メインコンテンツへスキップ
見出し画像

over the spring ——輝くアイドルと新人看護師の労働讃歌——【29】



    ←BACK TOP NEXT→




    ステージアップ(柴結衣)続き



     これまでとは奮い立つものが違って、いつも朝歩いている道が浮かんでくる。楽曲の一音一音が私の胸の底まで入ってくる。新人一日目の緊張も、救急での絶望も、死と向き合ったやりがいも、仕事への正義感も全ての始まりはこの音楽だった。


     そういうものの記憶が全部溢れて止まらなくなる。


     音楽を全身に受けるようにして、ペンライトを振る。どんなに離れてしまっても今の私の根底にはこの曲が流れている。そう強く思った。距離ができようとも根っこはこのグループに支えられている。序曲overtureだけでそんなことを感じる。


     光に包まれた舞たちがステージに上がってくる。オタクがペンライトを力強く振っている。こうやってグループに救われている人はこの世界にたくさんいる。そう実感した。


     流れるようにライブは進む。舞達がいて、彼女たちの後輩がいて、その二つの力が混ざってこれまでよりも推進力は大きい。私が見ていない時間もアイドルは生きていて、私が仕事していた時は彼女達もアイドルという名の労働をしていたことが証明されている。この空間には時間が詰まっている。


     一緒に私たちは生きているんだ。そんな当たり前のことを確信する。連絡がなくなっても、離れていたとしてもその事実は変わらないんだ。


     ひとつひとつの一瞬を噛み締めるようにメンバー達はステージの上で儚く輝く。懐かしい曲もありつつも、私が働き出してから出た曲も噛み合わさって、一つのライブが作られていく。舞が加入してから、このグループが苦しくなってからの数年。でも、そこから這い上がってきて数年。彼女たちの時間の軌跡は私の軌跡と重なる。


     時間が高速で流れていく。もう少しだけ長く続いてほしいとこれほど願ったのはいつぶりだろう。早く過ぎ去れと祈ることが増えた私は、いつの間にか忘れてしまった感情に心が動かされる。


    「次が最後の曲です」


    みくりちゃんがそう言った。オタクからは『えー。』というまだこの時間の終わりが来てほしくない意思がため息まじりの声とともに漏れる。それでも、始まったものには終わりは来る。


     光の中、みくりちゃんの影がセンターに立つ。新曲のイントロが流れて、オタク達は歓声を上げる。みくりちゃんの歌い出しでドームが震える。儚いのに強靭な歌声。天性の歌声。入ってきたばかりのライブで見たときと違って、覇気がある。何が彼女をそんなに成長させたのだろうと思うけど、全てだと思った。一つ一つを積み上げていく。痛みの方が多い労働を乗り越えるその強さは私も知っているはずだ。みくりちゃんの表現がところどころ舞の強いところと重なる。そして強さは伝承されるのだ。圧倒されたままに新曲も終わり、彼女達はステージから捌けていった。


     余韻を感じる。久しぶりに聞くアンコールを呼ぶ叫びが会場を再び一つにする。その力強い叫びは私の胸を打つ。


     彼女達はまたステージの上に姿を現した。と同時に青い照明に切り替わって、アンコールの声が鳴り止んだ。暗くなったドームが静かになる。舞がその中心にいる。一音目がなる。一音目だけで瞬時に家から病院までの道を思い浮かべた。


     『over the spring 季節を飛び越えて』


     舞が歌い始める。歌い出しはいつもよりも優しく静かで力を感じる。心に直接入ってくるようなしなやかで透明な声。ふと金沢で見たあの景色と重なる。静寂がの根底にあって、そこに輪郭のある音が付け足されている。音が浸透して、無音と自然の音が響き合っているようなあの感覚。荘厳な空間を舞が創り出している。みくりちゃんも圧倒的だったけど、舞はそれに経験値と完成度を上乗せして、舞だけの空気を造った。それがあの泉の静けさと近い。


     畏敬の念と推してて良かったという気持ちが湧いてくる。そして舞が創る楽曲が懸命に働いてきた今日この日までを肯定してくれる。渦巻いた感情が全て私のことを救ってくれる。初めてのステージの上でもがく舞を見た時とは異なる種類、でも、目の前で踊り舞うアイドル五十嵐舞に引き込まれる。ずっと遠い舞台にいる舞の姿を追い続ける。一つ一つの動作から意思が伝わってくる。かっこいいとか綺麗とか美しいとかそういうものを乗り越えて荘厳に感じる。どれだけ、レッスンを重ねればこの域までいくのだろう。私はダンスのことはわからないから技術的なことは知らない。でも心はぎゅっと掴まれた。


