
少しだけ光る 第12章 少しだけ光る
未那が年末の凪瀬島を離れたあと、島には新しい年が来た。
年が明けても、凪瀬島が急に変わるわけではない。
港にはフェリーが着く。
観光客は地図を広げる。
夕方になると、人は浜へ向かう。
夜になれば、海の向こうに町の灯りが小さく見える。
白い壁の写真と言葉も、まだ健太のゲストハウスに残っていた。
年末の夜のことについて、未那から何か言ってくることはなかった。
僕からも、何も言わなかった。
言わないでおくこと。
それが、二人のあいだで決まった唯一の約束みたいになっていた。
でも、本当は約束ですらなかった。
ただ、言えないものがあるだけだった。
海の底に沈めたはずの秘密は、前よりも深いところにあった。
深く沈めれば、見えなくなる。
でも、なくなるわけではない。
そのことを、僕はもう知っていた。
それは、二度目の方が強かったからではない。
二度目の方が、分かっていたからだ。
分かっていて、近づいた。
分かっていて、触れた。
その事実は、簡単には小さくならなかった。
僕はときどき、あの夜の星を思い出した。
冬の堤防。
冷たい手。
未那の声。
沈めたつもりでした。
でも、たぶん、沈めたものって、消えるわけじゃないんですね。
その言葉を思い出すたびに、僕は海の底を想像した。
暗くて、静かで、誰の手も届かない場所。
そこに置いてあるもの。
忘れられたものではなく、忘れないために隠されたもの。
そんな場所が、本当にあるのかは分からない。
でも、僕たちには、たぶん必要だった。
春が近づく頃、白い壁の写真を少し入れ替えることになった。
健太が「季節も変わりますし、少しだけ変えませんか」と言った。
少しだけ。
その言葉を聞くたびに、僕はまだ反応してしまう。
けれど、それを顔には出さなかった。
「そうやな」
僕はそう答えた。
古い写真を外し、新しい写真を足していく。
冬の星の写真は残した。
小さくなれた夜のことを、まだ覚えている
その言葉も、そのままにした。
外すことも考えた。
けれど、外せなかった。
そこに未那の言葉が混ざっていることを、知っているのは僕だけだった。
いや、未那も知っている。
それだけで十分だった。
新しく足した写真は、春の浜の写真だった。
まだ人の少ない砂浜。
潮が引いたあとに残る、小さな水たまり。
その水面に、夕方の空が薄く映っている。
派手な写真ではなかった。
通り過ぎてしまえば、何も残らないような光だった。
でも、そういう光にしか残せないものがある気がした。
写真の下に置く言葉を、しばらく考えた。
春らしい言葉にすることもできた。
前向きな言葉にすることもできた。
でも、どちらも違う気がした。
僕は短く書いた。
うまく持てなかったものも、少しだけ光ることがある
印刷した紙を、写真の下に貼る。
指で端を押さえる。
少し離れて見た。
言い切りすぎているだろうかと思った。
けれど、その言葉は、今の僕には必要だった。
うまく持てなかったもの。
大事にしたかったのに、うまく大事にできなかったもの。
守りたかったのに、自分の欲しさを混ぜてしまったもの。
名前をつけられなかったもの。
海の底に沈めるしかなかったもの。
それらは、きれいなものではない。
でも、汚いだけのものでもなかった。
だから、どう扱えばいいのか分からなかった。
分からないまま、僕はここまで来た。
白い壁の前に立っていると、由美子さんが後ろから声をかけた。
「また難しいこと書いてるね」
振り返ると、由美子さんが腕を組んで壁を見ていた。
「難しいですか」
「難しいというか、正直やね」
「そうですか」
「うん。きれいごとだけじゃない感じがする」
僕は壁を見た。
「きれいごとにできなかったんです」
「それでええんちゃう」
由美子さんはそう言って、あっさり笑った。
「きれいごとにできんものほど、あとで残るやろ」
僕は何も言えなかった。
由美子さんはそれ以上聞かず、厨房へ戻っていった。
白い壁には、春の浜の写真があった。
その下に、僕の言葉がある。
うまく持てなかったものも、少しだけ光ることがある
それは、誰かに向けた言葉のようで、自分に向けた言葉でもあった。
四月になると、凪瀬島にはまた人が戻ってきた。
港で見かける旅行者の服が軽くなり、夕方の浜には、カメラを持った人が何人も立つようになった。
