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【始めは処女の如く〜アラサー女子のための孫子の兵法〜】〈第9章〉必ず人に取りて敵の情を知る者なり

    序章

    前の話
    〈第8章〉これを経るに五事を以てし、これを比ぶるに計を以てす


    「鈴木さん、今度部署異動するらしいよ」

     昼食を食べながら同僚が何気なく話した。彼女のそぶりからは他の噂話と同様、彼女が話題にしながらも特別興味があるわけではないということが伺える。

    「そうなの?」

     先ほど行ったコンビニで買った期間限定の天むすを頬張りながら、綾子も鈴木の異動の噂をただ時間潰しの話題として扱った。

    「事実上の出世だって話もあるみたい」

     その話題に特に興味もわかなかったはずだが、「出世」という言葉を聞いて胸がざわつく。

    「そうなの?」

     彼女に自分の声が微かに震えていることを悟られないよう、綾子は天むすを口を押し込んで誤魔化した。

    「佐藤さん、本当に知らなかった?」

     鈴木の異動のことよりも、鈴木のこの話を知らなかった綾子に同僚は興味を示したようだった。

    「知らなかった」

    「意外。佐藤さん、鈴木さんと仲が良さそうだったのに」

    「特に仲がいいというわけでは……」

    「そうなんだね。まあ社内の関係なんてそんなもんだよね」

    「異動の話ってそんなもんだよね。一度社内で話題になればすぐに広まるもの。……」

    「でも、結構前からみんなこの話知ってたけど」

    「え……そうなの……知らなかったなぁ……あはは……」

     空笑いしながらも鈴木の異動が気になって仕方がない。

     自分で言ったように鈴木には日頃から世話になっているとは思う。鈴木の仕事ぶりは綾子だけでなく社内の一部を除きほとんどの人が高く評価もしている。そんな彼がより重要な部署に異動となるのも不思議なことではない。

     ただ、どうしても綾子は先日の会議でのことがひっかかっていた。あの一件以来、定例の会議は質が向上し内容が充実したものに変わった。そんな中で沈む人間とこれまで眠っていた能力を発揮する人間の差が明らかになり、鈴木は後者として、そして会議の質の改善に貢献した人間として今まで以上に頭角を表すようになっていた。

    「あの会議のこと、実際に動いてくださったのは確かに鈴木さんだけど……」

     私はただ文句を言っただけで何もしていない。文句を言っただけで何もしていないのだから評価されないのは当然のこと……と自分に言い聞かせ嫉妬心を必死に抑えようとする。

     おにぎりの残りを無理やり口に押し込み、喉につっかえそうになるのを水で流し込む。

    「そういえばこの前あの俳優が結婚したね。えっと、あのドラマに出てた二人」

     胸のざわつきが多少落ち着いたところで、綾子は話題の転換を試みた。

    「そうそう、ものすごい美男美女カップルの。……でも、それも結構前のことじゃない?」

     同僚はついに綾子の動揺に気付かないままだったようだが、綾子の中にはやもやとした苛立ちが込み上げてくる。


     それでも昼休みが終わり仕事に戻ると自然、鈴木への嫉妬心を忘れていく。メモに書いてあるタスクをこなしているうちに終業時間になった。

     荷物をまとめ、綾子はオフィスを後にする。

    「佐藤さん」

     ビルを出て駅に向かおうとしているところを背後から呼ばれた。振り返るとそこには鈴木がいた。鈴木はいつも通り、人好きのする笑みをを浮かべていたが、今日の綾子にはその笑みがどうも引っかかった。忘れていた鈴木の異動に対する嫉妬と、何も知らなかった自分への苛立ちが蘇る。