    音が止む。『over the spring』が終わる。


     圧倒されたオタク達の拍手が少し遅れて聞こえてくる。拍手の音量がこの楽曲の力を示している。余韻は長かった。


     そのうちメンバーがメインステージに集まる。センター曲の披露を終えたみくりちゃんにまず話が振られる。

    「正直、アイドルになってから楽しいことだけじゃなくて、苦しいこともたくさんあって、まだまだだなって苦しいことは数え切れないくらいあって、満足できないこともあって、でも、今日それが全部あって報われました。今の私にだからできることがあって、それでこんなに素敵な景色を見ることができたこと。たくさんのファンの皆さんに支えてもらっていること、それを少しでも返せたらいいなと思って、頑張れました。今日は本当にありがとうございました」

    「ねえ、そうだよね。頼もしかったよ。みくりちゃん」

    そうやって菜摘ちゃんはみくりちゃんのスピーチを受ける。たまっていたものが溢れ出したようにみくりちゃんは涙を流し始める。隣にいる菜摘ちゃんが頭を撫でる。

    「せっかくだから、マイマイにも話してもらおうかな?」

    そうやって菜摘ちゃんは舞に話を振る。私は背筋をピンと伸ばした。

    「みなさん、『over the spring』はいかがでしたか?」

    そう舞が言うと、観客のオタクは「わあああ」と湧いた。歓声を聞いて舞はまた話し始める。


    「ありがとうございます。うん、この場所に今日なら五万人くらいの人が集まって、その人たちにはその人たちの日常があって、今日たまたまグループのことが好きというだけでここに集まっている。それは必然だけど、偶然で、当たり前じゃないけど、当たり前なんだろうなと思います。ここに集まってくれた人が日頃私たちのことを支えてくれていると思うとそれはなんだか尊くて、言葉では伝えきれない感謝と、私も皆さんがいるからここにいるんだと強く感じます。ここ数年は苦しかったこともあったけど、本当に今がすごく楽しいです。これからももっとこういう美しい景色を見るためにやっていくのでついてきてくれると嬉しいです。改めまして今日は本当にありがとうございました」


     一言一言が沁みる。日々仕事をしている私にとって、日常から逃げてこれるシェルターみたいな場所がここで、それはオタクであった大学生だった時も、距離ができてしまった今もそれは変わらない。そういう人もたくさんいると思うと心強い感じがしてくる。離れてしまったけど、それでも心のどこかで大切にしているもの。そうあってもいい気がした。


     そして『今がすごく楽しいです。』と言う舞の言葉が耳の中に残る。苦しい日常であっても何か少しでも報われているのは素敵なことで、舞の言葉が自分の現在をも代弁してくれているようだ。


    その後、菜摘ちゃんが、舞の話を引き取って、

    「次で本当にラストの曲です。メンバーみんなで皆さんの近くに行くので、ぜひ推しから目を離さないでねー」

    と言って、メンバーたちが広がり始める。近くに舞がくればいいなと思って、ステージで輝く姿を細目で追う。見切れ席用に付けられたであろう大きなビジョンと自分の近くに来てくれたメンバーの顔を往復する。流石にドームは大きいし、なんとなく髪型とかでこの子かなと予想はできるけど、それ以上のことはわからない。


     メンバーがぐるぐる歩きながら、ファンサをして回っていく。みんな自分の推しメンのペンラカラーにして、推しが近くに来たらアピールしている。私のペンライトはスカイブルーとホワイトに光っている。


     諦めたその時、近くの通路に舞が来た。気づいてほしい。そうやって思いながら、スカイブルーとサクラホワイトのペンライトを振る。


     ドーム観にきたよ。今日も五十嵐舞は最強アイドルだったよ。『over the spring』 も最高だったよ。


     そうやって思いながらだた舞の方を観ている。遠くてもわかるような透明感と白い肌。舞はますます綺麗になった。見切れ席に背を向けていた舞が振り返る。手を振って、ファンサしている彼女を遠いけど、ずっと観ている。一瞬、舞の視線がこちらにやってきた気がして、私も手を振る。目が合った気がした。そしていつか見たライブの時と変わらずに舞はニコッとする。


     ただこちらの方を見たのだろうと思ったけど、それが一方通行のものであっても、今日だけは舞と視線があったことにしようと思った。オタクの最大限の思い込みで勘違いかもしれない。でも、目線の温かさと温もりはまた私の脳裏に残っている。距離は離れてしまったけど、心の中では舞が頑張っていて、彼女の姿に勇気をもらい続けている。


     最後の歌が終わる。


     メンバーたちがいなくなったステージを見て、まだ魂みたいなものがそこに息づいているような気がして、席から動きたくなくなった。でも、私には私の守らないといけない日常がある。舞からもらったもので、私は戦わないといけない。



    ←BACK     TOP     NEXT→


    あなたへのおすすめ