
少しだけ光る 第11章 もう一度、星を見る
年末の凪瀬島は、秋の頃よりずっと静かだった。
港に降りる人の数も減り、カフェに入ってくる旅行者の声も少し低くなる。
夕焼けの浜には人がいる。
けれど、夏や秋のように賑やかではない。
風が冷たくなった分だけ、空は澄んで見えた。
白い壁の写真と言葉は、まだ健太のゲストハウスに残っている。
写真展という名前は、もう少し前に終わっていた。
それでも、壁はそのままだった。
健太が、「もう、この壁はこのままでいい気がします」と言ったからだ。
新しく言葉を足すことは減った。
でも、ときどき、どうしても置いておきたいと思う言葉が生まれることがあった。
守りたかったものが、相手だけじゃなかったことに気づいた
小さくなれた夜のことを、まだ覚えている
その二つは、僕があとから足した言葉だった。
自分で書いたのに、壁に置いてしまうと、誰か知らない人の言葉のようにも見えた。
旅人が立ち止まり、読んで、また歩いていく。
そのたびに、言葉は僕のものから少しずつ離れていった。
それでよかった。
自分の中だけに置いておくには、重すぎるものがある。
かといって、誰かに説明できるほど整ったものでもない。
そういうものを、白い壁は少しだけ引き受けてくれているように思えた。
未那からの連絡は、あれからなかった。
僕からも送らなかった。
海の底に沈めておいてください。
その言葉を、何度も思い出した。
沈めるというのは、忘れることとは違う。
見えない場所に置くことだ。
触れないこと。
誰かに話さないこと。
光の当たる場所へ持ち出さないこと。
僕はそう理解しようとしていた。
理解しようとしていたけれど、完全にはできなかった。
ふとした時に、未那の言葉が戻ってくる。
星を見ると、ちゃんと小さくなれる感じがします。
帰りたくなくなる感じですね。
明るすぎないものが、好きなんです。
そういう声は、海の底に沈めたはずなのに、時々水面近くまで上がってきた。
僕はそれを見ないふりをした。
見ないふりをしながら、白い壁の前に立った。
年末のある夜、健太から連絡が来た。
今日、急に人手足りなくなってしまって
夜だけ入れませんか
予定はなかった。
家にいても、特にすることはない。
僕はすぐに返した。
今から向かうわ
ゲストハウスに着くと、一階のバーは思ったより混んでいた。
年末の休みに入った人たちが、島に来ているらしい。
カウンターには何組かの旅行者が座り、テーブル席では小さなグループが地図を広げていた。
白い壁の前にも、人が立っている。
冬の星の写真の下で、若い男性がひとり、言葉を読んでいた。
小さくなれた夜のことを、まだ覚えている
その言葉を見て、彼はしばらく動かなかった。
僕はカウンターの中に入り、健太と交代で注文を取った。
「助かります」
健太が小さく言った。
「年末やな」
「ですね。油断してました」
「油断しがちやもんな」
「否定できないです」
そんな会話をしながら、グラスを出し、皿を下げた。
店内は賑やかだった。
けれど、その賑やかさの奥に、冬の夜の静けさがある。
外の風が窓に当たるたび、店の中の温かさが少しだけ浮かび上がる。
未那が入ってきたのは、二十時を過ぎた頃だった。
最初、僕は気づかなかった。
入口のベルが鳴り、健太が「いらっしゃいませ」と言った。
数人の客が入ってきたのだと思った。
「予約している未那です」
その声を聞いて、手が止まった。
振り返ると、未那が入口に立っていた。
黒いコートに、淡い色のマフラー。
隣には、未那より少し若い女性がいた。
大学の後輩だと、あとで知った。
未那は僕に気づいた。
一瞬だけ、目が合った。
驚いたようにも見えた。
でもすぐに、いつものように小さく頭を下げた。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕もそう返した。
声が思ったより普通に出た。
それが少し怖かった。
健太がすぐに笑顔になった。
「未那さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「戻ってきてくれたんですね」
「はい。少しだけ」
少しだけ。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
未那は後輩を紹介した。
「大学の後輩で、紗季です」
「はじめまして」
紗季さんは丁寧に頭を下げた。
未那よりも明るく、緊張した表情だった。
