
法人という“消費者” BtoBマーケティングの消費社会論的解剖①|企業もまた、欲しがる。合理的な“消費者”の素顔
連載概要
「BtoBは合理的、BtoCは感情的」。マーケティングにおけるこの二分法は、果たして正しいのでしょうか。
営業部門、経理、法務、経営陣、複数の部門が複雑に絡み合う法人の購買行動は、一見するとROIと仕様比較に基づく冷静な意思決定のように見えます。しかし稟議書を書いたことがある人であれば、あの文書には既に決まった結論を正当化するための事後作業が多く含まれていることに気づいているはずです。
本連載は、ボードリヤール、ブルデュー、ヴェブレン、タルドなど、消費社会を論じた学者たちが「個人の消費行動」として描いてきた欲求・模倣・差別化・記号への帰属は、法人においても作動しているのではないか、そしてもしそうだとすれば、BtoBマーケティングの設計原理はどこから根本的に見直されるべきなのかを探索するものです。
消費者行動論、行動経済学、神経科学の知見を経由しながら、Salesforce、McKinsey、HubSpot、Gartnerといった「コードを支配した企業」の戦略史を解読し、BtoBマーケティングの新しい地図を描くことを試みます。
この第1回では、人間の脳内に内在する欲求・理性・規範・承認欲求が、企業という法人では営業・経理・法務・経営陣として外在化・制度化されていることを明らかにします。「解剖された個人」としての法人購買行動を、AI導入をめぐる企業の振る舞い、TOP営業という戦略、AIDMAからEKBモデルへの理論的展開を通じて読み解きます。
<第1回>企業もまた、欲しがる。合理的な“消費者”の素顔
稟議書という欲望のコード
毎年この春の期初時期になると、多くの企業の購買担当者は年度予算の稟議申請に追われます。作成する稟議書はA4数枚の均一なフォーマットで、ROIの試算、競合ベンダーとの比較表、セキュリティ要件の確認事項、そして上長と経営陣の決裁印欄が並び、それを読む決裁者に伝わるのは、合理的な検討の結果としての「最適解」です。
しかし稟議書を書いたことがある人であれば、あのフォーマットを満たす作業の多くは、「あのベンダーで行こう」という直感、あるいは「同業他社が導入したから」という焦り、あるいは「長年の担当者との関係を維持したい」という情緒的動機が先にあり、数字と比較表はそれを翻訳するための制度的な言語に過ぎない側面があることに気付いているはずです。
ここから一つの問いが生まれます。法人の購買行動は本当に、私たちがそう思い込んでいるほど「合理的」なのでしょうか。そしてもし合理性が見掛けのものだとすれば、何がその背景に存在しているのでしょうか。
欲求を持つ組織 消費社会論の視座から
消費者行動を研究する学者たちは長らく、人間がいかに「非合理的に」消費するかを明らかにしてきました。ヴェブレンは19世紀末のアメリカで、有閑階級が富を誇示するための顕示的消費の実態を描き出しました。ブルデューはパリで、詳細な市場分析に基づき、趣味の選択が階級的ポジションの闘争であることを示しました。ボードリヤールはさらに踏み込んで、消費とはもはや物を使うことではなく、記号の差異システムに参加することだと論じました。消費社会論としても分類される彼らの議論は一貫して、消費する主体としての「個人」を対象としてきました。
では、企業法人は同様の意味で「消費」をするのでしょうか。その答えは「する」だと私は考えています。ただし、それはやや奇妙な形で実現されます。
人間が欲求・感情・社会的プレッシャー・自己誇示の欲望を一個の身体に内蔵しているのに対し、企業はそれを組織構造として外在化している、つまり、個人の消費行動に内在していた心理的機能が、法人においては部門として分化・制度化されているのです。
例えば、営業部門は新しいソリューションへの欲求、競合が使っているものへの焦り、「これは面白そうだ」という感情的な反応を体現する。経理・財務は、コストは正当化できるか、投資回収の見込みはあるかといった合理的な抑制を担う。法務・コンプライアンスは、過去の判例と業界標準に基づいて行動パターンを制御する規範と慣習を守護する。そして経営企画や経営陣は、複数の動機を統合し、組織としての「意識的判断」を形成する役割を担う、といったようにです。
さらに部門間の稟議プロセスは、この分化した機能が相互作用する場です。ある部門の反応が別の部門の判断を変え、差し戻しと修正が繰り返される。稟議が否決されるとき、そこには多くの場合、数字の問題ではなく、機能間の象徴的な権力争いが勃発します。
ちなみこの稟議プロセスを神経科学的に見れば、シナプス伝達に相当するようにも思えます。ある部門から別の部門へと意思決定の信号が伝わり、承認・修正・否決という形で処理され、しばしばフィードバックループを描きながら、ある部門の反応が別の部門の信号の強度を変え、稟議書が差し戻されて担当者が修正案を持ち帰るときには、組織というニューラルネットワークの再調整に近いことが起きているのではないでしょうか。
