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少しだけ光る 第10章 守りたかったもの

    未那からの返事は、それきり来なかった。

    分かった

    僕が送ったメッセージに既読がついたあと、画面は静かになった。

    翌朝になっても、昼になっても、未那からの連絡はなかった。

    当たり前だと思った。

    「海の底に沈めておいてください」

    そう言った人が、その翌日に何事もなかったように連絡してくる方が不自然だった。

    それでも僕は、何度かスマホを見た。

    通知が来たわけではない。

    画面をつけても、何も変わっていない。

    ただ、そこに何も届いていないことを確認しているだけだった。

    未那は、その日の夕方のフェリーで島を出ると言っていた。

    見送りに行くこともできた。

    港まで歩いていき、何もなかったような顔で、「気をつけて」と言うこともできた。

    でも、行かなかった。

    行けば、きっと何かを言ってしまうと思った。

    謝りたいようなこと。

    引き止めたいようなこと。

    忘れないでほしいようなこと。

    そのどれも、未那のためだけの言葉ではなかった。

    未那を楽にするための言葉ではなく、僕自身が少しでも許されたいがための言葉になってしまう気がした。

    だから、行かなかった。

    夕方、母屋の窓から港の方角を見た。

    海は見えない。

    フェリーも見えない。

    ただ、空の色だけが少しずつ変わっていくのを見ていた。

    今ごろ、未那は港にいるのかもしれない。

    チケットを買っているのかもしれない。

    船に乗って、凪瀬島の方を一度だけ振り返っているのかもしれない。

    そう想像した。

    けれど、その想像の中の未那も、本当の未那ではない。

    僕が見たいように作った未那だった。

    そのことに気づいて、目を伏せた。

    夜になると、母屋の中はいつもより静かだった。

    静かなのは、未那が来る前から同じだったはずだ。

    けれど、一度そこに誰かの気配が入ってしまうと、同じ静けさには戻らない。

    台所で湯を沸かす音。

    戸を閉める音。

    冷蔵庫が小さく鳴る音。

    どれも前からあった音なのに、その夜はひとつずつが部屋の中に残った。

    僕は何度か、庭の方を見た。

    離れの窓は暗かった。

    暗いだけだった。

    それなのに、その暗さの中に、まだ未那がいた時の灯りを探してしまった。

    離れは、空のままだった。

    鍵を開け、戸を少しだけ開けた。

    中に入ると、木の床が鳴った。

    布団は畳んだまま、壁際に置いてある。机の上には何もない。窓際のカーテンが風でわずかに揺れていた。

    未那がいた痕跡は、ほとんど残っていなかった。

    それなのに、そこに立つと、まだ未那の気配があるように感じた。

    パソコンを開いていた背中。

    湯呑みを置く音。

    窓越しにこちらを見て、軽く頭を下げる仕草。

    それらは、部屋にはもうない。

    僕の中に残っているだけだった。

    机の前に座ってみた。

    未那が座っていた場所から、庭を見る。

    母屋の壁。

    伸びた草。

    石の置かれた小さな庭。

    その向こうに、台所の窓がある。

    近い、と思った。

    思っていたより、ずっと近い。

    僕はこの部屋を、静かな逃げ場のように考えようとしていた。

    でも実際には、母屋の灯りも、僕の気配も、すぐそこにあった。

    その近さを、ちゃんと考えないまま鍵を渡した。

