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【始めは処女の如く〜アラサー女子のための孫子の兵法〜】〈第7章〉百戦百勝は善の善なる者にあらず

    序章

    前の話
    〈第6章〉鳥の起つは伏なり


     日に日に暑くなっていくのを感じる。遮光機能のあるカーテンを閉めていても日差しが部屋に割り込んでくるのがベッドの中からでも分かる。この時期になるとアラーム音ではなくその光に綾子は目を覚ます。いつも通り顔を洗い、簡単に朝食を済ませ支度をする。

     汗でメイクが崩れるのを防ぐためにベースメイクは特に丁寧に仕上げなければならない。鏡をのぞきこみ下地とファンデーションをのせていくついでに自分の肌の状態を確認する。

     自分が毛穴の開きやシミ・くすみ、小じわが気になり始める年齢であることは仕事柄理解しており、自分の肌にそれらの兆候を見つけた時には焦りもする。一方で日々の自分の肌の変化を観察するのは決して悲観的なものではない。綾子がメイクをするようになってからもう何年も経つはずだったが、それでもこんな風に肌の状態を確認するようになったのはつい最近身についた習慣だった。

    「『夫れ兵の形は水に象る』ね」

     沖縄の海で感じたような自分の体の変化はいつも通りの日々の中でも起きている。毎日メイクをし、自分の顔を見つめ、自分の肌の状態を見ていると本来人間も水のように常に形を変化させているのだと実感する。

     ここ数日、帰る時間も早く、精神的な余裕もあったのか今日の肌はいつもよりも透明感が増している気がした。メイクの乗りもいい。これならば日中多少汗をかいても派手に崩れる心配はないだろう。

     身支度を終え、玄関のドアを開けると蒸し暑い空気が一気に綾子を包み込む。その瞬間にじわりと全身から汗が滲み出る。駅まで歩いている間も何度か額に浮かぶ汗をハンカチで拭き取った。

     いつも通りの時間に駅に到着し、定刻通りに来た列車に乗り込む。車内ではクーラーがかけられているはずだが、人いきれであまり涼しさを感じられない。人に押しつぶされそうになるのを耐えながら綾子はスマホで『孫子』関連の書籍を読む。

     出社するといつも通り綾子は同僚たちと挨拶を交わし、自分のデスクに向かった。

    「佐藤さん、おはようございます」

     声をかけられたので振り返るとそこには鈴木がいた。鈴木も今出社したばかりなのか、体から暑さを逃すため襟元を気にしている。

    「おはようございます。もう最近は本当に暑いですね」
    「本当に。夏本番って感じですね」

     そのまま鈴木は綾子の脇を通過し自分のデスクに戻ろうとしたが、ふと足を止めて思い出したように言った。

    「今日はあれがありますよ」
    「あぁ……」

     鈴木に言われて綾子も思い出す。毎月ある定例の、とりあえず関連部署の人間がおよそ二時間一箇所に集まった後、解散する以外に何もない会議。

     昨日はその会議で使われるはずの資料を作成していたため、退社する前まではその会議のことを覚えていたが、今朝目覚めてから鈴木に言われるまでの間、すっかり忘れていた。

    「あの会議か……」

     綾子及び参加者の誰も咎められることがない反面、新しいアイディアが生まれるわけでもない。それはそれで楽ではあるが、そんな会議のために資料の準備をしている間は虚無感が拭えない。

     鈴木の背中を見送りながら、綾子は深いため息をついて肩を落とした。


     午後一時、昼休みが終わった直後に綾子はその会議会場であるミーティングルームに行く。そこにはすでに鈴木と他部署の参加者が集まっていた。

    「失礼します」

     綾子は鈴木の隣の自分の席につく。この部屋は南向きで窓が大きく、そこから自然光がたっぷりと注がれる。さらに最近社員の快適な労働環境を整える動きでもあったのか、空調は快適であり、椅子はこれまでのパイプ椅子から座り心地のいいものに替えられていた。緊張感のない、快適でゆったりとした空間内を見渡すと、あくびを必死にこらえようとしている参加者と目が合いそうになる。

