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少しだけ光る 第3章 明るすぎないもの

    写真展の初日は、朝から落ち着かなかった。

    起きた時から、部屋の空気がいつもより薄く感じた。窓を開けると、まだ朝の海が光っている。

    今日は写真と言葉が、知らない誰かの目に触れる。

    そう思うと、胸の奥がざわついた。

    自分で選んだ写真だった。

    自分で並べた言葉だった。

    誰に頼まれたわけでもない。

    見せたいと思って始めたことだった。

    それなのに、いざ人に見られるとなると怖くなる。

    写真館で働いていた頃とは違う。

    あの頃は、誰かのために撮っていた。お客さんがいて、撮る目的があって、仕上げる写真の形があった。

    でも今回は、僕がこの島で見てきたものと、旅人が残してくれた言葉を、自分で選んで並べている。

    どこかに、僕自身が滲んでしまう。

    それが怖かった。

    ゲストハウスに着いたのは、カフェが開く少し前だった。

    一階の白い壁には、昨日並べた写真と言葉がそのまま掛かっている。

    水面に空が映った浜。太陽の光を反射する海。夕陽に照らされたフェリー。天の川が浮かぶ夜空。

    僕は額の角度をひとつずつ見ていった。

    大きく曲がっているものはない。

    それでも、何度か位置を直した。

    健太が奥から出てきた。

    「おはようございます」

    「おはよう」

    「早いですね」

    「落ち着かなくて」

    「分かります」

    「健太にも分かるん?」

    「僕も最初にバーを開けた日は落ち着かなかったです。誰も来なかったらどうしようって」

    「ほんで、来たん?」

    「来ました。島のおじさんがひとり」

    「よかったやん」

    「でもその人、ずっとテレビ見てました」

    僕は笑った。

    健太も笑った。

    「でも、来てくれたらそれだけで嬉しかったんですよね」

    「うん」

    「今日も、そんな感じだと思います」

    健太はそう言って、コーヒーメーカーの準備を始めた。

    その言葉はありがたかった。

    由美子さんは九時前にやって来た。

    「今日から写真展やろ?」

    「はい」

    「ええやん。朝から壁がええ感じやわ」

    「ありがとうございます」

    「私、あとでちゃんと見るわ。今見たら仕込み止まるから」

    そう言って、由美子さんは奥へ入っていった。

    未那はその少し後に下りてきた。

    昨日より慣れた様子で髪を後ろでまとめている。手にはノートパソコンと小さなメモ帳を持っていた。

    「おはようございます」

    「おはよう」

    「今日からですね」

    未那は白い壁を見た。

    「うん」

    「緊張してます?」

    「少し」

    「するんですね」

    「するよ」

    「写真家の人って、慣れてるのかと思ってました」

    「見られるのは慣れない」

    そう言うと、未那は笑った。

    「分かる気がします」

    「未那さんも?」

    「デザインの仕事も、出したあとに怖くなります」

    「そうなんや」

    「見られるために作ってるのに、見られるのは怖いです」

    その言葉はすんなり分かった。

    「それ、分かる」

    僕が言うと、未那は頷いた。

    「でも、見てもらわないと始まらないですもんね」

    「そうやな」

    「じゃあ、始まりますね」

    未那はそう言って、白い壁に向かって軽く頭を下げた。

    冗談なのか本気なのか分からない仕草だった。

    でもその仕草に、僕の緊張は少しゆるんだ。

    昼前になると、カフェには人が入り始めた。

    連休の初日だった。

    フェリーで着いたばかりの旅行者。チェックイン前に荷物を預けに来た宿泊客。夕焼けまでの時間を相談している人たち。

    写真展といっても、大きな看板があるわけではない。

    入口の横に小さく案内を出しているだけだった。

    凪瀬島の風景と、旅人の言葉。

    それだけを並べた小さな展示。

    最初に足を止めてくれたのは、二人組の女性だった。

