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【始めは処女の如く〜アラサー女子のための孫子の兵法〜】〈第3章〉進んで名を求めず、退いて罪を避けず

    序章

    前の話
    〈第2章〉風林火山


    「あの子転職するらしいよ」

     職場での風の噂で綾子は久しぶりに同期の名前を聞いた。内定者説明会や入社式での彼女の様子を思い出す。この業界に相応しい、華やかできれいな印象があり、だからこそなのか、黒いリクルートスーツと就活に合わせて染め直したのであろう黒髪が全く似合っておらず、不釣り合いさが、良くも悪くも彼女の存在感を一層引き立たせていた。

    「なんか納得しちゃう」

     直接会話をしたことはあまりなかったが、綾子は彼女のことは今でもはっきりと描くことができた。

    「特にこの会社が嫌いだったとかではないらしいんだけど、『あそこなら自分が今本当にやりたいことがやれる』って場所を見つけたっぽい」

     実際に彼女がそう語っている姿が目の前に浮かぶようだった。

    「自分のやりたいことをやる、ねぇ……」

     綾子は同僚の言葉を反芻し、自分のパソコンに向き直る。

     あの同期の情報をもたらした同僚は、もうすでに自分の作業に戻っていた。彼女にとっては本当に何気ない、ただの噂話だったのだろう。本来ならば綾子自身も、適当に「へー」「そうなんだ」と言って終わるはずの話題でしかなかった。

    「私もやっぱりもっと変わっていかないといけないのかな」

     SNSを開けば「やりたいことをやる」「夢を叶える」などの言葉が連なる。書店に行けばその手の本が本棚の一箇所で激しい新陳代謝を繰り返している。人気の芸能人がそのようなことを語れば絶賛の嵐が巻き起こり、他方では「現代は激動の時代」などと騒がれる。

     自分の作業に戻りながらも、綾子はこれから転職する同期と自分の違いについてあれこれと考えを巡らせた。

     この日は昼過ぎに営業先に行くことになっていた。

    「行ってきます。四時ごろには戻ってくると思います」

     周囲にそう伝え、席を立つ。

     営業先に向かう途中の地下鉄に乗ると、深いため息が出た。

     今の職場は自分で望んで入社した場所だ。福利厚生が充実しており、女性の結婚や出産などのライフスタイルにも柔軟に対応してくれる。実際社内には妊娠・出産・育児後もすんなりと職場復帰を果たし、キャリアアップを実現している女性も多く、現段階では綾子も望めばそこに名を連ねることは十分可能なはずだった。そしてこの会社で培ったスキルを転職先で活かしている人も少なくないのだろう。

     一方で「ブラック企業」という言葉とは縁遠いこの会社でも、社風が合わなかったり人間関係に悩んでいる人はそれなりにいるようで、人事部は日々そうしたトラブルの対応に追われているというのも知っている。

     とりあえず今の綾子は、今の仕事、今の生活に不満はないわけではないものの、それらを一つひとつ解決していこうという気にはなかなかなれずにいた。

     地下鉄の暗い窓に映る、メイクされた自分の顔をトンネル内の照明が貫いていくのを綾子は眺めた。

     営業先には時間通りに到着した。担当者はすでに準備を整えており、取引先の綾子を出迎える。

    「まだまだ寒いですね」

     担当者は綾子に席を勧めながら言った。

    「そうですね。まだコートは手放せませんね」

     当たり障りのない季節の話も、双方が席に着くと同時に終わる。綾子は持ってきた資料をバッグから取り出し、相手の前に並べていった。

     実際に自分でも使い、その使用感にとても満足した商品だった。

     初対面というわけでもない、すでに何度かこうして会っている相手は時折質問を挟みながら綾子の説明を聞いていた。

     話を進めていくうちに決して相手が商品に興味がないわけではないことは分かる。しかし今回は何度かこうして話したことがある相手だからこそ、綾子は相手が今はこの商品を求めていないことをすぐに感じ取り始めた。

