えない。来てくれているといいなと思いつつも、その願いはなかなか傲慢なのだろう。
でも、結衣ちゃんは結衣ちゃんでどこかで自分の身を削って生きている。毎日救うために全力を注いでいると思うと、それを想像するだけで十分だった。そして、結衣ちゃんもどこかで頑張っているのだから、私も頑張ろうと自然と思える。
ボーッと考えていたら、水が沸騰してから三分経っていて、コップに熱湯を注いだ。適温に冷ましてゆっくり飲む。いつものゆるっとしたジャージを着て、帽子をかぶって外に出る。マンションの入り口にはマネージャーさんが迎えに来てくれていて、移動車に乗る。先に乗っていたメンバーとたわいもない話をしているとすぐに会場に到着した。
昨日も立った場所に、今日も立つ。ドームいっぱいの光の中を掻き分けて舞った昨日のことが忘れられない。あの景色をもう一度見たい。そうやって心の底から思う。
昨日出た修正を重点的にしたリハを終えて、楽屋に戻ってくる。メンバーの顔がいきいきしているのを見て、私もゆっくり飴を舐めて喉の調子を整える。
ケータリングでお腹を満たしながら、ゆっくりと重い衣装に着替えていく。自分の中のルーティンをこなしながら、着々と準備を進めていく。いつもと変わらないことを淡々と続ける。
スタイリストさんから
「今日は髪型どうする?」と聞かれて、「ハーフアップでお願いします」と答える。
「ハーフアップ珍しいね。でも絶対似合うよ」
そう言って、手早く美しく髪をセットしてくれる。昔のライブでふと思い立ってハーフアップにした時に結衣ちゃんがものすごく褒めてくれたのだ。『ハーフアップ似合うと思っていたんだよね』そう言ってくれたから、大事な時はハーフアップにしてきた。昨日の疲労がまだ体に残っている感覚がある。でも、今日はステージに立たないといけない。気力だけでも負けないようにしようと思う。それに、結衣ちゃんがきてくれれば喜んでくれるだろうし、そうでなくても結衣ちゃんが近くにいてくれるような気がする。
そのうちに会場にファンの方が入ってきて、会場はザワザワしてくる。スタッフさんが忙しそうにしながら何かを確かめている。でも、私の心は意外と冷静で、周りの隅々まで見えている。私は緊張とか興奮とかそういう感覚ではないところにいる。
いつも通り円陣を組む。憧れの先輩たちから引き継いでいたこの伝統はずっと変わらない。今はこのグループのメンバーだと胸を張って言える。初めはいつも絶望的な谷しかなかったけど、そうやって言えるところまでやってこれた。円陣で隣にいたみくりちゃんと目があって、彼女もまた、覚悟の決まったような顔をしていて、それがとても頼もしかった。うちの新センターをみんなに見てほしいと心からそう願う。
序曲overtureが流れる。
一曲目のポジションの真下に移動する。隣にいた菜摘が
「尽き果てるまで死ぬ気でやろう」
と耳打ちしてきた。
「もちろん」
そう言って、お互い顔を見て微笑む。じっと時が来るのを待つ。
ステージが一気に上がって、一曲目のイントロが始まる。昨日と変わらず、目の前の景色は私達が創ったこれ以上ない美しい景色。
目まぐるしくライブは進む。
一つ一つのダンスのフリに感覚がある。いつもは体が勝手に動くけど、そうじゃない。ひとつひとつに重さがある。この振り付けは冬の寒い時期に入れたとか、初期の時は苦戦した振り付けが楽に踊れるようになって感動したとか、一つ一つに思いがのる。こんな感覚になったのは初めてだ。そして、自分だけじゃなくて、他のメンバーの動きが本当によく見える。
時間は普通に進んでいるのだけど、私の中でそれはゆっくりと進んでいく感覚がある。これがゾーンだろうと思う余裕すらあった。
ライブはもうラストパートに入っていて、みくりちゃんのセンター曲が始まる。もう終わってしまうのかと思いながらも一瞬一瞬がよく見える。みくりちゃんの後ろ姿がいつかの丸まったものとは違くて、彼女の背中はドームという会場の全てを背負っているようで大きかった。頼もしく思いながらも、私も負けていられないという気持ちも湧いてくる。まだこの魔法の世界にいたいと思ったけど、最後の歌が終わって、私たちはステージバックに戻った。