    カフェでコーヒーを注文したあと、壁の前で黙った。

    ひとりが写真を見て、もうひとりが言葉を読む。

    「これ、いいね」

    その声が聞こえた。

    それだけで、僕はほっとした。

    大きな反応はいらなかった。

    立ち止まってくれただけでよかった。

    昼過ぎには、明香里が起きてきた。

    「おはようございます」

    「遅くない?」

    未那が言うと、明香里は眠そうな顔のまま手を振った。

    「旅先では朝寝る派です」

    「それ、損してへん?」

    「昨日夕焼け見たから元取れてる」

    「早いな」

    「損得の計算は早い」

    明香里はそう言って、カウンターの方へ歩いた。

    由美子さんがスープを出すと、明香里はすぐに目を輝かせた。

    「おいしそう」

    「ちゃんと食べてから動きな」

    由美子さんが言うと、明香里は笑った。

    「はい。言われなくても食べます」

    「ええ返事やわ」

    その声に未那も笑った。

    明香里がいると場が軽くなる。

    重くなりそうな空気も、うまく笑いに変えてしまう。それは未那とは違う明るさだった。

    明香里はスープを食べ終えると、白い壁の前へ行った。

    何度も見ているはずなのに、また最初から順番に見ていく。

    「やっぱりこれ好き」

    明香里が言った。

    昨日と同じ、太陽の光を反射する海の写真だった。

    休むことが、まだ少し下手です

    明香里はもう一度その言葉を読んだ。

    「未那、これ部屋に貼っといたら?」

    「貼りません」

    「毎朝見た方がいいと思う」

    「毎朝そんな重いこと言われたくない」

    「じゃあ夜」

    「もっと嫌やわ」

    ふたりの会話を聞きながら、僕はカウンターでグラスを拭いていた。

    未那は笑っていた。

    けれど、その言葉の前に立つ時間は昨日より長かった。

    それでも僕は、あまり長く見ないようにした。

    親しい人同士のやり取りには、外から見ているだけでは分からない距離がある。

    その中に、こちらの視線を置きすぎるのは少し違う気がした。


    昼のあいだ、何人かの旅行者が展示を見てくれた。

    しばらく立ち止まる人。写真だけを見て離れる人。言葉を読んで、表情を変える人。

    反応はそれぞれだった。

    それでいいと思った。

    何かを届けたいと思って展示をしている。

    でも、届き方まで決めることはできない。

    届かない人には届かない。

    必要な人には、届く。

    たぶん、それでいい。

    午後の静かな時間、未那はカフェの隅でパソコンを開いていた。

    ゲストハウスの手伝いが一段落したらしい。

    イヤホンはしていない。けれど、画面に向かう顔は仕事の顔だった。

    明香里はその向かいで観光マップを広げている。

    「未那、明日どうする?」

    「仕事次第」

    「出た、仕事次第」

    「ほんまにそうやし」

    「せっかく来たのに」

    「私は仕事もあるから」

    「分かってるけどさ」

    明香里は頬杖をついた。

    「でも、夜は空けといて」

    「なんで?」

    「バーで飲むから」

    「ここで?」

    「ここで」

    「ここ、私の職場でもあるんやけど」

    「じゃあ職場飲み」

    「嫌な言い方」

    未那は呆れたように言った。

    けれど、声はどこか楽しそうだった。

    その時、入口の近くで年配の男性が一枚の写真の前に立ち止まっていることに気づいた。

    写真の下には、こんな言葉があった。

    帰る場所がある人は、強いと思っていた

    男性はしばらくその前にいて、それから小さく息を吐いた。

    それだけだった。

    でも、その「それだけ」が、僕には嬉しかった。


    夕方が近づくと、カフェの客は減っていった。

    多くの人が浜へ向かう時間だった。

    明香里は「今日も見たい」と言ったが、未那はパソコンの画面を見たまま首を振った。

    「今日は仕事します」

    「昨日見たから?」

    「それもあるし、明日もあるし」

    「真面目やなあ」

    「真面目ではないです」

    「真面目じゃない人はそう言う」