    「とても魅力的だとは思うのですが……」

     案の定相手はそう口を開き、商品の性質や傾向が自社の要望とは合わないことを伝える。綾子はその一つ一つをうなずきながらメモをした。

    「そうですか。本日はお時間取らせてしまい申し訳ありません」
    「いえいえ、またご連絡ください」

     今回の話はまとまらないまま、綾子は帰社することになった。

     こういうことは珍しくない。社内でトップの成績を誇る人物であっても読みが外れることもある。彼らが笑いながら「こういうこともある」と言っているのを綾子は何度も見てきた上に、綾子自身半ば自分を納得させるためにそう周囲に語ったこともあった。

     それでも今日は足が普段よりも重い。地下鉄の駅にたどり着くと、ちょうど今帰り方面の列車が行った後だった。次の列車は約十分後。

    「やりたいことをやる」

     ホームで待ちながらあの同期のことを考える。

    「他人と比べても仕方がない」

     この人生訓は、飽き飽きするほど聞いてきたためか二十代後半を過ぎた頃からは絵に描いた餅になる。

     そのうんざりするほど聞いてきた人生訓が、付き合った期間だけはそれなりに長かったが特に愛してもいなかった元彼と別れてから、そしてもっと自分を知ろうと思い『孫子』を読みはじめた頃から再び綾子の中で蘇ってきた。そもそも綾子にしてみれば『孫子』自体格言の集合のようなものなのだからそれを意識的に読めば逆にそうなるのも自然なことなのかもしれない。

     もはや効果を失い、忘れかけていた人生訓が再び綾子を揺すぶる。他人と比較しても仕方がないと自分を説得しようとすればするほど、自分が惨めなものになっていく。

     耐えられなくなった綾子はスマホを取り出し、「転職」と検索した。そのまま何も考えず、これまでに何度も名前を聞いたことがある転職サイトを開いたタイミングで列車が来た。

     まだ空いている列車内は空席も目立つ。綾子はドアの近くの席に座り、転職サイトへの登録を完了させた。名前、年齢などの基本的なことから、学歴や直近の職歴までを入力する。こまごまとした入力をしている間に時間が過ぎ、自社の最寄駅に到着した。

    「お疲れ様です」
    「あ、佐藤さんおかえりなさい」

     職場に戻り、同僚たちと軽い挨拶を交わす。自分のデスクに戻った綾子はパソコンで今日の報告を済ませた。

     終業時間後、帰りの電車の中で綾子は先ほど登録した転職サイトを開いた。掲載されている案件や情報をとりあえずチェックしてみるが、興味をひくものは見つからなかった。

     それ以降通勤の列車内でSNSをチェックし、ゲームをし、読書をすることはあるものの、転職サイトはほとんどチェックしなかった。時折登録したメールアドレスに転職サイトからの紹介メールが届くこともあり、気が向いたときにそこで紹介された企業のページを開くことはあるが、やはり流し読みをして終わるだけだった。次第に流し読みをするのも面倒になり、メールボックスには未開封の転職サイトからのメールがたまっていく。


     未読メールの日付が登録から二週間が過ぎた頃の日曜日、綾子は希とランチに行く約束をしていた。薬膳カレーが人気のその店は、綾子が見つけた店だった。

     席に着きながら何気なく綾子はたずねる。

    「彼氏さんとはうまくいってるの?」
    「うまくやってるけど、結婚はまだなのかな……」

     と綾子の問いに希はぎこちない笑みを浮かべた。

    「付き合い始めて長くない?」
    「そうなんだけど、長く付き合ってるからこそなのか踏み切れない感じ」
    「そういう話もよくあるよね」
    「綾子は新しい彼氏とか探さないの?」