    困っているなら使えばいい。

    一週間だけなら大丈夫。

    そう言いながら、その灯りが母屋の隣につくことを、どこかで嬉しいと思っていた。

    未那を守りたかった。

    それは嘘ではない。

    離れに灯りがついている夜、未那が少しでも休めたらいいと思った。

    仕事を閉じられない未那に、静かな場所があればいいと思った。

    雨の音を怖がる未那に、温かいお茶を出したいと思った。

    酔って帰ってきた未那に、水を飲ませたいと思った。

    それは本当だった。

    でも、それだけではなかった。

    未那が僕を頼ること。

    未那が母屋に来ること。

    未那が言葉を探しながら、自分の弱さのようなものを少しだけ見せること。

    そのどれかを、僕は嬉しいと思っていた。

    嬉しいと思ってしまった。

    僕は未那を守りたいと思っていた。

    でも同時に、未那に必要とされたかった。

    誰かを好きになる時、そこに自分の欲しさが混ざることはある。

    でも、混ざっていることに気づかないまま近づくのは危うい。

    僕は、その危うさに気づくのが遅かった。

    雨の夜。

    酔って帰ってきた夜。

    未那は何度も、怖いと言っていた。

    優しくされること。

    返せる自信がないこと。

    名前をつけること。

    自分が分からなくなりそうになること。

    海の底に沈めておいてください。

    僕は、その言葉を聞いていた。

    聞いていたのに、自分にとって都合のいいところだけを受け取っていた。

    嫌だったわけじゃない。

    覚えています。

    少し、ほっとしました。

    手を引かなかったこと。

    握り返されたこと。

    離れようとしなかったこと。

    そのひとつひとつを、答えのように扱おうとしていた。

    本当は答えではないと分かっていたのに。

    未那はいつも、はっきりした場所に立てずにいた。

    立てないまま、それでも誰かに寄りかかりたい夜があった。

    その揺れを、僕は愛情として受け取りたかった。

    僕を選んでくれた証拠として、受け取りたかった。

    だから、止まらなかった。

    止まろうと思えば、止まれた。

    その事実は、あの夜からずっと僕の中に残っていた。

    止められなかった、ではない。

    止めなかった。

    その言葉を思い出すたびに、胸の奥が冷たくなった。

    けれど、その冷たさから目を逸らすわけにはいかなかった。

    僕の優しさは、未那のためだけではなかった。

    だからといって、全部が嘘だったわけでもない。

    それが一番、厄介だった。

    全部が嘘だったなら、楽だった。

    自分はただずるかった。

    未那の弱さにつけ込んだ。

    そう決めてしまえば、苦しみ方は単純になる。

    逆に、全部が本当の優しさだったと思えたら、それも楽だった。

    僕は未那を大事にしたかっただけだ。

    未那も嫌ではなかった。

    だから、あの夜は仕方なかった。

    そう言えたら、自分を守れる。

    でも、どちらも違った。

    嘘もあった。

    本当もあった。

    優しさもあった。

    欲しさもあった。

    守りたい気持ちも、必要とされたい気持ちも、同じ場所に混ざっていた。

    それを分けることはできなかった。

    ただ、そのことから、もう目を逸らせなかった。

    未那から連絡が来ない日が続いた。

    僕からも送らなかった。

    写真はどれがよかった?

    体調大丈夫?

    京都には戻れた?

