
少しだけ光る 第2章 帰りたくなくなる感じ
翌朝、未那は七時過ぎには一階に下りてきていた。
白いシャツに、動きやすそうな黒いパンツ。
髪は後ろでひとつにまとめている。
昨日の夜、カウンターで日本酒を飲んでいた時とは違う顔だった。
「おはようございます」
未那は健太に向かって、緊張した声で言った。
「おはようございます。よく眠れました?」
「はい。思ったより」
「よかったです。じゃあ、まずは流れを説明しますね」
健太はカウンターの奥から、A4の紙を一枚取り出した。
チェックアウト後の清掃。共有スペースの確認。忘れ物のチェック。午後のチェックイン準備。
それが、未那が主に手伝う仕事だった。
秋の連休前で人の出入りは多い。
それでも、未那の仕事は宿の準備を中心に、空いた時間は自分の仕事をしてもいいことになっていた。
「カフェの方は、基本的に由美子さんが入ってくれます」
健太が言った。
「由美子さん?」
「島の人で、昼のカフェを手伝ってくれてます。めちゃくちゃ頼りになります」
「そうなんですね」
「なので、未那さんは宿の方を中心にお願いします。空いた時間は、自分の仕事をしてもらって大丈夫なので」
「ありがとうございます」
未那は頭を下げた。
その時、僕はカウンターの端で、展示用のカードを並べていた。
明日から始まる写真展のために、写真の下に添える言葉を確認する。
まだ印刷できていないものもある。
位置を決めきれていない写真もある。
一階の白い壁は、昨日より展示らしくなっていた。
でも、まだ完成には遠い。
「蒼介さん、今日も準備ですか?」
健太がこちらを見た。
「うん。昼過ぎまでにはだいたい並べたいな」
「すみません、こっちもバタバタで」
「大丈夫。おれの展示やし」
そう言いながら、僕は床に置いた額を一枚持ち上げた。
未那は健太の説明を聞きながら、時々こちらの壁を見ていた。
熱心に見ているというより、視界の端に入るものを、つい追っているように見えた。
少し気になったけれど、声をかけるほどではなかった。
昼前になると、由美子さんがやって来た。
五十代くらいの、よく笑う女性だった。髪を後ろで軽く結び、エプロンのポケットにはボールペンを何本も差している。
「健太くん、今日も人多いん?」
「多いです。昼からチェックインも何組かあります」
「そうかぁ。じゃあ、スープ多めに作っとく」
由美子さんはそう言って、慣れた様子でカフェの準備を始めた。
未那が緊張したように挨拶をすると、由美子さんはすぐに笑った。
「あんたが未那ちゃん?京都から来たんやって?」
「はい。今日からお世話になります」
「こちらこそ。まあ、健太くん適当なところあるから、分からんことあったら私に聞きや」
「聞こえてますよ」
健太が奥から言った。
「聞こえるように言うてるんよ」
由美子さんが笑った。
未那も笑った。
その笑い方は、昨日の夜より軽かった。
宿の中に誰かが笑う声があると、空間はやわらかくなる。写真館で働いていた頃から、僕はそういう変化を見るのが好きだった。
昼を過ぎると、ゲストハウスは慌ただしくなった。
チェックアウトした客が荷物を取りに戻ってくる。
昼のカフェに、夕焼けを待つ旅行者が入ってくる。
健太はフロントとカウンターを行き来し、由美子さんは奥でスープを温めている。
未那は共有スペースの棚を拭いたり、チェックイン用の紙を並べたりしていた。動きはまだぎこちない。けれど、ひとつひとつ丁寧だった。
夕方近くになって、写真展の準備はようやく形になってきた。
白い壁には十数点の写真が並んでいる。
水面に空が映った浜。太陽の光を反射する海。夕陽に照らされたフェリー。天の川が浮かぶ夜空。
その下には、それぞれ短い言葉を添えた。
自分の心を裏切らずに生きたい
ちゃんとしているふりを、少し休みたい
誰にも言えないまま、優しくなりたい
帰る場所がある人は、強いと思っていた
どの言葉も、僕が書いたものではない。
旅人がこの島で夕焼けを見たあとに残してくれた言葉だった。
でも、その言葉を選び、写真のそばに置いたのは僕だった。
だから、まったく自分のものではないとも言えなかった。
「蒼介さん」
健太が声をかけてきた。
「うん?」
「明香里さん、もうすぐ着くみたいです」
「あかりさん?」
「未那さんの友達です。今日から三泊。月曜に帰るって」
「ああ」
そういえば、未那が昨日話していた。