消費社会を論じた学者たちが「個人の消費行動」として描いてきた欲求・模倣・差別化・記号への帰属は、このように法人においても形を変えて存在すると見ることができます。ただし個人の場合は感覚心理として一個の主体に内在しているものが、法人の場合は組織の機能として外在化・制度化されている。消費する主体としての法人は、いわば「解剖された個人」です。
なお、こうした類似性は単なる思いつきや見方の問題の域を超えているものであり、2022年に発表された、B2B(企業間取引)における購買行動の変遷を過去50年間分にも渡って分析した『消費者行動研究を活用してB2B購買者の行動に関する新たな知見を生み出す(Leveraging consumer behavior research to forge new insights into B2B buyer behavior: Contextualizing extant research and developing a research agenda)』という研究論文では、法人購買行動と個人消費行動との類似点に言及され、法人の意思決定が従来の合理性重視から、個人の感情や経験を伴うものへと変化し、B2C(一般消費者向け)との境界が曖昧になっている状況が明らかにされ、学術的にもその茗荷が見出されています。
AI導入が暴いた「感覚的購買」の正体
そして、この視座の妥当性を最も劇的に示したのが、近年の生成AIをめぐる企業の購買行動です。
2022年末のChatGPT登場以来、企業のAI購買は合理的意思決定モデルでは説明しきれない現象の連続でした。2023年初頭、多くの企業が「まずはChatGPT Enterpriseを試す」という判断を下しました。技術的評価が先行したわけではありません。「ChatGPTを使っていない会社は時代遅れ」という業界コードへの恐怖が、ROI試算より先に稟議書を動かしました。これはボードリヤール的に言えば、機能的価値への欲求ではなく、記号的差異システムへの参入衝動です。
続いてMicrosoftがAzure OpenAI ServiceとCopilotで「既存のMicrosoft 365契約に乗せられる」という論理を展開すると、「Azureに全部任せよう」という次のコードが業界に形成されます。Microsoftというブランドが持つ「ITの安全牌」という記号的価値が、技術的な比較評価を省略させました。
その後、Perplexity AI、Anthropic、Googleがそれぞれ企業向けサービスを拡充すると、「マルチモデル戦略」というコンセプトが登場します。複数のAIを使い分けるという選択は合理的な技術活用に見えますが、その実態の多くは「先進的な企業はマルチモデルを活用している」という新しいコードへの追随です。
AIのサプライヤー側からこの動きを俯瞰すると、興味深い構造が見えます。機能的優位性を丁寧に説明するより、「今この技術を使っている企業はどこか」を示すことの方が、購買を動かします。これは個人消費者がインフルエンサーに動かされるメカニズムと構造的に同一です。タルドが「模倣の法則」で論じた「優れている物事の模倣」より「支配的である物事の模倣」が、この法人のAI購買を巡る一連の行動からは読み取れます。流行のサイクルが早すぎて、合理的評価が追いつかない。これが生成AIをめぐる法人消費の実態なのでしょう。
記号の体系——個人と法人の違い
ボードリヤールが描いた消費社会では、モノそのものより、そのモノが差異システムにおいて占める位置が意味を持つとされます。ルイ・ヴィトンのバッグを持つことは、特定の記号的コードへの参入を意味し、その価値はそのコードを共有するコミュニティの内側でのみ機能します。法人の世界にも、同様の記号体系が存在します。ただし個人と法人のコードには構造的な差異があります。
個人の消費を規定するコードは、階級・ライフスタイル・世代・サブカルチャーという多元的かつ流動的な文化的文脈のなかで形成され、しばしば暗黙的・感覚的に内面化され、コードそのものは見えにくい状態にありますが、法人のコードは多くの場合、より可視化・制度化されています。業界団体のベンダー推奨、格付け機関の評価基準、「この業界ではSalesforceが標準」という集合知、これらは個人のライフスタイル・コードが自明化されるのと同様に、法人の購買コードとして構造化されています。
さらにコードへの準拠は「合理的選択」の外観を帯びていきます。例えば「ISMSを取得していないベンダーは選定対象外」という規程は、合理的なセキュリティ管理の基準であると同時に「我々は正しいコードに従っている」という組織としての記号的表明でもあるのです。
もう一つの個人・法人の差異は差別化の方向性にあります。個人の消費では、模倣(集団への同化)と差別化(個性の表示)が動的に緊張しながら流行へと発展していきます。ジンメルが「流行」として論じた弁証法です。
