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少しだけ光る 第1章 綺麗な光ですね

    凪瀬島なぎせじまは、本土からフェリーで渡る小さな島だった。

    夕焼けの島として知られている。

    干潮の時間になると、浅い浜に空の色が映り、海と陸の境目が分からなくなる。

    夕陽が沈む前の数十分、浜には人が集まる。

    カメラを持った旅行者。

    裸足で水際を歩くカップル。

    スマホを掲げたまま動かなくなる人。

    何も撮らずに、海の向こうを見ている人。

    島に来る理由は、人それぞれだ。

    けれど夕方になると、みんな一度は同じ方角を向く。

    僕はその時間が好きだった。

    誰かと来ていても、ひとりで来ていても、夕陽の前では人は静かになる。

    その静けさの中にいると、自分の心に近づけるような気がした。

    僕が凪瀬島に移り住んで、二年になる。

    それまでは、横浜の海沿いにある小さな記念写真スタジオで働いていた。十年ほどのあいだ、家族やカップルの記念写真を撮っていた。

    緊張して笑えない子ども。照れくさそうに並ぶ夫婦。カメラの前で、どう立てばいいか分からずに笑ってしまう恋人たち。

    写真そのものだけに惹かれていたわけではない。

    撮影の時間を通して、人の表情がほどけていく。最初は固かった空気が、やわらかくなる。来た時よりも楽しそうな顔で帰っていく。

    その瞬間を見るのが、僕は好きだった。

    でも、いつの頃からか、自分の時間だけが遠くなっていくように感じるようになった。

    誰かの幸せな時間を撮り続けながら、自分は何を見ているのだろうと思う日があった。

    だから、旅に出た。

    港町を歩き、山の集落に泊まり、知らない人の話を聞いた。写真を撮る日もあれば、撮らない日もあった。

    凪瀬島に来たのは、その途中だった。

    夕焼けが綺麗だと聞いて、一泊するつもりで島に渡った。けれど浜に立った時、帰るタイミングを失った。

    空が海に映っていた。島影がゆっくり溶けていくように見えた。波の音は小さく、浜にいる人たちはみんな黙っていた。

    その時、ここなら人が自分の中にあるものを置いていけるかもしれないと思った。

    理由は分からなかった。

    でも、そう思った。

    それから何度か島に通い、気づけば住む場所を探していた。

    今住んでいる家は、港から少し外れたところにある古い家だ。

    母屋の隣には、小さな離れもある。

    立派な客間というほどではないけれど、友人が島に来た時には使える場所だった。

    庭には手入れの追いついていない草が伸びる。風の強い日は古い戸が鳴る。夜になると、港の明かりが遠くに見えた。

    新しい家ではなかった。

    でも、静かで落ち着ける場所だった。

    僕はその家で暮らしながら、島の風景と、そこを訪れた人々の言葉を集めるようになった。

    夕焼けのあとに色を失っていく浜。フェリーが去ったあとの港。雨上がりに光る細い道。朝になる前の、まだ誰もいない海。

    凪瀬島に来てから、夕焼けの浜で旅人の写真を撮る仕事も少しずつ受けるようになった。

    撮影のあと、僕は小さな紙を渡していた。

    「この景色を見て、今感じたことを一言だけ書いてもらえませんか」

    最初はみんな戸惑う。

    けれど夕陽を見たあとの人は、不思議と何かを書いてくれた。

    旅の記憶でも、誰かへの言葉でも、自分だけに向けた言葉でもいい。

    そうして、島の風景と人々の言葉が溜まっていった。

    その写真と言葉を並べた小さな展示を、健太のゲストハウスで開くことになっていた。

    健太は僕と同じ頃に凪瀬島へ来た男だ。埼玉出身で、親戚がやっていたゲストハウスを引き継ぐために島へ来た。

    ゲストハウスは三階建てで、一階はフロントを兼ねたカフェバーになっている。僕は週末を中心に、健太のバーを手伝っていた。

    写真だけで暮らしていくには、まだ心もとなかった。

    島での暮らしは静かだけれど、静かだからといって、お金がかからないわけではない。

    健太はそのことを特に聞かなかった。

    「蒼介さん、週末だけでも入ってくれたら助かります」

    そう言ってくれた。

    健太のゲストハウスの一階には、白い壁面がある。

    最初に見た時から、写真を飾るにはちょうどいいと思っていた。

    昼は窓から海の光が入る。夜はバーの明かりで、写真の影がやわらかく落ちる。

    健太がその壁を見ながら言った。

    「ここ、蒼介さんの写真、絶対合いますよ」

    「バーに?」

    「昼はカフェだし、夜はバーですからね。いろんな人が見ると思うんですよ」

    「確かに」

    「お酒入ると、ちょっと素直になるじゃないですか。そういう時に、こういう言葉が壁にあるの、いいと思うんです」