京都から二日遅れて親友が来る。名前は明香里。よく笑う人だと未那は言っていた。
見ると、未那は階段の下で小さなバッグを持っていた。
「港、行くの?」
僕が聞くと、未那はこちらを見た。
「はい。明香里が来るので」
「そっか」
「すみません、準備中なのに」
「全然」
「展示、だいぶできましたね」
未那は白い壁を見た。
「まだ細かいところが残ってるけど」
「明日からですよね」
「うん」
「楽しみです」
その言い方は、昨日より素直に聞こえた。
未那はそのまま港へ向かった。
僕は壁の前に立ったまま、額の位置を直した。
言葉のカードと写真の間隔を、指一本分だけ空ける。
誰かにとっては、どうでもいいような違いだった。
でも、そのわずかな違いで、写真と言葉の距離が変わる。
見る人が立ち止まる時間も、変わるように思えた。
日が傾き始めた頃、入口の方から明るい声が聞こえた。
「着いたー。遠かったー」
その声を聞いて、たぶん明香里だと思った。
振り返ると、未那がひとりの女性と一緒に入ってきた。
肩より少し長い髪を軽く巻いて、明るい色の上着を羽織っている。手には小さなキャリーケース。表情がよく動く人だった。
未那とはまた違う種類の明るさがある。
「健太さんですか?明香里です。三日間お世話になります」
明香里は健太に向かって、はきはきと頭を下げた。
「こちらこそ。お待ちしてました」
「ここ、めっちゃいいですね。入口からもう好きです」
「早いですね」
健太が笑った。
「早いってよく言われます」
明香里も笑った。
未那はその横で、困ったようにしていた。けれど、その困った顔も慣れているように見えた。
「蒼介さん」
未那が僕の方を見た。
「こちら、明香里です。大学の時からの友達で」
明香里はすぐにこちらを向いた。
「蒼介さん!写真の人ですよね?」
「一応」
「未那から聞きました。迎えに来てくれた人で写真展する人」
「それくらいしか情報ないやん」
未那が小さく言った。
「十分やん」
明香里は笑った。
「明香里です。よろしくお願いします」
「蒼介です。よろしく」
「展示、見てもいいですか?」
「まだ準備中やけど」
「あ、そういうの見るの好きです」
昨日の未那と同じようなことを言った。
でも、言い方は全然違った。
未那は、静かに遠慮するように言う。
明香里は、面白そうなものを見つけた子どものように言う。
「じゃあ、少しだけ」
僕がそう言うと、明香里は白い壁の前へ歩いていった。
未那も、その後ろについていく。
ふたりは壁の前に並んで立った。
その姿を見て、不思議な気持ちになった。
昨日まで、未那はひとりでこの島に来た人だった。
でも今は、昔から彼女を知っている人が隣にいる。
その隣に立つ姿は、昨日まで僕が見ていたものとは少し違って見えた。
それは当たり前のことだった。
人は、隣にいる相手によって見せる顔が変わる。
分かっているはずなのに、そのことが新鮮だった。
「これ、好き」
明香里が言った。
見ていたのは、太陽の光を反射する海の写真だった。
写真の下には短い言葉が添えてある。
休むことが、まだ少し下手です
明香里はそれを読んで、すぐに未那を見た。
「これ、未那っぽい」
「すぐそういうこと言う」
未那が笑った。
「だって、ぽいやん」
「ぽくないです」
「ぽいです」
明香里は即答した。
未那は何も言い返さなかった。
ただ、その言葉の前で黙った。
僕はカウンターの方へ戻るふりをして、ふたりの様子を見ないようにした。
見てしまうと、何かを知った気になってしまいそうだった。
「蒼介さん、これ手伝っていいですか?」
明香里が急に言った。
「え?」
「カード貼るとか、位置見るとか。私、こういうの好きなんです」
「いや、でも来たばっかりやし」
「大丈夫です。フェリーで座ってたから休みました」
「明香里、休みなよ」
未那が言った。
「座ってたから休んだ」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題です」
明香里は楽しそうに笑った。
僕は壁に並んだ写真と、まだ床に残っているカードを見た。正直、ひとりで全部整えるには時間が足りなかった。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
僕がそう言うと、明香里はぱっと表情を明るくした。
「もちろんです」
「明香里、ほんまに休まんでいいの?」
