
over the spring ——輝くアイドルと新人看護師の労働讃歌——【28】
ステージアップ(柴結衣)
金沢の澄んだ泉は感覚として、思い出すことができる。壮大かつ繊細。またいつかその場所に行きたいと願う気持ちはあって、人生を変える場所になるのだろう。
勤務して、家に帰って寝て、また病院に行く。ループする生活で、でもそれは単純作業というわけではなくて、日々変わる患者さんの状況や、アクシデント的に入る急患、毎日イベントがあってどれも同じではない。一人一人寄り添うために、そして対価をちゃんと返せるように試行錯誤する日々である。
四月になって、水口さんの目線の先にあった桜は満開になった。淡いピンクに近い白を目に留めようと何度も木の前で立ち止まる。水口さんの揺れている筆跡を思い出す。
病院に入っていくと新卒の看護師の後輩が挨拶をしてくれる。教育担当ではなかったけど、森さんが『私がいない時は、結衣ちゃんが面倒見てくれるからね』とその子たちに言っていたのだと知る。それを聞いてぽっと心の中に火が灯ったような気持ちになった。充実感のある生活でこれ以上に他に必要なものはないと思って、毎日を送っていた。
新卒の子たちが入ってきて少し経って、六月の夜勤のシフトが配布される。舞のドーム公演の日は普通に出勤があったから、早まってチケット取らなくてよかったと思う。そして舞に変に期待される連絡しなくてよかったという気持ちになった。あのラジオでの話を聞いて、私はドームなら行こうかなと思って彼女に連絡しようと思ったのだ。でも、何か申し訳ない気持ちが勝って、連絡をするのをやめてしまった。もし行くのであれば自分で取ろうと思ったけど、それも実際の行動にすることなく、もしかしたら仕事入ってるかもと思って、抽選にも応募しなかった。どうかライブに行かなくてもずっと友達であってくれますようにと思いながら、ドーム公演に行こうということは忘れていた。実際に仕事が入っていたのだから、舞の去年の後悔を果たすことができなくて申し訳ないと思った。
これまでの縁だったのかと思いながらなんとなく月更新のサブスクになっていたファンクラブの表記をみてみると来月分はすでに更新されていて、来月ギリギリまで継続したら退会することを心に決める。ライブに行かないのであればファンクラブは継続する理由があまりない。
年齢やそれぞれの変化を理由にオタクを卒業していった人たちのことをたくさん見送った。別に全ての人が友達だったわけじゃないけど、たまに流れてくるオタ卒しますという投稿をみてはこの人もやめてしまうのかと思ったり、こんな理由で辞めるんだと思うことは何度もあった。でもいざ自分がそうなってみるとそこの感情はかなりドライで軽く決断できてしまいそうな自分がいる。もう自分が頑張って推すという期間はもう過ぎたのだ。彼女たちの活躍は横目で見るだけで、それが活力に生きるのは無くなってきている。
そうこうしている間にドーム開催まで残り一週間ということになった。そんなときに森さんに
「ちょっと諸事情あって平日休みたいんだけど、変わってもらっていい?」
と声をかけられた。
「ちょっとお母さんが体調崩しちゃったみたいで、平日だと病院の面会長く取れるから……」
「もちろんです」
と答えると、
「その代わり土曜日の出勤代わるね」
と言ってくれる。そこでビビッと来る。舞のグループドーム公演に行けるかもしれない。自分が最近はグループを追いかけていないことも忘れて、チケットが余っているか調べてみる。
すぐにチケットの販売サイトに到達して、スクロールを始める。上から一般指定席のS席もA席もB席もソールドアウトである。離れる運命なんだと思いながら、その下にスクロールし続ける。次に表示された『見切れ席・残席わずか』という文字が目に飛び込んでくる。吸い込まれるように指が動いて、ドーム公演の座席を確保した。