    明香里は笑った。

    僕はカメラを持って浜へ行こうか迷った。

    でも、今日は展示の初日だった。夕方に戻ってくる人もいるかもしれない。

    ゲストハウスに残ることにした。

    窓の外の空が色を変えていく。

    白い壁の写真にも夕方の光が入っていた。

    本物の夕焼けを見に行く人たちと、壁の中の夕焼けを見ている人たち。

    そのあいだに、この場所はあった。

    夜になると、一階はバーに変わった。

    昼よりも照明を落とす。

    写真の影が、白い壁にやわらかく伸びる。

    昼は風景が見える。

    夜は、言葉が前に出てくる。

    健太がカウンターの中でボトルを並べながら言った。

    「やっぱり夜もいいですね」

    「うん」

    「言葉が見える感じします」

    「健太っぽくないこと言うな」

    「僕だってたまには言います」

    「たまにはね」

    健太は笑った。

    明香里はカウンターで、もう一杯目のビールを飲んでいた。

    未那は少し遅れて下りてきた。

    昼間より髪をほどいている。仕事を終えたのか、顔に疲れが見えた。

    「お疲れ」

    僕が言うと、未那は頷いた。

    「お疲れさまです」

    「仕事、終わった?」

    「終わった、ということにしました」

    「それは大事やね」

    「はい。今日はもう閉じました」

    未那はそう言って、カウンターの端に座った。

    「日本酒ありますか?」

    健太が笑った。

    「あります」

    「じゃあ、それを」

    「昨日と同じのでいいですか?」

    「はい」

    明香里が横から言った。

    「未那のお酒は、信用しすぎたらダメですよ」

    「明香里」

    「本当のことやん」

    未那は困ったように笑った。

    健太は小さなグラスに日本酒を注いだ。

    店内には宿泊客が何人かいた。夕焼けを見終えて戻ってきた旅行者もいる。

    そのうちのひとりが、写真の前で立ち止まった。

    若い男性だった。ビールを片手に天の川の写真を見ている。

    誰にも言えないまま、優しくなりたい。

    彼はその言葉をしばらく見ていた。

    それから隣にいた友人に何かを言った。友人は笑った。でも彼は、真面目な顔をしていた。

    その表情を見て、僕は息を吐いた。

    見てもらえている。

    それだけで、今日は十分かもしれないと思った。

    「蒼介さん」

    未那が声をかけた。

    「うん?」

    「この言葉って、全部旅人の方が書いたんですか?」

    「そう」

    「蒼介さんが選んだんですよね」

    「うん」

    未那は白い壁を見た。

    「選ぶの、難しくないですか」

    「難しい」

    「どうやって選ぶんですか?」

    「写真の横に置いた時に、呼吸する感じがするもの」

    そう言ってから、自分でも変なことを言ったと思った。

    でも未那は笑わなかった。

    「呼吸する感じ」

    「うん。写真だけでも、言葉だけでもなくなる感じ」

    未那は黙ってから頷いた。

    「分かる気がします」

    「ほんまに?」

    「たぶん」

    「たぶんか」

    「はい」

    未那は笑った。

    その笑い方は、昨日よりやわらかかった。

    「昨日も思ったんですけど」

    未那が言った。

    「うん」

    「ここの写真と言葉って、急に元気にさせようとしてこないですね」

    僕は白い壁を見た。

    「そう見える?」

    「はい」

    未那はグラスを両手で包んだまま、少し黙った。

    「元気になろう、とか、前を向こう、とか。そういう言葉がしんどい時があって」

    「うん」

    「でも、ここにある言葉は、隣に置いてくれる感じがします」

    「隣に?」

    「はい。無理に立たせようとしないで、座っててもいいって言ってくれる感じです」

    未那は壁を見た。

    「だから、見ていられます」

    その言葉は静かだった。

    店の音の中で、すぐに消えてしまいそうな声だった。

    でも、僕の中には残った。

    「よかった」