     「新しい彼氏」というフレーズを聞いてはっとする。元彼と別れてからすでに数ヶ月が経っている。

    「そういえば考えてなかったな。年齢的にもそろそろ考えないといけないんだけど……」

    「そう考えるのも無理はないけど、焦ったところでちょうどいい相手が見つかるわけじゃないから焦らなくてもいいんじゃない」

     希は慌ててそう言った。

    「あ、別に気にしてるわけではないんだけど。本当にそのことを忘れてたし。……結婚そのものは遅くなってもいいんだけど、出産のこと考えると私も新しい相手をさがすべかってことはやっぱり考えちゃうじゃない」

     綾子は苦笑を浮かべる。

    「そうだね。時代の変化で女性のライフスタイルの多様化はしてるけど、根本的な女の体が高齢出産対応に進化してるわけじゃないからね……」
    「本当、それ」

     二人でメニューを覗き込み、注文を決め、オーダーを済ませる。

    「綾子は本当にメイクをするのが好きなんだね」

     オーダーを終えてすぐに希が言った。

    「どうして?」

     唐突に自分のメイクのことを言われ、綾子はどぎまぎする。

    「こうしてメイクしてる綾子を見ると、やっぱりきれいだなって思って」

     まるで天気の話をするかのように希は言った。

    「いや、もちろん土台もきれいだとは思ってるけど……」

     突然の褒め言葉に言葉を失う綾子に希は慌てて付け加えた。たとえ相手が古い友人だろうと、同性に外見を褒められるのは異性に言われるよりも強い驚きがある。

    「あ、ありがとう」

    「そうやってメイクが好きな綾子が今の会社に勤めてるのも不思議じゃない気がする」

    「どうして?」

    「メイクが好きだから、その関係の仕事を始めた。それって別におかしなことでもなんでもなくない?」

    「そうだけど……」

     綾子の脳裏に数週間前に登録した転職サイトのロゴが浮かぶ。なぜ自分はあの転職サイトに登録したのだろうか。

    「いや、今転職を考えてて」
    「え、そうなの?」

     今度は希が驚いた表情を見せる。

    「どこに転職しようとしてるの?」
    「それも何も決まってはいないんだけど、とりあえず転職サイトに登録はした」
    「うーん……」

     今日会って以来希が見せたことがないような渋い顔を希はする。

    「それってあんまり転職しようって意思ないよね?」
    「うっ……」

     今度は希の鋭い問に言葉を失う。

    「確かに『とりあえず転職サイトに登録』はしたんだろうけど……特にやりたいこともない、待遇面でも要望がない状態ではいい転職先は見つからないと思う……むしろそういう気持ちで転職すると転落しかないような……」
    「うぅっ……ですよね……」

     思わず深いため息が出てしまう。

     そこに注文していたカレーライスのプレートが運ばれてきた。スパイスの香りが鼻をくすぐる。吐いたため息分、綾子はその香りを吸い込んだ。

    「いい香り〜」

     一口つければ自宅で市販のカレールーを使って作ったカレーとは全く異なる、複雑で繊細な刺激が口いっぱいに広がる。

    「美味しい。これは家では作れないな」

     二人でカレーを一口、また一口と食べながらその味を堪能する。

    「さっきの転職のことだけど」

     うっすらと額に汗を浮かべながら希は言った。

    「『孫子』に『進んで名を求めず、退いて罪を避けず』って言葉があったと思う」
    「あったような、なかったような……」

     綾子もこれまでに何冊か『孫子』関係の本を読んできたはずだった。数々の名言が書かれている『孫子』は読めば読むほど知識が得られる分、まだ読み始めたばかりの段階では逆にぱっと反応がしにくくなる。

    「まあまた自分でチェックしてみて。ただ、さっきの綾子の転職の話を聞いていたらちょっと浮かんだから」
    「どんなこと?」
    「戦争で軍を率いる将軍の最大の任務は?」
    「……軍を勝利に導くこと」