    健太は軽く言った。

    けれど、その言葉は嬉しかった。


    展示の開始は、三日後に迫っていた。

    その日、僕は昼過ぎから健太のゲストハウスに来ていた。額に入れた写真を床に並べ、壁に掛ける順番を考えていく。

    水面に空が映った浜。曇りの日の港。雨粒の残る草木。夜明け前の堤防。

    その横に、旅人が残した短い言葉を添える。

    自分の心を裏切らずに生きたい

    その一枚を壁に掛ける時、健太は黙って見ていた。

    「これ、いいですね」

    「うん」

    「誰の言葉ですか?」

    「旅人の」

    「へぇー」

    健太はそれ以上聞かなかった。

    その距離感がありがたかった。

    午後の光が傾き始めた頃、健太が奥から慌てた様子で出てきた。

    「蒼介さん」

    「何?」

    「すみません、港まで迎えに行ってもらえませんか」

    「誰を?」

    「今日から来るお手伝いの人です。名前は未那さん。京都から来る、秋の繁忙期のスタッフです」

    「ああ、前に言ってた人」

    「そうです。フリーのデザイナーさんで、仕事しながら一ヶ月こっちにいるって」

    「おれが行って分かるかな」

    「写真送ります」

    健太はすぐにスマホを操作した。

    画面にひとりの女性の写真が表示される。

    肩くらいの髪。白いシャツ。少し眠そうにも見える目元。

    その時は特に何も思わなかった。

    ただ、健太の代わりに迎えに行く人。

    それだけの役目だった。

    港までは、歩いて十分ほどで着く。

    凪瀬島の道は狭い。家の塀の間を抜け、坂を下りると、港の方からフェリーの低い音が聞こえてきた。

    秋とはいえ、日中はまだ夏のように暑かった。それでも海から吹く風には、季節が変わる気配が混ざっていた。

    港に着くと、ちょうどフェリーが桟橋に近づいていた。

    やがて船が接岸し、人が少しずつ降りてくる。

    日帰りらしい若い旅行者。大きなリュックを背負った外国人。島の人に迎えられている家族。キャリーケースを引く女性。

    その中に、写真で見た人がいた。

    彼女は桟橋の途中で一度立ち止まり、まぶしそうに空を見上げた。

    肩から小さめのバッグを掛け、片手でキャリーケースを引いている。

    白いシャツに、淡い色のカーディガン。

    目立つ服装ではなかった。

    でも、どこか疲れているように見えた。

    長い移動のせいなのか、それとも別の理由があるのか。

    その時は分からなかった。

    僕は近づいて声をかけた。

    「未那さんですか?」

    彼女はこちらを見た。

    「はい、そうです」

    「健太の代わりに来ました。蒼介です」

    「あ、ありがとうございます」

    声は落ち着いていた。けれど、どこか眠そうにも聞こえた。

    「健太が急に対応入ってしまって」

    「そうでしたか、わざわざすみません」

    彼女は丁寧に頭を下げた。

    「荷物、持ちますね」

    「大丈夫です」

    「この先、坂なんです」

    「あ、じゃあ……お願いします」

    少し迷ってから、彼女はキャリーケースの持ち手を渡した。

    その遠慮の仕方が印象に残った。

    人に頼る前に一度断る。それから、ほんの少しだけ預ける。

    その順番が、彼女の中で決まっているみたいだった。

    港からゲストハウスへ向かう道を、僕たちは歩いた。

    「凪瀬島、初めてですか?」

    僕が聞くと、未那は頷いた。

    「はい。ずっと気になってたんです」

    「夕焼け?」

    「それもあります」

    「それも」

    「写真で何度か見ていて。海に空が映る感じが綺麗だなと思って」

    「今日はたぶん、よく見えると思います」

    「ほんまですか」

    その言葉だけ、少し京都の響きがあった。

    彼女は自分でも気づいたのか、口元をゆるめた。

    「すみません、たまに出ます」

    「京都の人?」

    「はい」

    「いいじゃないですか」

    「いいんですか?」

    「うん。なんかかっこいい」

    「本当に思ってます?」

    「たぶん」

    彼女は笑った。

    よく笑う人というより、笑うことでその場の空気をやわらげているような人だった。

    「健太から少し聞きました」

    僕が言うと、未那は歩きながらこちらを見た。

    「私のことですか?」

    「一ヶ月、手伝いに来るって」

    「ああ」

    「フリーのデザイナーさん?」

    「はい。グラフィックデザインをしています」

    「仕事は休み?」

    「いえ、休みではないです。空いた時間にリモートでやるつもりです」

    「それ、忙しそうやね」

    「忙しくなるかもしれません」