見切れ席だからいつものライブと違って、メンバーは多分近くに来てくれないし、レスポンスされない。でも、舞の晴れ舞台だ。その瞬間に同じ空間に居たいという気持ちが勝った。私の青春を見届けよう。
一週間というのは短くて、すぐにその数字を示した。ワクワクしていつも病院に行く時間に目が覚める。何をするにもそわそわしてしまって、まだ早い時間だけど会場に向かうことにした。もう何年使ったか分からないバッグにペンライトとタオルとかを入れて、玄関を出る。久しぶりに羽が生えたように体が軽くて、『今から舞に会いにいくんだ』という高揚感がある。
まだ梅雨が来ていない黄色く明るい水無月の街を歩く。去年のこのくらいの時期に頭を整理しながらこの辺を彷徨ったなと振り返る。その景色は昼だからか、自分がこの一年を乗り切ったからかは分からないけど、ほのかな色彩が美しく見える。
思ったよりもすぐにドームに到着した。いつか舞達が夢を見ていた白色のドーム。ついに彼女たちがそこに立つ。それは早い段階から応援しているものとしてはとても感慨深いものがある。
ライブに来るのは久しぶりだったけど、Tシャツと舞のアクスタとタオルを買って、ドームの周りをプラプラ歩いてみる。ファンクラブブースでチェックインを済ませて、本格的に何もすることないなと思って、イヤホンを耳に入れる。このライブに向けて、ちょっと前に出た新曲などをリピートして予習してきた。今回のセンターはみくりちゃん。彼女のビジュアルとダンススキルとで新人ながらこれからのエースで間違いないと言われていた。まだ加入して一年程度しか経っていない彼女はどんなパフォーマンスをするのだろうかと興味が湧く。
みくりちゃんへの期待もある一方で、今回のセンター抜擢には疑問を呈するアンチオタの疑問の声が多く見られる。前ならそんなことなったのに、いつからオタクの質が落ちてしまったのだろうと思いながら一連のその流れを追いかける。そのコメントだけで、私の知っている場所では無くなった気がしてしまう。でもそれを吹き飛ばすくらいのみくりちゃんを見てみたい。
一旦カフェに行って、タブレットで座っているとあっという間に開場の時間になる。特にすることもなかったので早めに入り口に向かう。ドーム特有の回転ドアにただ沿う。ぼあっと耳が一瞬だけ塞がる。
気圧が変わった。でもそれだけではない。六月の空気ではない雰囲気がそこにはある。それは夏の感覚とも違くて、自然のものではない。懐かしい匂いのする魔法の空間が広がっている。オタクで溢れていて、その場所の温度は異常に高い。どのオタクもやっぱりワクワクしている顔をしていて、それが私の拍動もあげる。私の青春はちゃんと青だったと確信する。
暗幕みたいなものを潜って、客席のある方へ移動する。広大なアリーナ越しにステージと客席を見るだけで体温が上がる。階段を降りながら、席を探す。ようやく席を見つけてすぐに一旦座る。メインステージがギリギリ見られる。完全に見切れているわけじゃないから、見切れ席にしては当たりだ。久しぶりに舞のパフォーマンスを生で見るんだ。
ざわざわと人が入ってくる中、終わった後、どんな気持ちになっているのだろうと想像する。パフォーマンスで圧倒された興奮なのだろうか。それとも自分がオタクとして終わってしまったという喪失感なのだろうか。福岡公演を配信で見た時と同じようにもの寂しくなるのだろうか。はたまたその全てを乗り越えた清々しい気持ちなのか。結局は何も感じなくなるのだろうか。
私はこの先も舞のいるグループに救われる生活なのだろうか。それとも徐々になくなっていくものなのか。ただ単純に楽しみたいとは思いながら、頭では先のことを考えてしまう。
だんだんと隣にも前にも人が多くなってきて、大きい箱の中が人間で満たされた。みくりちゃんと菜摘ちゃんの影ナレがあって、会場は二人の声を着火剤として会場全体が熱くなる。胸の高鳴りはよくライブに行っていた時と同じだ。一気に照明が絞られて、会場の空気が変わる。いよいよ始まると身構えた瞬間、序曲overtureが始まった。