    「今日は本当に天気がいいですね」

     会議の進行役が入室するなり日の光に目を細め一同に軽く礼をし、

    「それでは今月の会議を始めます。皆さん資料のご準備はよろしいでしょうか?」

     とホワイトボードの前に立った。ホワイトボードにパソコンなどの映像を映し出すこともできるはずだがこの会議ではもはや誰もそれを利用しようとは思わないのか、皆手元に用意されたホチキス止めの資料を軽くめくり全てがそろっているかどうかをチェックするのみ。

    「それでは企画部の斉藤さんからお願いします」

     進行役はいつも通りの順番で参加者の名前を呼んでいく。名前を呼ばれた人間はその場で立ち上がり「それではお手元の資料をご覧ください」と言ってそこに書かれたものを読み上げていく。

    「何かご質問等はございませんか?」

     ホチキス止めされた資料の最後のページを読み上げたところで話者は周囲を見回すが、誰も何も言おうとしないまま一定の沈黙の時間が過ぎ、適当な頃合いに次の人が指名される。

     それでもごく稀に用意された資料の中に興味深いことが書かれているのか、参加者の中の一人がおずおずと挙手をし発言することがある。

    「何かご質問等はございませんか?」
    「ここのところなんですけど……」

     そんな時は話者だけでなく参加者全員の目に光が宿る。

    「そこについては……」
    「そうなんですね。とても興味深いです」
    「いい案だと思います!」

     久しぶりの刺激に話者も質問者も他の参加者も午後の眠気を忘れ、その資料全体に興味を持ち始める。

     が、ミーティングルーム内に活気が生まれ、話題が膨らもうとするタイミングで進行役が口を挟む。

    「でもそれは上が許さないので……」

     決して強くは言わず、本人も控えめな態度を取ろうとしているのは参加者全員が理解しているからこそ、生まれた活気も一瞬で冷める。

     これが毎月二時間。

     責任を押し付けられることがないどころか、責任が生じることもない、楽と言えば楽な会議。

    「それでは次に佐藤さんお願いします」
    「はい……」

     名前を呼ばれた綾子は立ち上がり、「お手元の資料をご覧ください」と言って自分の資料をそのまま読み上げる。途中ちらりと話者として参加者の表情をチェックすることもあるが、綾子の順番に至る頃には参加者全員が綾子の資料そのものではなくこの会議そのものに対する興味を失っている。

    「どうせ何を発言してもこの部屋の外にこの案が出ることはない」

     話者・他の参加者両者の顔にはそんな諦めが浮かんでいた。

     結局綾子が作成した資料もいつも通りぱらぱらとページがめくられるだけに終わり、綾子の「何かご質問等はございませんか?」に誰も何も言おうとしないのを確認した上で、綾子は着席するしかなかった。

    「それでは今月の会議を終了します」

     進行役の一声の直後に参加者たちが一斉に大きく息を吐く。それぞれ受け取った資料を手にミーティングルームを後にした。

     一歩部屋から出ると体が想像以上に固まっていたことに気づく。それをほぐすために綾子は周囲に気づかれないよう軽く肩を持ち上げた後ストンと落とした。

    「はぁ……」

     気楽ではあるが睡魔との戦いに疲れる。

    「さっきの会議、なんでいつも俺たちが呼ばれるんでしょうね」

     ふいに後ろから声をかけられた綾子は気を取り直して振り向くと、いつもよりも疲労感を浮かべた鈴木がそこにはいた。鈴木も「うーん」と小さく唸りながら指を組み、伸びをする。