未那が言った。
「大丈夫。こういうの好きやし」
「じゃあ、未那さんも時間があれば、一緒に見てもらえると助かります」
僕がそう言うと、未那は白い壁を見てから頷いた。
「私でよければ」
結局、明香里は荷物を部屋に置いたあと、すぐに一階へ戻ってきた。未那も清掃の残りを終えると手伝いに加わった。
明香里は写真をまっすぐにするのが妙にうまかった。
「これ、もうちょい右です」
「右?」
「はい。今ちょっと気持ち悪いです」
「気持ち悪い?」
「見た目の話です」
「明香里、言い方」
未那が笑った。
「ごめんなさい。でも、ほんまにあと三ミリくらい」
「三ミリ分かるん?」
僕が聞くと、明香里は得意そうに頷いた。
「営業やってると、資料のズレとか気になるんです」
「営業?」
「京都で会社員してます。営業です。毎日いろんな人に頭下げてます」
「明香里は向いてます」
未那が言った。
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「ほんまに?」
「たぶん」
「たぶんかい」
ふたりの会話は軽かった。
明香里の前では、未那の言葉が少し軽くなる。
そう思いかけて、僕はすぐに言い直した。
僕が見ているのは、その人の一部でしかない。
目の前にいるふたりには、ふたりの時間がある。
その当たり前のことを、僕は白い壁の前で見ていた。
嫌な感じはしなかった。
ただ、ひとりで島に来た人だと思っていた未那の輪郭が、少しだけ広がって見えた。
展示の準備が一区切りついたのは、夕方の前だった。
白い壁には、ほとんどの写真と言葉が並んでいる。まだ微調整は必要だけれど、明日から人に見せられる形にはなっていた。
健太が壁の前で腕を組んだ。
「いいですね」
「うん」
「かなりいいです」
明香里も隣で頷いた。
「いいです。なんか、ちゃんと寂しくていい」
「ちゃんと寂しい?」
僕が聞くと、明香里は考えた。
「寂しいけど、暗すぎないです」
未那がこちらを見た。
昨日の夜、未那が言った言葉を思い出した。
明るすぎないものが、好きなんです。
似ているけれど、少し違う。
明香里の言葉は、外から明るく触れる。未那の言葉は、内側から静かに触れてくる。
そんな違いがあるように思えた。
「せっかくやし、夕焼け見に行きません?」
明香里が言った。
「今からですか?」
健太が時計を見る。
「まだ間に合いません?」
「間に合うけど、明日の準備が」
「ちょっとだけです。せっかく凪瀬島来たんで」
明香里は未那を見た。
「未那も見たいやろ?」
未那は迷った顔をした。
「見たいけど」
「仕事?」
「もうちょっと残ってる」
「一時間くらい大丈夫やって。今日来たばっかりやし」
「今日来たばっかりなんは明香里やん」
「そうとも言う」
明香里は笑った。
健太が壁を見て、それから僕を見た。
「蒼介さん、行ってきたらどうですか。ここは僕がやっときます」
「おれ?」
「はい。夕焼けの島の写真家が、夕焼け案内しないでどうするんですか」
「それは仕事として?」
「半分仕事です」
明香里がすぐに言った。
「じゃあ行きましょう。半分仕事なら」
「明香里、強いな」
未那が呟いた。
僕は笑った。
「じゃあ、行こうか」
「やった」
明香里は嬉しそうに手を叩いた。
未那はまだ迷っているようだったけれど、最後には頷いた。
「じゃあ、少しだけ」
その言い方が、どこか未那らしかった。
ゲストハウスを出ると、空は色を変え始めていた。
浜へ向かう人の流れができている。
カメラを肩にかけた人。
サンダルを手に持った人。
小さな子どもの手を引く親。
秋の風は、昼間より冷たい。
明香里は歩きながら、何度も周りを見た。
「めっちゃいいですね、この島」
「まだ浜にも着いてないで」
未那が言った。
「もういい。道がいい」
「早い」
「早いって言われる」
「知ってる」
ふたりのやり取りを聞きながら、僕は後ろを歩いた。
未那は明香里と並んでいる。時々笑う。けれど、ふと黙ると、視線は海の方へ向かった。
浜に着くと、潮は引き始めていた。
浅い水面に、まだ薄い青が残っている。その上に夕陽の色が混ざっていく。
明香里はすぐに声を上げた。
「これは、ずるい」
「ずるい?」
「こんなん毎日見られるの、ずるいです」
「毎日見られるわけじゃないよ」
僕が言うと、明香里はこちらを見た。
「でも、見られる日があるだけで十分ずるいです」
未那はその横で、何も言わなかった。