    未那は肩をすくめた。

    「でも、京都にいてもずっと仕事してしまうので」

    「そうなんや」

    「ちょっと環境を変えたいなって思って」

    「それで凪瀬島に?」

    「はい。前から気になっていたので」

    彼女はそう言って、海の方を見た。

    「都会にいると、疲れる時があって」

    その声はさっきまでより小さかった。

    僕は返事を探した。

    「島も疲れることあるよ」

    軽く笑いながら言うと、未那は驚いたようにこちらを見た。

    「そうなんですか」

    「あるよ。静かすぎる時とか」

    「静かすぎる」

    「考えたくないことまで聞こえるときがある」

    そう言ってから、言いすぎたと思った。

    けれど未那は、否定しなかった。

    「それは、なんか分かる気がします」

    そう言って、また海の方を見た。

    ゲストハウスが見えてきた。

    三階建ての古い建物で、外壁はところどころ白く塗り直されている。一階の大きな窓からは、カウンターと白い壁が見えた。

    まだ準備中の写真が、床に何枚も並んでいた。

    未那は入口の前で足を止めた。

    「あれ、写真ですか?」

    「あ、はい」

    「展示するんですか?」

    「三日後から、小さな写真展をするんです」

    「蒼介さん、写真家なんですか?」

    「一応。島の写真を撮ったり、旅人の撮影をしたりしてます」

    「そうなんですね」

    未那は白い壁の方を見た。

    どうやら、写真展のことは聞いていなかったらしい。

    「健太から聞いてない?」

    「聞いてないです。ゲストハウスの手伝いのことしか」

    「まあ、健太はそういうところあるから」

    「そういうところ」

    未那は笑った。

    その時、健太が入口から顔を出した。

    「未那さん!すみません、迎え行けなくて」

    「いえ、大丈夫です。蒼介さんに来ていただきました」

    「助かりました。蒼介さん、ほんとありがとうございます」

    「水漏れは?」

    「水漏れじゃなかったです」

    「違ったんや」

    「お客さんが洗面台の下に水をこぼしただけでした」

    「平和でよかったやん」

    健太は気まずそうに笑って、未那の荷物を受け取った。

    「じゃあ、部屋案内しますね。三階のスタッフ部屋です。小さいけど、一ヶ月なら大丈夫だと思います」

    「ありがとうございます」

    未那はもう一度、僕に頭を下げた。

    「迎えに来てくださって、ありがとうございました」

    「いえ」

    「展示、楽しみにしてます」

    「まだ準備中やけど」

    「準備中の方が、ちょっと見たいです」

    そう言って、未那は白い壁の方を見た。

    僕は返事に困った。

    まだ形になる前のものを見られるのは、心の途中を見られるような感じがした。

    健太に案内されて、未那は階段を上がっていった。

    三階へ向かう途中、踊り場の窓から夕方の光が差し込んでいた。

    未那はそこで一度、足を止めた。

    窓の向こうに、海が少し見えていた。まだ夕焼けには早かったけれど、水面にはもう薄い金色が混ざり始めている。

    「……綺麗な光ですね」

    未那は小さく言った。

    それは僕に向けた言葉というより、窓の外にこぼれた独り言みたいだった。

    島に来たばかりの人が、最初に光を見つける瞬間。

    僕はその瞬間が嫌いではなかった。

    その時の僕は、まだ彼女のことを何も知らなかった。

    ただ、一ヶ月だけこの建物にいる人。健太の代わりに港まで迎えに行った人。

    それだけだった。

    僕は白い壁の前に戻った。

    床には、まだ掛けていない写真が残っている。浅い水面に秋の空が映っている写真だった。

    そこに添える言葉は、まだ決めていなかった。

    ふと、さっきの未那の声が頭に残っていた。

    都会にいると、疲れる時があって。

    港からここまでの短い道のりで、彼女の声がひとつだけ残ってしまった。

    その時は、それ以上の意味はなかった。


    夜になって、ゲストハウスの一階はバーになった。

    宿泊客が数人、カウンターに座っている。島の人がひとり、いつもの席でビールを飲んでいる。

    写真展はまだ始まっていない。それでも白い壁には、半分ほど写真が掛かっていた。

    夜が少し深くなった頃、未那が階段を下りてきた。昼間よりゆるい服に着替え、髪もほどいている。

    健太がカウンターの中から声をかけた。

    「未那さん、部屋どうでした?」

    「大丈夫です。思ってたより落ち着きます」

    「よかった。明日は朝から軽く説明しますね」

    「はい」

    未那はカウンターの端に座った。

    「何か飲みます?」