    「鈴木さんもそう思います?」

    「思いますよ。というよりも俺たちだけじゃなくあの会議の参加者全員そう思ってますって」

    「全員?」

    「そう、全員」

    「全員、か……」

     会議に対して不満を抱えているのは自分だけではないことに安堵するというよりも、全員が会議に価値を感じていないことに落胆せずにいられない。

    「来月もこの会議あるんですよね……」

     ただそこにいればいいだけの会議であるはずでありながらも来月のことを考えると気が重くなる。

    「一応定例の会議ですから」

     鈴木の声にも諦めの色が浮かんでいた。

     デスクに戻り、今日の残りの作業をチェックする。会議の後の業務は滞りなく進み、この日は綾子は定時で帰ることができた。

     帰り道の電車の中で綾子はスマホの電子書籍で読み進めていた『孫子』関連の本を開き、過去にマーカーを引いた箇所をチェックした。

    「百戦百勝は善の善なる者にあらず」

     『孫子』の中でも比較的有名な言葉なのか、他の書籍やWebサイトなどでも何度か目にしたことがある言葉に自分もマーカーを引いていた。


    百戦百勝は善の善なるにあらず

    『孫子』「謀攻篇」。
    戦争では敵を無傷のまま降伏させるのが上策であり、敵を打ち破ることは下策にあたる。戦わずして勝つことが最上。
    そのためには戦ってもよい時と戦ってはいけない時を弁え、軍の用い方を理解し、自国・自軍の上下関係を整え、こちらでは準備を徹底した上で油断している敵に攻撃を仕掛けなければならない。
    また、その上で主君が有能な将軍の能力を信頼して無闇に干渉しないことも重要になってくる。
    これは国単位の話ではなく軍団や隊といった小さな単位にも言える。


     「兵とは国の大事なり」つまり戦争とは国の命運を左右しかねない出来事であることを心得ることの重要性を説くことから始まる古典である『孫子』ならではの考え方だと、綾子も初めて「百戦百勝は善の善なる者にあらず」を読んだ時には思った。

     今日も開催されたあの会議のことを振り返る。

    「全員そう思ってますよ」

     会議の後に鈴木がため息混じりに言った台詞は綾子にとってどうしても引っかかった。

    「私たち、無意味な戦いを繰り返してる気がする……」

     スマホから顔を上げると夏の夕方の空が車窓の向こうに広がっている。綾子はスマホをバッグにしまい自宅最寄駅までの数分間、その空を眺めて過ごした。


     翌日、いつも通りの時間に綾子は出社し自分のデスクに向かう。

    「佐藤さん、おはようございます」
    「あ、鈴木さんおはようございます」

     鈴木といつも通りの挨拶を交わした流れで、なぜか綾子はそのまま鈴木を呼び止めた。

    「あの、鈴木さん」

     普段とは異なる流れに鈴木も若干面食らったのか、戸惑いながら綾子の表情を伺った。

    「どうしました?」
    「えぇっと……、あの……」

     自分でもなぜ、鈴木を呼び止めたのかが分からない。

    「昨日あれからあの会議について、なんだかいろいろ考えちゃって……」

     何を言いたいのかも分からないまま、綾子はしどろもどろに思いついたことを言ってしまった。

    「あの会議についてですか」

     鈴木はにこやかにうなずき、

    「……場所変えましょうか?」

     と提案してきた。

     最近の鈴木との対話を振り返れば鈴木が自分に対して決して悪い感情を抱いているわけではないとは思っていたが、予想外の食いつきに綾子はますます戸惑った。

    「いえ、ここで大丈夫です。大した話じゃないので」

     慌てて綾子は首を横に振る。

     辺りを見回しながら鈴木は提案する。出社時間が迫っていることもあり、周囲には少しずつ人が増えつつあった。

    「ただの文句でしかないので」

     くすりと鈴木は小さく吹き出した。

    「……佐藤さん、やっぱりそういう話は場所を変えましょう。詳しく聞かせてください」

     面倒なことになったと思いながらも、引き下がることはできなかった。

     空いているミーティングルームに二人で入る。この時間帯にここに入るのは綾子にとって初めてだった。窓の外に朝日がさんさんと降り注ぐ街並みが広がるこの部屋は、昼間とは若干異なる印象がある。

    「で、どうされましたか?」

     綾子に向き合いながらも鈴木は腕時計でちらりと時間を確認した。

    「いえ……やっぱりあの会議、ちょっと疲れちゃったなってだけです……。何もないことに疲れるのも変な話なんですけど」

    「疲れるのも無理はないですよ」

    「毎月あの会議のために、皆それなりの準備をしているわけですし、それがただ無意味に終わることが繰り返されれば、会議が自己満足を得る場になっても仕方がないじゃないですか……」

