
3万5000円払って前世を見てもらったら人生観が変わった
3万5000円払って前世を見てもらったことがある。
こうやって文字にすると、なかなか立派な散財だ。当時私は22歳。フリーターで恋人もいなければ、お金もなかった。ないないづくしだった私にあったのは、漠然とした不安と根拠なき未来への期待。このふたつを行ったり来たりしながら暮らしていた。
そんなある日、インターネットで前世療法と呼ばれるものを見つけた。「前世を知れば、今うまくいかない理由がわかります」みたいなことが書いてあったと思う。
今なら「そんなわけないじゃん」と思うのだけど、そのときの私は藁にもすがりたい気持ちだった。いっそ、すがれるなら藁じゃなくてよくわからない海藻だっていい。
3万5000円は大金だけど、この金額で人生の悩みがすべて解決し、幸せな未来が約束されるなら安いものだと思ったのだ。もともと算数が苦手なせいでなく、人は追い詰められると計算ができなくなるのかもしれない。
早々にネットで予約と支払いを済ませ、人生を変えるつもりで前世療法が行えるという恵比寿へと向かった。恵比寿なんて合コンでしか来たことがない。
案内されたのは、古いマンションの一室だった。ドアを開けると、ふくよかで優しそうな女性が出てきた。言われてみれば、前世を見ることができそうな顔をしている。女性に言われるままに、ゆったりとした背もたれのソファへ座る。
「前世療法は今日が初めてですか?」
「はい」
「そうですか。初回ですと、まだ前世をはっきりと見ることはできないかもしれません」
えっ……。私は耳を疑った。
3万5000円も払って、今日は前世がわからない……?
映画館で「今日はスクリーンが壊れているので座って映画館の雰囲気だけお楽しみください」と言われたような衝撃だった。前払いでお金を払ったんだから、今日はもう前世をまるごと知れる気でいたのだ。
前世が見られないかもしれないなんて、そんなことが許されるのかと愕然とする私に、セラピストは海に浮かぶ氷山の絵を見せた。
「私たちが普段意識しているのは、顕在意識です」
なるほど。
「これは全体の意識の1%しかありません」
ほう?
「残りの99%は潜在意識なんです」
えっと、アインシュタインのひらめきとか努力みたいな?
私はよくわからないまま頭が悪いと思われたくなくてとりあえずうなずく。人はわからない話ほど、真面目な顔をして聞いてしまうのだ。
「前世療法というのは、何層にもなっている潜在意識の、一番奥深くまで入っていきます。でもとても深いので、初回でこのレベルに到達するのはなかなか難しいんです」
わかったような、わからないような、うまくまるめこまれているような。
かといって、「じゃあやっぱりいいです。振り込んだお金を返してください」なんて言える空気ではない。すでに私はセラピストから出されたやたらといい香りのハーブティーも飲んでしまった。このハーブティーも3万5000円のうちのいくらかに含まれるのだろう。
ひと通り説明を終えた女性は、風の音や鳥のさえずり、川の流れる音を流し始めた。
「それでは目を閉じて、息を深く吸って……吐いて…身体のすみずみの力を抜いてください……」
私は言われたように目を閉じ、ゆっくり深呼吸する。女性はゆったりとささやくように言う。前世に行く前に寝そうだ。
「今からあなたはどんどん……意識の深くにいきます……」
確かに眠気はどんどん深くなっていく。このまま夢を見るようにして前世を見ることができるのだろうか。そう思ったときだった。
「今、あなたの目の前には何がみえますか?」
女性に急に聞かれて、我に返る。目の前? まぶたの裏しか見えていない。つまりは黒。闇だ。
困惑しながら薄目を開けると、女性はふふふと笑った。
「初めての方は、みんなそうなんですよ。大丈夫です」
いったい何が大丈夫なのかわからない。でも、そうか。私は「はじめてのひと」だから、何も見えないのか。少し安心し、私は再び目を閉じた。
「あなたは今、意識のふかーいふかーいところにきています。ゆっくりと階段をおりましょう」
階段はなかった。
「扉がありますね」
扉もない。
目の前は真っ暗だった。さっきまであった眠気が嘘のように吹き飛んでいく。かわりに焦りがやってきた。
女性は穏やかな声だけれど、本気だった。本気で催眠術をつかって、私を力づくで前世に連れて行こうとしている。
「それでは、目の前にある扉を開けてください」
目の前にあるのは女性の顔だけで、やはり扉なんてない。私のパニックに気づきもせずに、女性は私にささやき続ける。
「あなたはとても心地よいところへと向かっています……。扉を開けると優しい風が吹き抜け、あなたの頬をなでていますね」
何も見えないし風も感じない。
「それでは、よく見てください。あなたは今どこにいますか」
知らない古いマンションの部屋の椅子の上にいる。膝にはブランケットをかけられていて、会ったばかりの女性からささやかれ続けている。それ以上でも行かでもない。
何も言えずに私が黙っていても、女性は諦めなかった。
「ゆっくりでいいですよ。あなたは今、どこにいますか?」
「……。」
「どこにいますか?」
圧を感じる。なんでもいいから、何か言わなければならないという、圧。だめだ。もう……こうなったら妄想するしかない。それ以外、この時間を切り抜ける方法はない。私はぎゅっと目を瞑り、覚醒しきった頭をフル回転させた。
「えっと……なんか草原みたいなところに、いるような……」
想像力を総動員させる。草原といえば、アルプスの少女ハイジだ。私はハイジを皮切りに妄想をふくらませていく。
「ワンピースを着ています……」ハイジである。
「えっと、裸足です……」ますますハイジである。
「たぶん女性です……」当然、ハイジである。
「17歳くらいかな……」急に成長したハイジになった。
このあとも女性からの質問は続いた。名前は何か。どこの国か。何をしているのか。そのたびに私は必死で考えた。もはや前世を見ているのではなく、即興でペルソナ設定をしているような感覚だった。これがなかなかしんどい。
歴史の勉強をもっとしておけばよかったと思った。世界史の知識が乏しいので、話はどんどん怪しくなる。途中から私は映画の『テルマエ・ロマエ』を思い出し、その記憶だけを頼りに生き延びる。こんなのはもう前世体験というより、口頭試験だ。3万5000円払ってこんな罰ゲームのようなしんどい時間を過ごすなんて想像もしていなかった。
まるで永遠のように感じる1時間が過ぎた頃、女性は満足そうに言った。
「あなたの前世は古代ローマで貧しい思いをした17歳の少女ルビーです。」
私は黙ってうなずく。
古代ローマなのに、ルビー……。歴史がわからない私でもさすがにそれはないんじゃないかなと思う。古代ローマ人にルビーなんて。けれど、この設定をつくったのは私なのだ。我ながら自分で考えた設定の雑さに呆れる。
女性に見送られて乗ったマンションのエレベーターで考えた。前世さえ一生懸命に考えて自分でつくるものなのだから、現世はなおさら自分でつくっていくものではないのか。
だって私は今日、お金も時間も脳みそも使って、自分の前世を手に入れたのだから。現世なんてもっと自分でなんとかするしかないのかもしれない。
お金持ちと結婚しようが、宝くじを当てようが、自分が変わらない限り、人生が豊かになるなんてことはない。自分のことは自分でなんとかするしかないのだ。
マンションを出ると夕方だった。恵比寿の街を歩く人たちは相変わらずお洒落で、私は数時間前よりも少しだけ賢くなった。前世は見えなかったけれど、来月の3万5000円の請求を引き受ける自分の未来だけははっきりと見えた。