     家の方向が同じなのだから、鈴木の目的地は、これから自分が向かう先と同じなのだろう。

     落ち着かない気分のまま、綾子は鈴木と並んで歩かざるをえなかった。

    「まだまだ暑いですね」

     綾子の額に汗が浮かびそうになるのは暑さのためだけではない。

    「……そうですね」

     暑さに文句を言っていても様になる人だと、ちらりと横にいる鈴木を見て綾子は思う。

    「鈴木さん、今度異動されるんですね」

     綾子は我慢できずに切り出した。

    「そうなんですよ」

     近隣の会社から帰宅するサラリーマンを呼び込むための客引きの声が響く。看板の照明が薄暗い空によく映えていた。

     その照明に照らされた鈴木の笑みは、硬直していた。

    「佐藤さん、今夜時間ありますか? 前から少し佐藤さんとお話ししたいなと思ってたんです」

     鈴木のその声は、なぜかいつものはきはきとした語調ではなかった。

    「いいですけど……」

     そして綾子は鈴木のこの誘いを断ることはできなかった。

     二人で駅前のチェーンの居酒屋に入る。テーブルにつき、とりあえずということで各々ドリンクと軽食を注文する。

     注文をとりにきたスタッフが背を向けたのを確認すると、すぐに鈴木は改めて言った。

    「俺、今度異動することになりました」
    「……そうですか。おめでとうございます」

     こうしてまっすぐに本当のことを言われると、言いたいことが言えなくなる。綾子は早く注文したドリンクと料理が来ないかと、ちらりとホールの方に目をやった。

    「これから佐藤さんと一緒になる機会が少なくなると思うと……。あの会議の件では一番周りに働きかけてくれたのは佐藤さんなのに……」

     鈴木らしくない歯切れの悪い物言いに、綾子はいよいよ恐縮してしまう。いっそのこと、鈴木にはここでふんぞり返って自慢でもしてもらった方が、綾子としてはまだ楽だったかもしれない。

     鈴木の真っ直ぐな姿勢に綾子は「いえ……」「そんな……」といった言葉を繰り返すのみ。

     返す言葉を必死に考える綾子とそんな綾子に向き合う姿勢を崩さない鈴木の元に、先ほど注文をとったスタッフがドリンクと料理を運んできた。

    「あの時のことは別に横取りされたなんて思ってないです。私はあの時、ただ文句を言っただけなんで」

     景気の良いスタッフの声に少し救われたのか、ようやく綾子はそう言うことができた。

    「いや、あの時はあれから本当にいい資料を作ってくれたじゃないですか。今ではあの資料そのものも評価されていますが、あれがなければ会議は動きませんでしたよ」

     鈴木の口振りからは終始誠実な人柄が感じられた。

     その誠実さに応えようと綾子も努めて声を明るくし、

    「私ももっと頑張ります」

     と言った。

    「そういえば今日一緒にお昼にした子が言ってたんですけど……」

     そして目の前の料理に適当に箸をつけながら話題を変えようとする。

    「ああ、最近流行ってるあれね……」

     と、鈴木は話題に乗りながら綾子にならって箸を進めた。

     本題の後は話題を転々としながらもドリンクもつまみ程度の簡単な料理の皿を注文し、適当なタイミングで鈴木の方から「明日も出社ですし」と言い各々荷物をまとめてテーブルをたつ。

     鈴木は慣れた様子で綾子に一切隙を見せないままさっさと二人分の会計を済ませてしまう。

     店の外で綾子が財布を取り出そうとすると、鈴木はそれを制して、

    「今日は俺が払います。俺の勝手な都合でしたし」

     と言ったが、

    「いえいえ、自分の分くらいは自分で払います」

     と、綾子は頑として財布をしまおうとしなかった。鈴木の異動についての話をしたからこそ綾子は払いたかった。

     綾子の態度に鈴木はついに折れ、小さく「ありがとうございます」と言いながら綾子が差し出した現金を受け取った。

    「今日は俺の都合でありがとうございます」

    「いえいえ……」

     最後まで必死に笑顔を貼り付けて受け答えながら、綾子は鈴木と帰る方向が同じであることを思い出す。

    「俺、少し寄っていくところがあるので今日はここで」

     顔の筋肉が引き攣りそうなのを耐えていた綾子だったが、鈴木がそう言いながら駅と反対方向を指差したため最後の力を振り絞ることができた。

    「そうですか。では、また明日」

     鈴木に軽く頭を下げ、綾子は駅に向かって歩き始めた。

     もう鈴木が自分の顔を見ていないことが確認できると急に顔面の筋肉の力が抜ける。頬の筋肉はすっかりこわばっていたのか、駅に着くまで筋肉痛に似た痛みが残っていた。

     ホームに着き、いつもの乗車口に並ぶとようやく顔だけでなく肩の力も抜くことができる。ふぅと長く息を吐くと、

    「悔しい……」

     吐息と一緒にようやく溜まっていたつぶやきが漏れた。

     来た列車に乗り込み扉付近に立つ。窓の外を流れる夜景を眺めながら鈴木との会話を振り返った。

     なんだかんだ言って、自分はこの仕事もライフスタイルもそこまで嫌いではなかった。むしろ好きだったということに、最近は気づき始めていた。好きだったからこそ、入社してから今まで続けることができた。振り返ればそうした中で評価されることも何度かあった。充実感を覚えるようになったのは、こうして自分自身のことに気づけるようになったからかもしれない。