     前のめりになって耳を傾けてくれる鈴木と対面すると、綾子はなぜか自然と言いたいことが言えた。

    「だから昨日はなんだか疲れてしまって……」

    「俺も疲れましたよ」

    「文句ばかりですみません……」

    「いや、そういう意味ではなく、俺もあの会議に疲れてるってことです。……やっぱりあの会議は変えるべきところがある」

     鈴木の語調からは強い意思を感じられた。

     綾子は昨日の帰り道で読んだ『孫子』の「百戦百勝は善の善なる者にあらず」と胸の内で唱える。習慣としてやっていることほど「闇雲に百回戦っている」状態になりやすい。

    「……例え慣例であろうと何事も闇雲にやるのもよくないと思います。慣例であるからこそやり方を工夫しないと」

    「おっしゃる通りだと思います」

    「だから、次のあの会議では、私もそれなりの資料をご用意します。ですから……」

    「その話、乗りましょう」

     鈴木は一体何の話に乗る気なのだろうか……と、思わず綾子は疑ってしまった。自分でも流れに任せて考えるよりも先に言いすぎたと後悔する。

    「佐藤さんの意見に俺も賛成です。そういう話なら俺も一役演じますよ。次の会議は二人で盛り上げましょう」

    「はい!」

     それでもなぜか鈴木の前では、嘘をついたという気にはならなかった。

     綾子の返事を聞いた後、鈴木はもう一度腕時計を確認する。

    「そろそろ始業時間なので戻りましょうか」
    「そうですね」

     互いにあいづちを打ち、二人はミーティングルームを後にした。

     廊下を歩きながら鈴木はしみじみと語った。

    「俺と佐藤さん、社歴は数年くらいしか違わないはずなんだけどな」

    「多分そうですね」

    「俺も数年前まではもう少し気概があったような気がします。……ただ、その時は『そういうことはもっと偉くなってから言え』って言われて。それもそうだなって思うようになっちゃったんです」

    「でも鈴木さん、私に『そういうことはもっと偉くなってから言え』なんて言わなかったじゃないですか」

     苦々しさを含みながらも根底には深い優しさがある鈴木の声音は綾子をかえって勇気づけた。


     約一ヶ月後、定例の会議が開催された。綾子と鈴木もいつも通りの時間にその会議が開催されるミーティングルームに入る。

     綾子にとっていつも通りではないのは、今回綾子が用意した資料は、鈴木にうっかり宣言してしまった通り、これまでのものよりも内容がしっかりしたものだったということだ。

     あとは鈴木が本当に一役演じてくれるかどうかだけだった。

     ミーティングルームに入り、着席する。隣に座っている鈴木に目をやると、鈴木はすぐにそれに気づいた。

    「任せてください」

     鈴木の目はそう物語っていた。何を任せたらいいのか分からないまま、綾子は小さくうなずいて見せた。

    「失礼します」

     ミーティングルームのドアが開き、いつものメンバーとは異なる人物が入ってきた。綾子と鈴木を含むすでに室内で待機していた参加者は、その、この場で見慣れない人物に一斉に視線を向ける。

    「今回からこちらの会議の司会進行役を担当させていただくことになりました」

     具体的な評判や人物像に関することは聞いたことがないが、綾子も名前と所属部署くらいは聞いたことのあるその人物は、その場全員の視線に物怖じすることもなく朗らかな声で自己紹介をする。

    「これまでの進行役だったあの人は……?」

     隣に座っている鈴木にそっと耳打ちしようとすると、鈴木も驚いているのか無表情のまま固まっているのが分かった。

    「これまでの進行役だった方はご本人の意思もあったためこちらの会議の担当を外れることになりました」

     新しい進行役の人物は何事もなかったかのように振る舞い続ける。

    「そういうことなら……今後ともよろしくお願いします」

     見慣れない人物の登場に戸惑いを隠せない参加者は一人、また一人と新しい進行役を迎える台詞をつぶやいていった。

    「それでは今月の会議を始めましょう」

     努めて皆の緊張をほぐそうとしているのか、それとも本人の元々の性分なのか、新しい進行役ははきはきとした物言いで会議を始めようとした。

    「あ、でもその前に断っておきます」

     綾子の目からも新しい進行役と鈴木の目線が合ったのを確認できた。新しい進行役は鈴木となんらかのつながりがあるのだろう。

    「これまでのこの会議がどのように進められていたのか私にはまだまだ把握しきれていないところもあるのですが……。今回からはこの会議では一人一回何か発言しようというルールを設けさせていただきます。必要であればスクリーンもご利用ください」