健太が席へ案内した。
ふたりは白い壁に近いテーブル席に座った。
未那はコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
その動作を、見すぎないようにした。
それでも、見てしまった。
秋の頃より、髪が伸びている気がした。
顔つきは変わっていないようで、どこか違って見えた。
時間が経っている。
当たり前のことなのに、そのことが不思議だった。
未那はもう、この島に一ヶ月いた未那ではない。
離れに泊まっていた未那でもない。
今ここにいる、年末の未那だった。
そのことを、忘れない方がいいと思った。
注文を取りに行ったのは健太だった。
僕はカウンターの中で、別の客のグラスを洗っていた。
耳だけが、未那の声を拾ってしまう。
「日本酒、ありますか?」
「ありますよ」
「じゃあ、それを」
健太が笑った。
「冷たいのでいいですか」
「はい」
「水も一緒に出しておきますね」
未那は少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声が、照れているように聞こえた。
僕はグラスを拭きながら、手元だけを見た。
しばらくして、未那が席を立った。
白い壁の前に立つ。
紗季さんも隣に立った。
ふたりは写真と言葉を順番に見ていった。
未那は、冬の星の写真の前で止まった。
小さくなれた夜のことを、まだ覚えている
その言葉を読んでいる横顔を、僕はカウンター越しに見ていた。
未那は長いあいだ、その前に立っていた。
紗季さんが何かを言った。
未那は小さく頷いた。
そして、少しだけ笑った。
その笑い方は、懐かしいのに、遠かった。
手を伸ばせば届きそうな距離にいる。
でも、届かない方がいい距離だった。
僕はそう思った。
店が落ち着いた頃、未那がカウンターに来た。
「お忙しそうですね」
「年末やからな」
「そうですね」
短い会話だった。
互いに、何を言っていいか分からないまま、普通の言葉を選んでいるようだった。
「京都から?」
僕が聞くと、未那は頷いた。
「はい。年末休みで」
「後輩と?」
「はい。前に凪瀬島の話をしたら、行きたいって言ってくれて」
「そっか」
未那は少し笑った。
「蒼介さんは、お元気でしたか」
「見ての通り」
「よかったです」
その言葉のあと、沈黙が落ちた。
元気だったか。
その質問に、どう答えればよかったのか分からなかった。
未那もたぶん、深く聞くつもりではなかったのだと思う。
ただ、久しぶりに会った人に向ける、普通の言葉。
その普通さが、ありがたくて、痛かった。
「写真、増えてますね」
未那が白い壁を見た。
「うん。何枚かだけ」
「冬の星の写真」
「うん」
「見ました」
「ありがとう」
未那は何か言いかけた。
けれど、言わなかった。
その代わりに、カウンターの上のグラスへ視線を落とした。
「この壁、まだ残っていてよかったです」
「健太が、そのままでいいって」
「健太さんらしいですね」
「ありがたいわ」
未那は頷いた。
「残っているものがあると、少し安心します」
その言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。
僕はただ、
「うん」
とだけ言った。
未那は席へ戻っていった。
その背中を見ながら、僕は息を吐いた。
何も話していない。
大事なことは、何ひとつ話していない。
それなのに、胸の中はひどく動いていた。
バーは二十三時前に落ち着いた。
紗季さんは明日早いらしく、先に部屋へ上がった。
未那はカウンターの端に残っていた。
頼んだ日本酒のグラスには、まだ酒が残っている。
「今日は、本当に少しだけですね」
僕が言うと、未那はグラスを見た。
「はい」
「偉いやん」
「偉いんですか」
「たぶん」
未那は笑った。
「蒼介さんの、たぶん」
「便利やから」
「ですね」
そんな会話をしながらも、二人のあいだには別の言葉があった。
海の底。
沈めたはずのもの。
白い壁の前で読んだ冬の星の言葉。
でも、どちらからもその話はしなかった。
健太が奥で片づけをしていた。
店の客はあと一組だけになっていた。
未那はグラスを置いた。
「星、出てますかね」
その言葉を聞いて、僕は一瞬息を止めた。
「たぶん」
「見たいです」
未那はこちらを見た。
「少しだけ、どうですか?」
少しだけ。
その言葉は、何度も聞いてきた。
日本酒を飲む時。
母屋に来る時。