     だからこそ、鈴木が誠実な態度を貫いたことに対して、綾子は苛立ってしまう。

     自宅最寄駅で下車し、家に向かって歩いていると悔しさが一層こみあげてくる。

    「せっかく楽しめるようになったのに……」

     誰もいない部屋に入ると我慢ができなくなったのか、希に「悔しい」という旨を送った。

    「大丈夫?」

     すぐに希は通話をかけてきた。

    「ありがとう……。なんで私、こんなに悔しいんだろう。彼に嫉妬してるんだろう」

     すでに緊張の糸が切れていた綾子の声は苦笑しながらもすっかり力が抜けていた。

    「確かに私は文句を言っただけなんだけど」

     そう言うと、いよいよ惨めな気分になってくる。

    「……でも、それって綾子、別に文句言ってただけでもなくない?」

     その声で希が首を傾げているのを感じた。

    「どういうこと?」

    「部外者の私にははっきりしたことは何も分からないけど、だって綾子、その会議で本当にいつもよりもいい資料作ったんでしょ。それがなければその鈴木さんとやらの手柄は成立しなかったわけじゃん」

    「それはそうだけど……」

    「『孫子』に『必ず人に取りて敵の情を知る者なり』って言葉がある」


    必ず人に取りて敵の情を知る者なり

    『孫子』「用間篇」。

    戦争で勝つためには、敵の情報を徹底的に集めて勝たなければならない。そして敵情は占いや過去の経験による推測や自然界の巡りによって知ることができるものではなく、間諜、つまりスパイによってのみ正確に知ることができる。
    敵の情報を得るための金や褒賞を間諜に与えるのを惜しむことは人民を無駄に殺すのと同じ。優れた君主や将軍は何としてでも戦に勝つために敵情を知ることに貪欲になるべき。


    「戦争ではスパイが一番高く評価されるってこと?」

    「実際には一概にそうとは言えないけど、スパイによってもたらされる情報はそれだけの価値があるって意味。その価値が理解できない人間は戦に勝つこともできなければ名君とも言えない」

     それはそうなのだが、どうしても情報戦と聞くと気が引けてしまう。

    「噂話が好きってあんまりいいイメージないけど……」

    「そう言いたくなる気持ちも分かるよ。自分はそういうことを口にしない人間でありたいって思ってる人はたくさんいるし。でも、なんだかんだで情報を生むのは人間だし、運ぶのも人間。だからそれこそ『噂話で人の浮き沈みが決まる』っていうのも含めて、仕事での敵も味方もどう人とつながるかが仕事での評価に影響を与えることは珍しいことじゃないし実は悪いことばかりでもないんじゃないかな」

     仕事の昼休みに同僚や先輩・後輩と食事をすることは多い。休日などのプライベートでは希以外の友人とも会うことはある。そしてなんとなく時間があれば暇つぶしにSNSを見ることもあればオンラインゲームをすることもある。そしていつもそうした場では何らかの情報交換がされる。さらにスマホでニュース記事を見ることもあれば知りたいことを検索することもあり、本を読むこともあるだけでなく、なんとなく流れているテレビやラジオなどでも情報を得ることはある。

    「鈴木さんの異動の話、同僚の噂で聞いたんだよね。噂が流れてたってことは私すでにかなり遅れてたじゃん……。私は情報戦に負けてるな……」

    「今回の件は情報戦に負けたというよりも、まだ綾子についての情報が十分に流れていないんだと思うよ」

    「なんで?」

    「だって綾子、その会議でいい資料作ったんでしょ。それ、今は評価されてるんでしょ。これまでにその他のことでもいろいろあったんでしょ。自分で思ってるほど、綾子は何もしてないわけではないと思う」

    「そうだけど……」

    「綾子は自分で勝手に自分のことを『文句言ってるだけで何もしてない』って思い込んで落ち込んでるだけだよ」

    「そうなのかな……」

     希が通話口の向こうでため息をついた。

    「だって、その鈴木さんとやらもそう言ってたんでしょ。だから彼はわざわざ二人きりで自分の異動のことについて話そうとしてくれたんじゃない」

    「そうだね」

    「だから綾子は今はまだ何も負けていない。でも、言葉の受け取り方に問題がある。とりあえず、その鈴木さんとやらに失礼だから落ち込むのやめな」

    「はい!」

     手厳しい希の指摘に、綾子は思わず返事をしてしまった。しかしその自分の声にようやく気持ちがすっきりした。

    「……ありがとう。私、周りは評価してくれてるのに、自分で勝手に自分のことを『文句言ってるだけで何もしてない』って低く評価してた」

    「『孫子』って本当に現代のアラサー女子にも役立つことがたくさん書いてあるよね。……私も綾子とこうして話してて改めていろんな発見ができるようになったよ。ありがとう」