     参加者全員に説明をしているようで、新しい進行役は明らかに鈴木を意識している。

     新しい進行役の登場とそれに伴い、新しく定められた会議のルールに再び静かなどよめきが起こった。これまでの進行役は何を発言しても「それは上が許さないので」と言うため、参加者たちはそこに不満を抱くと同時に気楽さも享受してきたのだ。それがこうして変化が起こるとこれまで全く意識していなかった不満と気楽さを各々が天秤にかけざるを得なくなる。

     この場で困惑せずにいられるのはそもそもこの会議を今回は変えるつもりで事前に準備をしていた綾子と鈴木だけのはずだった。……が、その鈴木も新しい進行役を硬直した表情で見つめている。

     これから開かれる新しい会議を前にして歓声も上がらなければ不満のため息も響かない。

    「それでは今月の会議を始めます。順番に発表してください」

     ミーティングルーム内に漂う空気を全く無視して進行役は会議を始めようとした。

     今度は普段ならば一番最初に発言するはずだった人物に視線が注がれる。その人物が参加者からの視線に怯えているのは綾子の目から見ても明らかだった。

    「あの……」

     綾子はおずおずと挙手をする。

    「せっかくこのようにこれまでとやり方を変えるのであれば、私から始めさせていただいてもよろしいでしょうか?」

     本来のトップバッターから視線が外され、今度は綾子に注目が集まった。ゆっくりと立ち上がりながら綾子は隣の鈴木の様子を伺う。鈴木の表情はまだ若干硬直していたが、立ち上がる綾子を見て状況を理解したようだった。よく見ると鈴木は綾子にだけ見えるように親指を立てて合図を送っている。綾子はそれにうなずき返し、ミーティングルームを見回した。

    「佐藤さん、ですよね」

     相変わらず新しい進行役は朗らかな表情を浮かべたままだった。こうして挙手をし立ち上がる綾子に対して好意的な印象を抱いているのも伝わってくる。

    「はい。佐藤です」

     ミーティングルーム内に綾子の声はいつも以上に通った。

    「せっかくですのでそれでは佐藤さんに最初の発表をしていただこうと思います」

     進行役がそう言いながら軽く拍手をすると、他の参加者もそれにならって綾子に拍手喝采を浴びせる。

    「それではお手元の資料をご確認ください……」

     綾子自身は足が震えそうになるのを必死に耐えながら発表をする。参加者からの視線はいつも以上に強い。それでも綾子はあらかじめ計画していた通りに資料の説明を進めていった。

    「以上です。何かご質問はございませんか?」

     最後の説明を終え、綾子は周囲を見回す。呆気に取られている参加者を横目に鈴木が挙手をした。

    「鈴木さん」

     進行役が指名すると鈴木は一瞬苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、綾子に対していつも通りの笑みを向けた。

    「ここのところですが……」

     鈴木は綾子が一番力を入れていたところについて質問してきた。

    「それは……」

     あとはあらかじめ仕組まれていたかのように、二人の寸劇が進んだ。

    「え、あの、すごくいいアイディアだと思うのですが、ここのところはどうなるんですか?」

     その二人の寸劇に少しずつ他の参加者が巻き込まれていく。巻き込まれる参加者が一人また一人と増える度に、綾子と鈴木はまるで最初から二人で計画していたかのようにコメントを添えていく。進行役が変わったからといって路線変更はしないと綾子と鈴木は直接示し合わせることもなく計画通りに進めていく。