星を見る時。
そのたびに、僕はそれを軽い言葉のように受け取っていた。
でも今は、簡単には頷けなかった。
「外、寒いで」
僕が言うと、未那は頷いた。
「分かってます」
「明日、早いんちゃうの?」
「紗季は早いけど、私は大丈夫です」
「そうか…」
「じゃあ健太に言ってくるわ」
「はい」
健太に声をかけると、彼は僕と未那を交互に見た。
何かを察したのかもしれない。
でも、何も言わなかった。
「片づけは僕がやっておきます」
「ごめん」
「いえ」
健太はいつもの調子で笑った。
「寒いので、気をつけてください」
僕たちは店を出た。
外の空気は冷たかった。
昼間より風がある。
港の方から、海の匂いがした。
未那はマフラーを巻き直した。
「寒いですね」
「言ったやん」
「言われました」
「戻る?」
「大丈夫です」
未那はそう言って、歩き出した。
僕たちは港の方ではなく堤防へ向かった。
前に一緒に星を見た庭とは違う場所だった。
道の途中、会話は少なかった。
靴音だけが、冷たい道に落ちる。
家の灯りがまばらに見えた。
風が吹くたびに、未那の髪がマフラーから少しこぼれた。
僕は何か話そうとして、やめた。
何を話しても、遠回りになりそうだった。
堤防に着くと、空には星が出ていた。
秋の星とは違って、冬の星は光が硬く見える。
数は多くない。
でも、空気が澄んでいる分だけ、一つひとつがはっきりしていた。
未那はしばらく空を見上げていた。
「出てますね」
「うん」
「よかったです」
そう言って、未那は堤防の端に立った。
海は暗かった。
波の音だけが聞こえる。
遠くに、港の灯りが見えた。
「寒くない?」
「がんばります」
「戻る?」
「まだ、大丈夫です」
未那は空を見たまま言った。
しばらく沈黙が続いた。
その沈黙は、気まずいというより、何かを待っているようだった。
先に口を開いたのは、未那だった。
「海の底に沈めておいてください、って言ったこと」
僕は未那を見た。
未那は空を見上げたままだった。
「覚えてます」
「うん」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
言ってから、またその言葉を使ったことに気づいた。
未那も、気づいたのかもしれない。
小さく笑った。
「蒼介さん、ずっとそれ言いますね」
「癖やな」
「はい」
未那は少し黙った。
「でも、あの時は、それしか言えなかったんです」
「うん」
「沈めたら、消えると思ったわけじゃないです」
僕は黙って頷いた。
「でも、見える場所には置けなかった」
未那は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり言った。
「名前をつけることもできなかった」
「うん」
「でも、私も持ってました」
僕は何も言えなかった。
「沈めたつもりでした」
未那は続けた。
「でも、たぶん、沈めたものって、消えるわけじゃないんですね」
海の音がした。
冷たい風が、堤防の上を通っていく。
「そうやね」
僕はようやく言った。
「消えない」
未那は頷いた。
「今日、壁の星の写真を見て」
「うん」
「小さくなれた夜のことを、まだ覚えている」
未那はその言葉を、ゆっくり口にした。
「私のことですか?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
嘘をつくこともできた。
違うよ、と言えば、楽だったかもしれない。
でも、それも違った。
「未那さんの言葉から来てる」
僕は言った。
「でも、未那さんだけのことではないと思う」
未那は僕を見た。
「私だけじゃない」
「うん」
「星を見て、小さくなれるって言ったのは未那さんやけど」
僕は空を見た。
「その言葉は、たぶん、おれの中にも残った」
未那は黙って聞いていた。
「未那さんだけのものにしたら、ちょっと違う気がした」
言い終えると、未那は小さく息を吐いた。
「よかったです」
「よかった?」
「私だけのものにされたら、少し怖かったかもしれません」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
でも、それは必要な痛みだった。
僕は頷いた。
「うん」
未那はまた空を見上げた。
「でも、嬉しかったです」
「そっか」
「私の言葉が、蒼介さんの中で別の形になって残っていたこと」
僕は何も言えなかった。
嬉しいと言われたことが嬉しかった。