ものすごい声量のアンコールの声が聞こえてくる。一日目もそうだけど、同じ目的で集まった五万人の力は本当にすごいなと思う。早くステージに戻りたい、そう思って、また立ち位置につく。
イントロが流れる。ポジションについて、私はマイクをぎゅっと握った。
アンコール最初の曲は『over the spring』
たとえ居なくとも、結衣ちゃんの顔を心に浮かべて、一音目を空間にぶつける。私の世界はスローモーションで、周りのものがよく見える。五万人に響けと願いながら、そしてすべての人が前を向いて生きれるように願いを込めて、今しかできない密度にして音色に込める。
目の前には私のペンラカラーのスカイブルーとサクラホワイトが本物の海のように揺れている。一生その色を忘れることはないだろう。どうかこのグループがずっとこの景色を見続けられますように、そうありきたりなことを思いながら、目の裏に力を入れて歌う。
ソロの部分が終わり、みくりちゃんや菜摘が歌い出す。私もこの仲間と共に乗り越えてきたんだという実感が沸々と湧いてくる。メンバーと音を重ねると自分も知らなかったこの歌が見える。それをファンの人が聴いてくれていると思うと、レッスン以上のパワーが出る。こんな瞬間は生涯のうち、もう何回もない。この時を大切にしたい。
そう願っていても、始まったものはいつかは終わる。永遠は一瞬だ。
最後の一音が終わった。やり切ったと思えた。私の今あるものすべてここで使った。そう確信した。
メンバーが集まってきて、顔を見合わせる。これまでのライブを振り返りながらみくりちゃんが話す。みくりちゃんのことは後輩の中でも一番気にしていたから、親のような気持ちで見守ってきた。一言一言に彼女がもがきながら成長してきた証を感じて私はそれが嬉しかった。感極まりそうになっている時に、菜摘が私にもトーク振ってくる。台本にはなかったことで面食らったけど、ゆっくりと今日来てくれたファンの方へ感謝を伝える。もしかすると、伝わりにくい言葉になってしまったかもしれないとも思いながら、でも、自分の中で溢れた感謝の気持ちを言葉にする。話終わって、菜摘がまとめの言葉を話している。もうすぐこの魔法の時間が終わることを察する。終わりが来てほしくなくて、たくさんのファンの人の顔を目に焼き付けるように何回も見回す。見回した景色のどこにも黒い力で引かれるところはない。
菜摘が最後の曲の曲フリをする。メインステージに集まっていたメンバーは広いステージいっぱいいっぱいに広がっていく。ファンの人が掲げてくれるボードを見ながらファンサを返す。ステージの端から端まで移動しながら、この景色を一生忘れたくない、とどめておきたいと思って、頭の中に記憶を押し込むようにペンライトの海を眺める。一人一人の顔が見えて、それぞれが喜んでくれていると思うとやってきて良かったなと深々と思う。
モザイク色の海の中を歩いていて、見覚えのあるシルエットの女の子がスカイブルーとサクラホワイトのペンライトを振って、こちらを見ている。視線が一瞬触ったような気がする。なんとなく結衣ちゃんかもしれないと頭に微々たる予感がする。目を細めてよく見てみたけど、ドームの上の方の席にいるその人の顔まではぼやけてしか見えない。でもあのシルエットは結衣ちゃんだろうという身勝手な確信を持った。
そうして、センターステージの方へ戻ってくる。どうしても結衣ちゃんに今日のこの姿を見て欲しくての幻想なのかもしれない。でもそれだけでも、久しぶりに彼女の存在に触れることができて感極まる思いだった。結衣ちゃんも頑張ってると思うとこの場所に立っていられる。目で見えていることに確証はなかったけど、気持ちではいつも彼女はそばにいてくれている。どこかで私たちの音楽を聴いていて、どこかで私のことを観ていてくれる。理由はないけど、それはわかっている。
『私もこれからもここで生きるよ。』
ライブはアンコールの三曲を終えて、客席を背に階段を降りる。煌びやかな魔法のかかった時間から平凡な日常に戻る。