     確かに綾子も「孫子」を読み始めたが、戦争における軍隊のことについて問われると自信を持って答えられない。

    「その通り。……綾子も『孫子』が分かってきてるじゃない」

     満足げな笑みを希は浮かべた。

    「将軍の仕事は軍を勝利に導くこと。将軍はそのためにたくさんの情報を集め、作戦を練って戦争をする。でも、将軍の立場はあくまでも国の役人であって、将軍の上には王様などの君主がいる。そうなってくると時々将軍と王様の意見が食い違うこともある。王様は『こうしろ』と言うけど現場の状況を王様よりも詳しく把握している将軍は『そうすべきではない』と思う。こういう時にどうするか……」

    「なんか会社員みたいだね」

     当然綾子は「将軍」と呼ばれる人を実際に見たことがない。人物像を思い浮かべてもただ漠然と「鎧を着たマッチョ」というイメージが湧くだけだ。しかしこうして希に改めて将軍の仕事を解説されると日々仕事をしている自分や周囲の人物と「将軍」に、さほど差はないようにも感じられた。

    「ははは……本当にそれ。だから『孫子』はおもしろい」

     綾子が想像していることと同じことを希も考えているようだった。


    『進んで名を求めず、退いて罪を避けず』

    将軍は勝ち目があるのであれば王が『戦うな』と行ったとしても戦うべきであり、逆に勝ち目がない時には王が『戦え』と言ったとしても戦うべきではない。
    将軍たるもの自分の功名を最優先にして追い求めるのではなく、例え王の指示に反対したことで罪を着せられる可能性があったとしても軍を勝利させるべき。
    これが結果として国のためになる。


     あまりの理想論にさすがに綾子も眉を顰める。

    「うっ……それが本当に実践できれば苦労しないってやつ……」
    「いや、私もそうやって拒絶反応起こしちゃうのは分かるけどさ……」

     綾子の表情に、希は思わず吹き出した。

    「この理想論を人生全体に当てはめようとするのはさすがに疲れちゃう。でも、『孫子』に限らず世界の古典や偉人の名言って、もっと自分の置かれた状況に合わせて都合良く解釈すればいいんじゃないかな?」

     希につられるようにして綾子はカレーを一口食べた。スパイスの刺激のために逆に体の力が抜けた。

    「『世の中的正解』というものってあるようでないよね。とりあえずその私たちにとっての『世の中』っていうものが『孫子』の中での『王様』」
    「どういうこと?」

     希ももう一口カレーを口にし、一度「うーん」と唸った。

    「話を綾子の転職に戻すと、転職するのが必ずしも正解じゃないし、フリーランスになるのが正解ってわけでもない。なんだったら別に仕事に生き甲斐を求めなくてもいいのかもしれない。本当に大事なのは自分がどういう価値観を持っていて、どうやってその価値観にあった生活をするか……じゃないかな。『進んで名を求めず、退いて罪を避けず』は『孫子』の中の『地形篇』に登場する言葉だけど、そこでは将軍としての理想論だけでなく、その場の状況に合わせて進軍の仕方を変化させることの重要性が解説されてる。それを自分の価値観やライフスタイルにもあてはめると、王様である『世の中』に闇雲に従うのも危険だって思えてこない?」

    「きっと『王様』はそれを許さない」

     希の言葉にうなずきながらも綾子は苦笑する。

    「だから将軍である私たちは大変なんだよ。でも、自分自身が『王様』に対して『進んで名を求めず、退いて罪を避けず』って姿勢を持っていれば後悔することもないと思う」

     綾子の苦笑に希も深く同意するようにうなずいた。

    「私から見ている限りではあるけど、綾子は別に今の仕事が嫌いなわけではなくむしろ好きなんじゃないかな? だけど『世の中』の情報に振り回されて、自分の『今の仕事が好き』っていう気持ちを見失ってるっていうか。もっと『私は今の仕事が好き』って胸張ってもいいと思う。『孫子』の『地形篇』には兵士たちを我が子のように愛し、しつけることの大切さも書かれてる。綾子も自分のことをそうやって扱ってみたら?」