    僕はそう答えた。

    それ以上、うまい言葉は出てこなかった。

    明香里が横から言った。

    「未那、そういうの好きやもんな」

    「そういうのって?」

    「優しいけど、押しつけてこないやつ」

    未那は黙った。

    「好きかもしれへん」

    「ほら」

    明香里は得意そうに笑った。

    「私、未那のこと分かってるんで」

    「分かってるアピールやめて」

    「分かってるから仕方ない」

    未那は呆れたように笑った。

    そのあと、明香里は急に真面目な顔になった。

    「でも、ほんまに無理してへん?」

    未那の表情が、一瞬だけ止まった。

    すぐに笑った。

    「してへんよ」

    「ほんまに?」

    「ほんま」

    「仕事もして、宿も手伝って、島も見たいって、全部やろうとしてへん?」

    「してへん」

    未那はグラスを持ち上げた。

    「ちゃんと少しずつしてます」

    「それが怪しいんよな」

    明香里はそう言った。

    冗談のような声だった。でも、目だけは心配そうだった。

    僕はそのやり取りを、聞きすぎないようにした。

    そこには、明香里にしか入れない距離があった。

    「蒼介さん」

    明香里がこちらを見た。

    「未那、明日ちょっと外に連れ出してもいいですか?」

    「おれに聞くこと?」

    「だって、ここで仕事してるし」

    「健太に聞いて」

    「健太さん、未那、明日ちょっと外に連れ出してもいいですか?」

    明香里はすぐに健太に向き直った。

    健太はグラスを拭きながら笑った。

    「もちろんです。無理ない範囲で」

    「ほら」

    明香里が未那を見た。

    「無理ない範囲で、やで」

    未那が言った。

    「蒼介さん、甘いです」

    「甘い?」

    「未那はそう言われると、ほんまに仕事するんです」

    「仕事するのは悪いことじゃないやん」

    「悪くないです。でもこの人、休むのが下手なんです」

    未那が眉を寄せた。

    「明香里」

    「はいはい、言いすぎました」

    明香里はすぐに笑った。

    「でも、明日はどっか行こな」

    「行けたらね」

    「出た」

    「出ました」

    未那は笑った。

    その笑い方は、やわらかかった。

    明香里は未那のことをよく知っている。

    その近さは、少しうるさくもあるのかもしれない。でも、ふたりにはふたりの距離がある。

    僕はそう思った。


    閉店後、健太がグラスを片づけながら言った。

    「初日、お疲れさまでした」

    「お疲れ」

    「よかったですね」

    「うん」

    「明日も人来ますよ。連休ですし」

    「来てくれたらいいけど」

    「来ます」

    健太はそう言った。

    根拠のある顔ではなかった。でも、その適当さに救われた。

    明香里と未那は、階段の方へ向かった。

    「おやすみなさい」

    未那が振り返って言った。

    「おやすみ」

    「明日も展示、楽しみにしてます」

    「うん」

    「でも、緊張しすぎないでくださいね」

    そう言って、未那は笑った。

    僕は何か言おうとして、結局、

    「ありがとう」

    とだけ返した。

    ふたりが階段を上がっていくと、一階は急に静かになった。

    白い壁には、写真と言葉が残っている。

    昼と夜。

    カフェとバー。

    知らない人の視線。

    未那の言葉。

    明香里の笑い声。

    それらが、少しずつ白い壁に染み込んでいるように見えた。

    写真展の初日は、そうして終わった。

    それでも白い壁の前には、今日一日分の視線と沈黙が、まだ残っているようだった。



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    ※この物語はフィクションです。


     
     
    小さい頃、物語を読むのが好きでした 今回、初めて小説を書きました

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