    健太が聞くと、未那は少し迷った。

    「日本酒、ありますか?」

    「ありますよ。島のではないですけど」

    「じゃあ、少しだけ」

    健太は小さなグラスに日本酒を注いだ。

    未那はそれを両手で受け取った。

    「日本酒、好きなんですか?」

    僕が聞くと、未那はこちらを見た。

    「好きです」

    「よく飲むの?」

    「たまにです」

    間があった。

    「たぶん」

    その言い方が、気になった。

    本当に好きなのか。それとも、夜に気持ちをほどくためのものなのか。

    その時の僕には、まだ分からなかった。

    未那は日本酒を飲んでから、白い壁の方を見た。

    「写真、もう見てもいいですか?」

    僕は迷ってから、頷いた。

    「どうぞ」

    未那は席を立ち、壁の前に立った。

    夕焼けの浜。雨上がりの草木。誰もいない朝の海。

    写真の下には、まだ言葉がついていないものもあった。

    未那は一枚ずつ、ゆっくり見ていた。

    急いで感想を言う人ではなかった。綺麗ですね、とすぐに言うわけでもなかった。

    離れたり、近づいたりしながら、写真の前に立っていた。

    その時間が思ったより長かった。

    「明るすぎないですね」

    しばらくして、未那が言った。

    「え?」

    「写真です」

    未那は壁を見たまま言った。

    「夕焼けなのに、明るすぎないです」

    それが褒め言葉なのか、一瞬分からなかった。

    「褒めてる?」

    僕が聞くと、未那はこちらを見て笑った。

    「褒めてます」

    「そうなんや」

    「明るすぎないものが、好きなんです」

    その言葉は、写真のことを言っているようで、彼女自身のことを言っているようにも聞こえた。

    そう聞こえただけかもしれない。

    健太が奥で洗い物をしている音がした。外では風が強くなっていた。

    未那はもう一度、夕焼けの写真を見た。

    「凪瀬島って、ほんまに夕陽が綺麗なんですね」

    「明日、見に行けると思うよ」

    「仕事が終われば」

    「仕事?」

    「デザインの方です。あと、健太さんの手伝いも」

    「いきなり忙しいね」

    「そうですね」

    未那は笑った。

    「でも、忙しい方が楽な時もあります」

    その言葉を聞いて、僕は返事が遅れた。

    「楽?」

    「考えなくて済むので」

    未那はそう言ってから、日本酒のグラスを持った。

    「すみません。初日から変なこと言いました」

    「変じゃないですよ」

    そう答えると、未那はこちらを見た。

    「蒼介さん、そういうこと言いそうですね」

    「どういうこと?」

    「変じゃない、とか」

    未那は口元だけで笑った。

    「言いそうです」

    その笑い方は、港で見た時と違っていた。

    気が抜けているのに、言葉だけはどこかで引き戻そうとしている。そんな笑い方だった。

    「じゃあ、明日は夕陽を見てください」

    僕が言うと、未那は頷いた。

    「見たいです」

    「この島に来た理由ですから」

    「はい」

    少し間があった。

    「でも、見たら帰りたくなくなりそうですね」

    その言葉が、なぜか耳に残った。

    帰りたくなくなりそう。

    彼女はまだ島に着いたばかりだった。この建物に来て、数時間しか経っていない。

    それなのに、もう帰ることについて話していた。

    「一ヶ月あるんですよね?」

    僕が言うと、未那は笑った。

    「一ヶ月って、長いですか?」

    「短くはないかと」

    「でも、すぐ終わりそうです」

    「まだ始まってもないのに」

    「そうですね」

    未那は日本酒を飲んだ。

    「でも、そういう予感ってありません?」

    「あるかもですね」

    「ありますよね」

    彼女はそう言って、白い壁の写真に視線を戻した。

    その横顔を見ながら、僕は思った。

    写真を撮ったわけではない。

    それなのに、港で初めて見た時の彼女の姿と、白い壁の前で言葉を読んでいる今の姿が、僕の中で静かに重なっていた。




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    第2章 帰りたくなくなる感じ

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    ※この物語はフィクションです。


     
     
    小さい頃、物語を読むのが好きでした 今回、初めて小説を書きました

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