     電車の中で見かける転職フェアの中吊り。働き方の変化を報道する番組。SNSで垣間見る成功者のライフスタイル。そんな情報に触れる日常の中で耳にした同期の転職の噂。それらの一つ一つは些細なものでも、自分自身は少しずつ侵食されていたようだった。

     改めて日々の仕事のことを振り返る。嫌なことがないわけではない。かといってこの仕事が嫌いかと問われればすぐに「嫌いだ」とは答えられない自分がいた。

    「なるほどね……」

     思わず深いため息が出た。

    「なんか世の中、自分のネガティブなことを受け入れることばかりが重視されがちだけど、実はたくさんの人が自分のポジティブな面を見落として受け入れられていなかったりするから。どうしてもネガティブな方ばっか見ちゃうよね。こうも手軽に情報が入手できちゃったり、毎日忙しかったりすると余計に」

    「一回本気でリフレッシュしたいな……」
    「そういうのも効果あるかもね。……私もどっか行きたいな……」

     小学生の頃からの付き合いである希と最後にどこか遠くに出かけたのはいつだったか。改めて考えてみると高校の卒業時に近くの遊園地に出かけた程度のような気がする。

    「せっかくだし、今度のゴールデンウィークにどっか行かない?」

     突然の綾子からの提案に、今度は希が目を丸くした。

    「ゴールデンウィーク?」
    「そう。ゴールデンウィークじゃなくても土日でぱっと行けるような場所にちょこっと旅行するとか」
    「いいね。行こう」

     店員が「空いたお皿をお下げします。後ほどデザートをお持ちします」と言ってすでに空いていたカレーライスの皿を下げて行った。

     デザートはバニラアイスだった。少し季節を先取りしている涼しげなアイスを見て、綾子はひらめいた。

    「沖縄とかどうかな? 五月は気候もいいみたいだし」

     バニラアイスを前にして希も海をイメージしていたのか、その提案に手を打って喜んだ。

    「いいね! 沖縄なんて子供の頃に行ったくらいだし。フライトのスケジュール次第では金曜日の夜出発して日曜日の夜帰ってくることもできるし。それこそ混雑するゴールデンウィークを外すこともできる」

     こうして行き先は沖縄に決まった。飛行機や日程、ホテル、レンタカーのことはまた後日決めることにして二人はアイスクリームを口にした。

    「ダイビングとかしたいな」
    「沖縄料理も食べたいね」

     食べながら沖縄のイメージを膨らませる。

     デザートを食べ終え一息つき、二人は会計を済ませるために席を立った。

    「今日はこれからやらないといけないことがあって」

     店の外で希は言った。

    「彼氏さんと会ったりするの?」

     綾子が尋ねると希は首を横に振る。

    「原稿を仕上げたいんだ」

     『孫子』の話に夢中になっていたため忘れていたが、希は元から中国史オタクであることを綾子は久しぶりに思い出した。

    「そっか。頑張って」

     駅まで歩きながら綾子は言った。

     帰宅後、玄関でコートを脱ぎ、座布団に腰掛ける。ふぅと長く息を吐くと全身の力が抜けていく。この時間に一人で自分の部屋に戻り部屋に差し込む光を見ると1ヶ月前よりも日がずいぶん長くなったことに気づく。

    「私は今の仕事が好きなのかな……」

     一人宙を眺めながら考えた。


     翌日の月曜日はいつも通りの時間に目覚めた。簡単な朝食をとり、洗面台の前に立ち、洗顔・メイクをする。いつも通りのアイテムを使い、いつも通りの顔に仕上げていく。

     鏡の中の自分を見ていると、昨日希に言われたことが頭に浮かぶ。

    「そうやってメイクが好きな綾子が今の会社に勤めてるのも不思議じゃない気がする」
    「メイクが好きだから、その関係の仕事を始めた。それって別におかしなことでもなんでもなくない?」

