
over the spring ——輝くアイドルと新人看護師の労働讃歌——【1】
【あらすじ】
看護師一年目の結衣は、一つのミスも許されない現場で、社会の一つの歯車として身を削って働いていた。一方、親友でアイドル6年目の舞は「夢」を売る過酷な労働の中にいた。
一見、対照的な場所にいる二人。しかし、現場で苦しみながら生きる結衣も、舞台上で虚構のために生きる舞もその本質は「身を削って、誰かのことを救う」プロフェッショナルだった。
互いの苦悩は直接は見えなくても、彼女たちは同じ酸素を吸って、一つの楽曲『over the spring』で繋がっていた。
華やかなステージの裏側と、泥臭いナースステーションの夜。身を削って働くすべての人へ贈る、優しくも鋭い現代の労働讃歌。
完結済み・約85000文字
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アドミッション(五十嵐舞)
送迎車から降りて、音のない会場に足を踏み入れる。無機質で冷たい鉄骨のライブセットが私たちを迎える。今の姿では想像できないけど、数時間後には光と音の密度が凝縮される場所になる。私たちは舞台の上で人工の光に照らされて輝く。アイドルという職業は輝きの中に立つ責任がある。
あまり美味しくない喉に良いプロポリスの飴を舐めながら客席を歩く。私の足音だけが遠く響く。
所狭しと並べられた席を見ると、呑み込まれてしまいそうになる。数年前、ステージの上から見た空席の塊が蘇る。座席の上にかけられた不名誉な暗幕は、アスファルトよりも濃く強力な引力を持っていた。今日は全席ソールドアウトしているとマネージャーさんから聞いている。それでも漆黒の印象は拭えずに、前に出そうとする足を竦ませる。
あの時の絶望からグループは成長してきたはずだ。睡眠時間を削り、アイドルという仕事に全てを捧げてきた。いつからかブラックホールの客席はペンライトの極彩色に変わった。
見てくれる人が多くなっても届けたい一人一人という単位は変わらない。家族、友人、いつも支えてくれるスタッフさん、好きだと言ってくれるファンの方。矛盾しているかもしれないけど、より多くの一人一人に伝えたい。
傲慢な願いだけど私たちの姿を見て、ファンのみんなが元気で日常を送ってくれればそれが嬉しい。アイドルというのが社会の力になれている気がするのだ。世界にとって私は、それを構成する一つのピースでしかない。広い世界の中で特別な存在であるかと言われるとそうではない。だからこそ、この場所は日常の延長線上にあってほしい。
後味の悪い飴を舐め終えて、歩くテンポを上げる。客席をぐるっと一周して、楽屋の方に戻っていった。
プロローグ・ライブ(柴結衣)
ふとイヤホンを取ると私の周りは無秩序に音が重なってぼやけている。話し声の重奏は広い講義室では小さめなのに、当事者たちにはちょうどいい大きさでその場所に溢れている。
看護師の国試が終わった大学四年の冬。進路が決まって漠然と生きているとしか思えない人間が講義室には集っている。その雑音はこれから私たちが立ち向かう社会という騒音をかき消そうとしているようだった。
これが人生の春なのかもしれない。生きている中で、こんなに自由に浮いていられる時間は長くない。冬だけど春。私はそんな季節の中にいる。一人ポツンと考え事をしながら、思考の中で浮遊していた。
こんなことを考えている私もこれから社会という戦場に放り出される人間の一人。世界に対して与えられるものはほとんどなくて、社会の歯車の一つとして生きる平凡な人間。
でも、私は五十嵐舞という世界を動かしうる人を近くで見てきた。彼女は人気アイドルグループのメンバーで私の幼馴染である。高校二年生の時にオーディションを受けて合格し、私よりも少し早めに地元を出た。
いつからか推しグループの中に『五十嵐舞』という親友の名前が並んだ。それもすぐに見慣れて、当然のように五十嵐舞は私の最推しになった。舞が加入する前からそのグループは好きだけど、加入してからよりのめり込んだ。グッズやCD、雑誌を収集し、出演番組は録画して、できるだけリアルタイムで追いかけた。今は推しに投入する時間の全てが私の生きる意味だ。ちゃんと食べれて、舞を推せるくらいのお金があればそれでいい。
平凡な私とは違う、ドラマチックな世界で生きる舞。彼女が生きるのは輝いていて、刺激的な毒のある世界だ。ただ、舞が天空人になったかと言われればそうではない。珍しいことがあった時や綺麗なものを見つけた時、お互いにLINEに呟くように書き込む。それはずっとではないけど、ぽつりぽつりと続いている。私たちの間の細い糸は切れていないのだ。
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