一方、法人においては、この緊張は非対称になりがちで、採用しないことの記号的リスクが、個人の「流行遅れ」より遥かに大きいことが考えれます。例えば「AIを導入していない部門」というラベルは競争劣位の表象として機能しやすく、模倣の圧力が差別化の誘惑を凌駕しがちかもしれません。
タルドの言葉を借りれば、法人の模倣は「優れている物事の模倣」より「支配的である物事の模倣」の性格が、個人よりもさらに強いと考えられるのです。
TOP営業——法人心理を個人心理に還元する技術
ところで法人購買の複雑な機能分化を前提に、それを一点突破しようとする商慣習があります。いわゆる「TOP営業」、あるいはエグゼクティブ・セリングと呼ばれる手法です。
通常のBtoB営業は、購買センターの各機能となる担当者・承認者・意思決定者を順番に説得していきます。それは分散した法人心理の各機能に対して、それぞれ異なる言語で働きかける地道なプロセスです。しかしTOP営業は、この分散した意思決定構造をショートカットしようとする試みです。経営トップにアクセスし、一対一の関係を構築することで、法人としての多機能的意思決定を「CEOが信頼するベンダー」という個人的関係に収束させる試みだと言えます。
消費社会論的に見れば、これは分散した法人の記号消費を、一人の個人の記号消費に変換する戦略です。トップに「このベンダーは信頼できる」という感覚的確信が生まれれば、その下の機能——経理の合理的評価も、法務の規範的審査も——はトップの意向を正当化する方向に傾きやすいからです。稟議書に添付された比較表は、こうして形成された「決定事項」を合理的な選択として翻訳する装置として存在するのです。
個人消費において「好きなブランドを理性で批判することが難しい」のと同様に、トップが気に入ったベンダーを担当者レベルが「ROIが合わない」と言って差し戻すことは、組織の力学上、著しく難しくなりがちです。TOP営業はその非対称性を意図的に活用していると考えられるものです。
法人は一枚岩の合理的主体ではなく、常に統合の求心点を必要としているのかもしれません。TOP営業はその求心点を外部から提供する戦略と言えます。
消費者行動モデルで解剖する法人の購買プロセス
法人購買の機能分化をより理解するためには、消費者行動論の蓄積が思いのほか役に立ちます。出発点として使えるのが、マーケティングではよく知られるAIDMAです。
Attention(注意)→Interest(興味)→Desire(欲求)→Memory(記憶)→Action(行動)という段階は、法人購買に当てはめると各フェーズを担う機能が異なる部門に分散している可能性を示唆します。
つまり、Attentionは業界カンファレンスや日経・Forbesで経営層に届き、GitHubや技術系コミュニティでエンジニアに届き、ガートナーのレポートで調達部門に届くという具合です。Desireは現場の「使いたい」という道具的欲求として形成される一方、経営層にはヴェブレン的な顕示欲求——「この選択で自社が先進的に見える」——として形成されます。そして、Actionは合意形成・稟議・承認という集合的手続きを経ます。「法人マーケティング=ひとつのメッセージで全社を動かす」という前提は成り立ちにくく、機能ごとに異なるメディアと言語でAIDMAの各フェーズを設計する必要があると考えられます。
しかし、AIDMAは簡略化されたシンプルなセオリーであり、出発点に過ぎません。より精密な消費者行動モデルがEngel・Kollat・Blackwellによって提唱されたEKBモデル(1968)です。問題認識→情報探索→代替案評価→購買→購買後評価という循環構造は、法人の意思決定プロセスと対応する部分が多く、特に「購買後評価」というフェーズは、法人においては導入後の社内正当化として独自の展開を見せます。「本当に正しい選択だったのか」という疑念は担当者がひとりで抱えるのではなく、費用対効果レポートの作成、役員向けの進捗報告、社内勉強会の開催という形で組織的に処理されます。個人消費の「買って良かったか」という内面的問いが、法人では外在化・集合化されるのです。
ちなみに行動経済学が示したシステム1(速く・感情的・自動的)とシステム2(遅く・熟慮的・論理的)の区分は、この文脈で有効な補助線になります。購買の実質的な意思決定は稟議書(システム2)が立ち上がる前に、根回しや「空気」といった非公式プロセスで形成されます。稟議書はシステム1的に形成された判断をシステム2の言語に変換した文書——そう捉えると、その事後的性格がより鮮明に見えてきます。
見えない感情、翻訳される欲望
「BtoBは合理的、BtoCは感情的」という二分法は、マーケティング実務の世界で長く信仰されてきました。しかしこの二分法は、合理性の制度的外観と実際の意思決定動因を混同しています。