靴の先が濡れないぎりぎりのところに立って、海の方を見ている。スマホは手に持っていたけれど、すぐには撮らない。
「撮らないの?」
明香里が聞いた。
「あとで」
「今きれいやん」
「うん」
「撮らへんの?」
「見てる」
未那は短く言った。
明香里は未那を見た。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
夕陽はゆっくり沈んでいった。
浜にいる人たちは、いつの間にか静かになっていた。
さっきまで話していた旅行者も、子どもを追いかけていた親も、みんな海の方を見ている。
空の色が変わる。水面の色が変わる。浜に立つ人の影も、長くなる。
僕はカメラを構えた。
明香里は何枚も写真を撮っていた。未那はまだ、ほとんど撮っていなかった。
その横顔を、一度だけ見た。
昨日、踊り場の窓から光を見ていた時と似た顔をしていた。
何かを見ているというより、何かに触れているような顔だった。
日が沈みかけた頃、未那が言った。
「帰りたくなくなる感じですね」
その言葉は、波の音に混ざった。
僕は聞き返さなかった。
明香里も、すぐには何も言わなかった。
未那は海の方を見たままだった。
「昨日、見たら帰りたくなくなりそうって言ってたね」
僕が言うと、未那はこちらを見た。
「言いましたっけ」
「言ってた」
「覚えてるんですね」
「ちょっとだけ」
未那は笑った。
「ほんま、帰りたくなくなりそうです」
それは、この島に向けられた言葉だった。
この浜に、この光に、この静けさに向けられた言葉だった。
日が沈んだあとも、浜にはしばらく光が残っていた。
明香里は靴を脱いで、水際を歩いた。
「冷たっ」
「そりゃそうやろ」
未那が笑った。
「でも気持ちいい」
「風邪ひくで」
「未那、お母さんみたい」
「誰がオカンやねん」
明香里は笑いながら、水面に映る空を撮っていた。
未那もようやくスマホを出して、一枚だけ写真を撮った。
「一枚でいいの?」
僕が聞くと、未那は画面を見たまま言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「撮りすぎると、見た気がしなくなる時があるので」
その言葉に、僕は黙った。
写真家として、分かるような、分かりたくないような言葉だった。
「まあ、分かる気がする」
僕が言うと、未那は意外そうにこちらを見た。
「蒼介さんでも?」
「うん」
「そうなんですね」
「撮ってるのに、見てない時がある」
未那はまた海の方を見た。
「じゃあ今日は、見られてよかったですね」
「そうやな」
その返事は、自分で思ったより素直に出た。
ゲストハウスへ戻る頃には、空は薄紫になっていた。
明香里は歩きながら、もう何度も「来てよかった」と言っていた。未那はそれを聞いて笑っていた。
ゲストハウスの灯りが見えてくると、健太が入口の前で待っていた。
「どうでした?」
「最高でした」
明香里が即答した。
「それはよかったです」
「健太さん、なんで毎日見に行かないんですか」
「仕事してるからです」
「それはそうですね」
健太は笑った。
白い壁の写真は、さっきより静かに見えた。
夕焼けを見たあとだからかもしれない。
壁に並んだ写真の中の浜と、今見てきた浜が重なった。
明香里はもう一度、展示の前に立った。
「明日からなんですよね」
「うん」
「楽しみですね」
「緊張するけど」
「大丈夫です」
明香里はあっさり言った。
「根拠は?」
「あります」
「何?」
「未那がいいって言ってたから」
未那は驚いたように明香里を見た。
「そんなこと言ってへん」
「言ってた」
「言ってへん」
「明るすぎないって言ってたやん」
未那は黙った。
それから、僕を見た。
「……それは言いました」
「ほら」
明香里は得意そうに笑った。
健太がカウンターの奥で笑っていた。
僕は何と言えばいいか分からず、壁の写真を見た。
明日から、この場所に人が立ち止まる。
その人たちが何を感じるのかは分からない。何も感じないかもしれない。何かを思い出すかもしれない。
それでも、今日の夕焼けを見たあとなら信じられた。
この島の光は、誰かの心に届くことがある。
今日の夕方、僕はそのことを確かに見た。
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※この物語はフィクションです。