    「こちらこそ、ありがとう」

     最後に二人でそう締めくくり、通話を終了した。

     まだまだやれることはたくさんある。

     帰宅前まで項垂れていた綾子は再び仕事をがんばろうという気持ちになった。


     一週間後、綾子は管理職の女性に呼び出された。その女性は女性管理職としてだけでなく、結婚も出産もしていることから就活生に「この会社で働く女性」として紹介されることも多い人物だった。綾子も就活の際この会社のパンフレットに彼女のことが書かれた記事を何度か見た。

     彼女の元に赴くと側には鈴木がいた。思わず「鈴木さん」と声をかけそうになるのを必死に我慢する。鈴木は綾子の驚いた表情にいつものように微笑み返した。

    「佐藤さんに今度お願いしたいことがあります」

     その女性管理職はゆったりとした仕草でタブレットを取り出し、資料を提示する。彼女の表情や仕草と、彼女の隣に鈴木がいるからこれから話されるのはいい話であることは予想できた。

    「今度社内でこういうプロジェクトがあるんですけど、佐藤さんにチームリーダーを任せたいと思いまして」

    「え……」

     目を丸くし、綾子は彼女と鈴木の顔を見比べる。

     彼女は画面をスワイプさせながらプロジェクトの概要を説明した。そのプロジェクトは前々から綾子が一度やってみたいと願っていたものであり、そのポジションはこの会社での登竜門の一つであることも知っていた。

    「佐藤さんならできると思いまして。……もちろん断っていただいても構わないですけど」

     言葉つきははっきりとしているが、それでも穏やかな人柄が根底にあるのが分かる。彼女の、社内での立場の違いはあれど、むやみに女性の活躍の場を広げようとしているわけでもなければ、かわいそうな社員を助けるためでもない、自分を対等な人間として扱ってくれている姿勢を前にすると、彼女の今の地位も納得できた。

    「やります」

     真っ直ぐに彼女を見つめ、綾子はすぐにはっきりと答えた。それ以外の回答はなかった。

    「よかった。じゃあお願いします」

     その後今後の流れなどについて簡単に説明を受け、綾子は自分のデスクに戻された。

     席に戻る際、もう一度鈴木を見ると鈴木が声には出さず口の動きだけで「おめでとう」と言っているのが見えた。

     その日の終業時、綾子は帰ろうとしているところを背後から鈴木に声をかけられた。

    「おめでとうございます」
    「……ありがとうございます」

     先日のこともあり綾子は今回の話を喜びながらもそれをどう鈴木に伝えればいいのか困惑する。

    「鈴木さんがお膳立てしてくださったんですか?」

     綾子の反応に鈴木は苦笑する。

    「俺はただ、彼女と雑談している時に佐藤さんのことを話しただけです」

     居酒屋で申し訳なさそうに自分の異動の説明をした時だけでなく、綾子はこれまでも鈴木からは誠実さを感じていた。そして今も綾子はそれを感じる。

    「……あ……ありがとうございます」

     微笑んでいる鈴木を見ていると慣れない安心感に包まれ、すらすらと言葉が出なくなる。

    「俺、こう見えても社内で顔が広いんですよ」

     言い淀む綾子に鈴木も何を言えばいいのか迷っているのか、無邪気な雰囲気を装う。

    「ちょうどこの前友達とそういう話をしました。『情報って人が運んでくるよね』って。同じ言葉でも受け取り方次第で意味がまるで変わってしまうから、だからこそ受け取った情報は自分の頭でしっかり考えないと」

    「本当にそう思います」

     いつも通り鈴木と会話しているはずが、今日はどうしても鈴木を直視できない。決して鈴木の側にいるのが苦痛というわけではないが、どうしても落ち着いて話すことができない綾子は宙を眺め鈴木からの言葉への適切な返答を探し回る。

    「これから忙しくなりますね」
    「おかげさまで」

     いつも通りであるはずの鈴木に、綾子はなんとかそう返した。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門


    続く

    目次

    序章
    〈第1章〉彼を知り己を知れば百戦危うからず
    〈第2章〉風林火山
    〈第3章〉進んで名を求めず、退いて罪を避けず
    〈第4章〉敵の意を順詳するに在り
    〈第5章〉夫れ兵の形は水に象る
    〈第6章〉鳥の起つは伏なり
    〈第7章〉百戦百勝は善の善なる者にあらず
    〈第8章〉これを経るに五事を以てし、これを比ぶるに計を以てす

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