     メイクを済ませ、一人暮らしの部屋に向かって「行ってきます」と言ってドアを開ける。空気はまだ冷たいが一ヶ月前までの厳しさはない。日差しは日に日に柔らかくなっていく。

     予定通りの時間に駅に到着し、ホームで電車を待つ。スマホを開き、どのアプリを開こうか一瞬迷った末に電子書籍を開いて『孫子』の関連書籍を開いたところで目的の電車が来た。

     人混みに流されるようにして電車に乗り込み、押しつぶされそうになりながらも本を読み進める。


    故に、兵には、走る者あり、弛む者あり、陥る者あり、崩るる者あり、乱るる者あり、北(逃)ぐる者あり。凡そ此の六者は天の災に非ず、将の過ちなり。

    戦場にはさまざまな地形があり、軍を勝利させるためにはその地形に合わせて動かさなければならない。地形によって兵士たちの動きは大きく変わる。そしてそこで起こった失敗は運によるものではなく将軍の責任だ。


     綾子がたまたま読んだページにはこの言葉が書かれていた。

    「将軍の本来の仕事は王様に従うことではなく、軍を勝利に導くこと。だから軍の勝敗の責任を将軍は担うことになる。……自分自身にあてはめて言えば、自分の人生は自分で責任をとらなければならないということか」

     薄暗い車内で綾子はページをめくっていく。

     出社し、いつものように左右の同僚や上司たちと挨拶を交わしデスクに着く。今日やることを考えながらパソコンを広げるとデスクトップに設定したモデルが現れた。

     メール類をチェックし、作業に取り掛かる。

    「佐藤さん、新しい資料が届きました」

     声をかけられたので顔をあげると、そこには綾子の先輩にあたる鈴木がいた。「ありがとうございます」と会釈をし、資料を受け取る。

    「このメーカーらしい商品ですね」

     受け取った資料の表紙を一目見て綾子は思わずつぶやいた。

    「この仕事やっておきながらこう言うのもあれかもしれないけど、やっぱり女性目線ではこのメーカーって独特なの?」

    「そうですね。独特だから使いにくいっていう人もいますが逆に『そこがいい』っていう人もいます。そこを気に入っている人ほど『このメーカーを使うときれいになれる』って思えるんです」

    「そうやって言われると、男の俺でも分かる気がするな」

     鈴木は笑った。綾子も男に合わせて笑う。

    「やっぱりきれいになるとテンションは上がるし、いろんなことがうまく行くような気分になれるから、女性にとってメイクできれいになることって大事なんですよ」

    「自分で自分の気分をあげることで、生活のいろんなところの質が上がりますもんね」

    「そこは男も女も一緒です」

    「俺、それを面接の時に言ったような気がする」

     最後にそう付け加えて鈴木は自分の作業に戻っていった。

     綾子も自分のデスクに戻り、改めて資料を眺める。

    「私も就活でこの会社の面接の時におんなじこと言ったよな……」

     言った当時はあまりにもありきたりなことしか言っていない自分に嫌気がさしたものだった。ありきたりな言葉でしかなかったため、自分のやる気が伝わらず、不採用になるのではないかと不安にもなった。

    「自分で思っていた以上に、私はこの仕事が嫌いじゃない。……好きなのかもね」

     資料のページをめくりながらほんの一瞬、綾子は頬を緩ませた。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門


    揥ぎ芹
    〈第4章〉敵の意を順詳するに在り

    目次

    序章
    〈第1章〉彼を知り己を知れば百戦危うからず
    〈第2章〉風林火山
    〈第3章〉進んで名を求めず、退いて罪を避けず
    〈第4章〉敵の意を順詳するに在り

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