    そういう言葉は何度も浮かんだ。

    でも、送らなかった。

    送れば、また何かを求めてしまう気がした。

    未那の返事を。

    未那の安心を。

    未那の中に、まだ自分がいるという確認を。

    それはもう、未那のための連絡ではない。

    僕が自分を落ち着かせるための連絡だった。

    だから、送らなかった。

    送らないことで、何かを守っているような気もした。

    でも本当は、送った後に何も返ってこないことが怖かっただけかもしれない。

    その区別さえ、うまくつかなかった。

    代わりに、僕は白い壁の前に立つ時間が増えた。

    健太のゲストハウスの一階。

    昼はカフェの光が入り、夜はバーの灯りで写真の影が落ちる。

    写真展として言葉を集める期間は終わっていた。

    でも、白い壁にはまだ写真と言葉が残っている。

    健太が残しておきましょうと言ってくれたからだ。

    白い壁の前には、相変わらず旅人が立ち止まった。

    大きな反応はない。

    ただ、写真を見る。

    言葉を読む。

    少し黙る。

    それだけだった。

    でも、その「それだけ」を見ることが、前よりも重く感じられた。

    ある午後、カフェに来ていた若い男性が、ひとつの言葉の前で立ち止まっていた。

    帰る場所は、ひとつじゃなくてもいいと思いたい

    その言葉は、展示の最初の方にはなかった。

    旅人があとから残してくれた言葉だった。

    男性はしばらくそれを見て、スマホで写真を撮った。

    そのあと、コーヒーを飲みながらずっと窓の外を見ていた。

    僕は何も聞かなかった。

    聞かなくてもいいと思った。

    けれど、未那には聞きたくなっていた。

    何を考えているのか。

    どう感じているのか。

    自分のことをどう思っているのか。

    その違いが、自分でも苦しかった。

    白い壁は、誰かの心を無理に開こうとはしない。

    ただ、そこにある。

    見たい人が見ればいい。

    立ち止まりたい人が立ち止まればいい。

    そこに何かを置いていく人もいれば、何も置かずに通り過ぎる人もいる。

    それでよかった。

    そのはずだった。

    それなのに僕は、未那に対しては、立ち止まる場所を差し出すだけではいられなかった。

    もっと知りたかった。

    もっと近くにいたかった。

    もっと、自分の方を向いてほしかった。

    それを優しさの名前で隠そうとしていた。

    夕方、由美子さんがカウンターの奥から出てきた。

    「蒼介くん」

    「はい」

    「これ、あんたのやろ」

    そう言って、白い壁の一枚を指さした。

    そこには、最近僕が足した言葉があった。

    守りたかったものが、相手だけじゃなかったことに気づいた

    僕は答えられなかった。

    由美子さんは、いつものように深く聞こうとはしなかった。

    「人に向けてるようで、自分に向けてる感じがする」

    「そう見えますか」

    「見えるね」

    由美子さんはそう言って、少し笑った。

    「でも、ええんちゃう」

    「いいんですかね」

    「知らんよ、そんなの」

    「知らんのですか」

    「知らん。でも、自分に向けて書いた言葉って、案外、誰かにも届くことあるやん」

    由美子さんは、それだけ言って厨房へ戻っていった。

    僕は白い壁の前に立った。

    守りたかったものが、相手だけじゃなかったことに気づいた

    自分で置いた言葉なのに、他人の言葉のように見えた。

    でも、確かに僕の中から出てきたものだった。

    誰かのためにしていると思っていたことが、実は自分のためでもあった。

    それを認めるのは、思っていたより怖かった。

    でも、認めないままでは、また同じことをしてしまう気がした。


    その日の夜、僕は家に帰ってから、写真の整理をした。

    未那の写真は開かなかった。

    代わりに、展示用のフォルダを見直した。

    まだ出していない凪瀬島の写真がいくつかあった。

    春の雨上がり。

    夏の浜。

    秋の夕焼け。

    そして、冬の星。

    その写真の前で、手が止まった。

    凪瀬島に来て最初の冬に撮ったものだった。

    誰もいない堤防で、三脚を立てて撮った星の写真。

    海はほとんど写っていない。

    空の広さだけがある。

    星は小さく、頼りない。

    でも、確かにそこにあった。

    未那が言っていた。

    星を見ると、ちゃんと小さくなれる感じがします。

    自分の悩みとか、仕事とか、ちゃんとしなきゃとか、そういうのが、小さくなる感じです。

    消えるわけではないですけど。

    小さくなってくれるだけで、ちょっと助かります。

    その声を思い出した。

    僕はその星の写真を、次に白い壁へ足すことにした。

    言葉をどうするか、しばらく考えた。

    未那の言葉をそのまま使うことはできなかった。

    それは、未那のものだった。

    僕が勝手に展示に置いていいものではない。

    でも、その夜に受け取ったものは、僕の中にも残っていた。

    星の下では、自分の痛みや欲しさや後悔も、少しだけ小さくなる。

    消えるわけではない。

    でも、小さくなってくれる。

    そのくらいで、人は次の日を生きられることがある。

    そう思った。

    僕は短い言葉を書いた。

    小さくなれた夜のことを、まだ覚えている

    印刷して、翌日、白い壁に加えた。

    冬の星の写真の下に、その言葉を置く。

    写真と言葉のあいだに、指一本分の隙間を作った。

    白い壁の前で、僕はしばらくその写真を見ていた。

    冬の星。

    小さくなれた夜。

    守りたかったもの。

    海の底。

    それらは、まだ全部つながっていた。

    つながっていることを、もう否定できなかった。



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    ※この物語はフィクションです。

     
     
    小さい頃、物語を読むのが好きでした 今回、初めて小説を書きました

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