でも、それをそのまま受け取っていいのか分からなかった。
星の光は小さかった。
けれど、見ようとすれば確かに見えた。
「今回も」
未那が言った。
「誰にも言えないですね」
その声は、笑っているようでも、泣いているようでもなかった。
「うん」
「海の底、ですか」
「そうかもしれない」
未那は小さく頷いた。
「私」
未那が言った。
「沈められてなかったです」
「うん」
「この島のことも」
未那は星を見上げた。
「ここで話したことも」
それから少し遅れて、こちらを見た。
「蒼介さんといた時間も」
その言葉は、小さかった。
でも、はっきり聞こえた。
その言葉を、答えにしてはいけないと思った。
好きだという返事にしてはいけない。
選ばれた証拠にしてはいけない。
そう思ったのに、その言葉は胸の奥にまっすぐ入ってきた。
僕たちは、しばらく星を見ていた。
遠くで波の音がした。
風が、コートの裾を揺らした。
やがて未那が、少しだけこちらを向いた。
その距離の近さに気づいた時、もう戻る言葉を失っていた。
離れの灯り。
雨の音。
名前のない朝。
海の底。
白い壁の言葉。
そして、今ここにある冬の星。
それらが、一度に戻ってきた。
僕は未那に触れた。
未那は拒まなかった。
それを、答えにしてはいけない。
そう思った。
思ったのに、触れた。
未那の手は冷たかった。
手袋をしていなかった。
僕はその手を、ゆっくり握った。
未那は目を伏せた。
何かを言いかけて、やめた。
僕も、何も言えなかった。
よくない。
その言葉だけが、声にならないまま、二人のあいだにあった。
僕は、そこで本当に戻るべきだった。
手を離すべきだった。
ゲストハウスまで送るべきだった。
今度こそ。
二度目だからこそ。
でも、手を離さなかった。
未那も離さなかった。
堤防の冷たい風の中で、僕たちは短くキスをした。
それは、始まりのようなものではなかった。
何かが報われるようなものでもなかった。
恋が戻ってきた、という明るさもなかった。
むしろ、戻ってはいけない場所へ、もう一度足を踏み入れた感覚に近かった。
未那の手はまだ冷たかった。
僕はその手を離せなかった。
離せなかった、と思いたかった。
でも本当は、離さなかった。
その違いを、今度は分かっていた。
ゲストハウスへ戻る道では、ほとんど話さなかった。
港の灯りが近づくにつれて、さっきの星の下での時間が少しずつ遠くなっていった。
でも、消えはしなかった。
ゲストハウスの前に着くと、未那は足を止めた。
入口の灯りが、彼女の横顔を照らしていた。
「すみません」
未那が言った。
「謝らなくていいよ」
僕は反射的に言った。
それから、すぐに続けた。
「でも、謝りたくなることやったんやと思う」
未那はこちらを見た。
「おれも、同じ」
僕は言った。
「謝りたいけど、謝れば済むことでもない」
未那はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「はい」
扉の向こうから、かすかに人の声が聞こえた。
中には健太がいて、紗季さんがいて、他の宿泊客がいる。
そこへ戻れば、普通の夜になる。
何もなかったように、階段を上がることもできる。
でも、何もなかったわけではなかった。
「今回も」
未那が言った。
「うん」
「細かいところは、言わないでおきます」
その言い方は、海の底に沈めておいてください、とは少し違っていた。
けれど、同じ場所につながっているようにも聞こえた。
「分かった」
僕は言った。
「ありがとうございます」
未那はそう言って、扉を開けた。
中の灯りが、外へ漏れた。
未那は一度だけこちらを見た。
何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。
そして、ゲストハウスの中へ入っていった。
扉が閉まる。
僕はしばらく外に立っていた。
冬の風が冷たかった。
一度目の秘密は、突然落ちてきたものだった。
名前をつけられないまま、未那の言葉で秘密になった。
でも、二度目は違った。
僕も、分かっていた。
未那も、たぶん分かっていた。
それでも、そこへ戻った。
それでも触れた。
それでも、もう一度あの時間を選んだ。
だから二度目の秘密は、一度目よりも深いところへ沈んでいった。
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※この物語はフィクションです。