    「いいと思います」
    「そこはもっとこうしていく必要があるかと」

     これまでにこのミーティングルームで見たことのない光景が繰り広げられる。

    「それ、すごくいいと思います」

     新しい進行役も大きくうなずいた。そしてついに、

    「それは上にも伝えてすぐに動き出した方がよさそうですね」

     今までの進行役が決して言わなかった台詞を、新しい進行役が言ったことは、参加者にとってちょっとした事件でもあった。この事件に、ある人は目を輝かせ、ある人は顔面を蒼白させる。

     綾子の発表がひと段落し、その後他の話者も順番に用意していた資料を読み上げる。綾子以上に盛り上がることはなかったが約二時間の会議が終了する頃にはそれぞれがこれまでと今後のこの会議のあり方について少なくとも何かしらの変化があることを想像するようになったようだった。

    「今日はありがとうございます」

     会議を終え、ミーティングルームを後にした綾子はおずおずと鈴木に礼を言う。鈴木は会議の余韻に浸っているわけではなく、まだあの新しい進行役について考えているようだったが、綾子に話しかけられたのを機に我に返ったようだった。

    「実は皆あの会議にいろいろ不満を溜め込んでたから。佐藤さんがああやって俺に相談してくれたので、今回みたいに変わったんですよ。本当にありがとうございます」

    「でもこれまでの進行役の方はどうなったんですか?」

    「あの人はただ単純に司会役を外されただけです。元々あんまりああいう役をやりたがらない人だったみたいで」

    「じゃああの新しい進行役の方は……?」

     綾子が声を潜めると、鈴木は重い口をゆっくりと開くようにして答える。

    「実は俺、この前佐藤さんとお話ししたことを少し他の人に話したんです。……もちろん佐藤さんの名前は伏せたので安心してください。もしかしたら進行役が変わったのはそれが原因かもしれません。……俺にもはっきりしたことは言えませんが……」

     そして鈴木はゆっくりと息を吸い、そっと綾子に打ち明けた。

    「俺、あの新しい進行役の人の人と以前一緒に仕事をしたことがあって。いい人ですよ。俺も仕事に関するいろんなことをあの人から学ばせてもらいました。俺が佐藤さんと話したことをほんの少し他の人に漏らした結果、担当者替えであの人があのミーティングルームに来たのはちょっと俺もびっくりしちゃって……」

     いつもはっきりとした物言いをする鈴木がこうして言葉を濁すのを綾子は初めて見た。

    「……あの人と嫌なことでもあったんですか?」

     綾子の問いに鈴木は目を見開き首を大きく横に振る。

    「嫌なことがあったなんて、そんなことはないです。本当にかわいがってもらったので感謝しているくらいです」

     そうはっきりと断言したものの、鈴木は肩を落として続ける。

    「ただ、かわいがってもらったからこそ、このタイミングであの人が出てきたことに驚いているだけです」

     そこから先は鈴木にも説明のしようがない様子だった。

    「変なことを聞いてしまったようで申し訳ありません。特に鈴木さんに何もなかったのであればよかったです。……これからあの会議は変わっていくはずですので」

    「そうですね。ご心配をおかけして申し訳ありません」

     軽く頭を下げると鈴木はいつも通りの表情に戻っていた。

    「それにしても最近佐藤さん、雰囲気変わりましたね」
    「そうですか?」

     急な話題の変化のために綾子の声は異様に高くなってしまった。

    「あ、いい意味でってことです」
    「それは嬉しいです。ありがとうございます」

     確かに変わったなと綾子自身も今日の会議を通して感じていた。振り返ればこれまでの人生でああして発言したのは初めてのことだった。

    「あれでよかったのかな……。私、何もしてないけど」

     これから別の場所に用があると言って別れた鈴木の背中を見送りながら、綾子はため息をついた。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門


    続く

    目次

    序章
    〈第1章〉彼を知り己を知れば百戦危うからず
    〈第2章〉風林火山
    〈第3章〉進んで名を求めず、退いて罪を避けず
    〈第4章〉敵の意を順詳するに在り
    〈第5章〉夫れ兵の形は水に象る
    〈第6章〉鳥の起つは伏なり

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