購買担当者が「このベンダーは信頼できる」と感じるとき、その感覚は稟議書に記載されません。「あの担当者とは長い付き合いだから」という情緒は、公式の選定基準に含まれません。「競合がまだ使っていないうちに導入して、業界で先行したい」という欲求は、ROI試算の外にあります。これらの動機は制度的装置によって「ノイズ」として処理されますが、実際の決定においてはしばしば決定的な役割を果たします。
購買プロセスの制度的厳格さは、これらの動機を排除するのではなく、翻訳する装置として機能しています。「感覚的に信頼できる」は「実績が豊富」という文言に、「競合に先行したい」は「市場の変化への迅速な対応」という表現に、「長い付き合いだから」は「スイッチングコストを考慮した継続利用の合理性」という論拠に変換されます。
個人の消費者が「品質が良いから」と説明しながら実は記号的欲望を充足しているのと同様に、法人の購買担当者は「最適なソリューションを選定した」と説明しながら、より複雑な動機の絡み合いを制度的言語に翻訳しています。稟議書とは、こうした翻訳作業の産物なのではないでしょうか。
それぞれのマーケティングへ 「解剖された個人」への語りかけ方
ここまでの考察を踏まえると、BtoBマーケティングの設計原理はBtoCとどう異なるべきかが見えてきます。
BtoCマーケティングは「一個の複合的な主体」に向けて、注意・興味・欲求・記憶・行動を一貫した物語として設計します。感情的・象徴的・社会的なメッセージが単一の個人の意思決定プロセスを貫通できます。Nikeの「Just Do It」がロジックではなくイメージで届くのはそのためです。
BtoBマーケティングが語りかけるべき「法人の欲望」は、複数の部門に解剖されて外在化されています。この構造的差異から、少なくとも3つの設計原理が導かれます。
第一に、機能別言語の設計です。営業・事業部門にはボードリヤール的な記号訴求が有効で、「あの会社が使っている」という差異的な位置取りを示す事例、使ってみてワクワクするデモなどを。経理・調達部門には機能的訴求が必要で、ROI試算、TCO比較、定量データなどを。法務・コンプライアンス部門には欲求ではなくリスク回避の論理が響き、「入れなければまずい理由」の提示、認証・法令準拠の明示などを。経営陣にはヴェブレン的な顕示訴求が機能し、「この選択で自社はどう見られるか」という地位とナラティブの提供が重要でしょう。
第二に、記号的コードの先行形成です。稟議書が立ち上がる前に、業界内の「空気」、つまり、どのベンダーが先進的に見えるか、同業他社は何を選んでいるかの規範的ルール・流行・雰囲気を作ることが、購買の実質的な意思決定を規定するはずです。業界カンファレンスでのプレゼンス、技術者コミュニティにおける口コミ、思想的リーダーシップを示すコンテンツ、これらはタルドの模倣論が示す「上位から下流への伝播回路」への投資です。
第三に、購買後フェーズへの投資です。法人購買は購買後の社内正当化プロセスが次回購買を規定します。導入効果のレポート素材を提供すること、経営層向けのサクセスストーリーを共同で設計すること、これらは「顧客サポート」ではなく、次の購買のための記号的価値の再生産、コードへの半永久的な従属をもたらすものです。
おわりに:稟議書の行間を読む
法人は確かに「消費」をします。欲求は営業部門に宿り、理性は経理に宿り、規範は法務に宿り、承認欲求は経営陣に宿ります。そして感情は、制度的言語に翻訳されて稟議書の行間に潜みます。
ヴェブレン、ブルデュー、タルド、ジンメル、ボードリヤールが個人の消費について論じた洞察は、法人という「解剖された個人」においても、変形し、外在化され、制度化されながら再演されています。BtoBマーケティングに求められるのは、この再演の構造を読み解き、分散した欲望のネットワークに、機能別の言語と回路で語りかける技術です。
稟議書は合理性の文書ではなく、欲望の翻訳書だと捉えられるのです。
連載シリーズ
法人という“消費者” BtoBマーケティングの消費社会論的解剖
第1回 企業もまた、欲しがる。合理的な“消費者”の素顔
第2回 コードを支配せよ。BtoBにおける記号操作戦略史
第3回 「解剖された個人」への語りかけ方。テック企業のマーケティング
執筆者プロフィール
和田 崇
株式会社Laboro.AI 執行役員(マーケティング部管掌)
・立教大学大学院 経営学修士(マーケティング論・消費者行動論)。
・立教大学大学院 ビジネスデザイン研究科 博士後期課程 中退。
・2019年に株式会社Laboro.AI参画。マーケティング/プロモーション/ブランディング領域を担当・管掌。
・NewsPicksプロピッカー(AI/マーケティング領域)
・日経クロストレンド連載 「最新マーケ論文で学ぶ『新・消費者理解』」
・日経クロストレンド連載「未来の消費者に聞け『AIリサーチ』」
・日本マーケティング学会、日本産業経済学会、人工知能学会、情報処理学会、各会員