ゲストハウスの白い壁の前にも、前より長く立ち止まる人が増えた。
ある日の午後、一人旅の女性が、春の浜の写真の前で足を止めた。
うまく持てなかったものも、少しだけ光ることがある
彼女はその言葉を何度か読んでいた。
そして、近くに置いていた小さなカードに何かを書いた。
帰ったあと、健太がそのカードを持ってきた。
「これ、壁に足してもいいですかね」
そこには、短い言葉が書かれていた。
ちゃんと忘れなくても、生きていける気がしました
僕はしばらく、その言葉を見ていた。
ちゃんと忘れなくても。
それは、僕がずっとできずにいたことだった。
忘れようとしていたわけではない。
でも、忘れられないことに、どこかで後ろめたさがあった。
未那のことを思い出すたびに、まだそこにいるのかと、自分を責める気持ちがあった。
忘れることが、正しい距離の取り方だと思っていたのかもしれない。
でも、そうではないのかもしれなかった。
思い出すことと、しがみつくことは違う。
覚えていることと、相手を縛ることも違う。
それを、うまく分けられる日ばかりではない。
けれど、分けようとすることはできる。
少しだけ距離を置いて、受け取ることはできる。
僕は健太に言った。
「足そう」
健太は頷いた。
「いい言葉ですよね」
「うん」
そのカードは、春の浜の写真の近くに貼られた。
ちゃんと忘れなくても、生きていける気がしました
それを書いた人が、どんな気持ちで島に来たのか、僕は知らない。
何を忘れられなかったのかも知らない。
知らないままでいいと思った。
知らないまま、その言葉がそこにあることが大事だった。
五月の夕方、撮影を終えたあと、僕はひとりで浜に残った。
いつかと同じように、潮の匂いがした。
波は静かで、空はゆっくり色を変えている。
観光客は何人かいたけど、それぞれ別の方向を見ていた。
写真を撮る人。
ただ座っている人。
誰かと電話している人。
何もしないで海を見ている人。
僕はカメラを首から下げたまま、砂浜に立っていた。
夕日は、まだ沈みきっていない。
海の上に細い光の道ができている。
その光はまっすぐに見えるのに、波で揺れて、何度も形を変えた。
未那とは、切れたわけではなかった。
けれど、続いていると言い切るほどの確かさもなかった。
ふいに、短いメッセージが届くことがある。
京都は少し暑くなってきました
この前、星がきれいでした
本当にそれだけのメッセージだった。
僕も短く返す。
京都は暑そうやな
星、きれいでよかった
そのくらいのやり取りだった。
そこに名前はなかった。
約束もなかった。
二人で何かを決めることもなかった。
でも、完全になくなったわけでもない。
その曖昧さを、前より少しだけ静かに受け取れるようになっていた。
未那は、僕の知らない場所で生きている。
僕の知らない人と会い、僕の知らない道を歩き、僕の知らない夜に星を見ている。
それでいいのだと思う。
いいと思える日ばかりではない。
けれど、そうであってほしいとは思う。
未那もどこかで、僕の知らない光を見ていたらいい。
凪瀬島の星ではなくてもいい。
どこかの街の夕焼けでも、帰り道の窓明かりでも、ふと見上げた空でもいい。
その光の前で、少しだけ息がしやすくなっていたらいい。
僕がそう願うことさえ、もしかしたら未那には重いのかもしれない。
だから、それを送ることはしない。
言葉にして届けることはしない。
ただ、浜でそう思うだけにした。
それくらいの距離でしか、持てないものがある。
それくらいの距離だから、まだ持っていられるものもある。
夕日が海に近づいていく。
空の色が、橙から薄い紫へ変わっていく。
僕は一枚だけ写真を撮った。
誰かに送るためではなかった。
展示に使うかどうかも分からない。
ただ、その光がそこにあったことを、残しておきたいと思った。
写真は、人の一部を残す。
でも、その人の全部ではない。
光も同じなのかもしれない。
写った光は、光の全部ではない。
それでも、残るものがある。
残してしまうものがある。
僕は画面を確認しなかった。
カメラを下ろして、海を見た。
その時、スマホが震えた。
未那からだった。
画面を開く。
今日、東京に来ています
夜の街の向こうに、橙色の塔が静かに光っていて、なぜか凪瀬島の星を思い出しました
それだけのメッセージだった。
写真は添えられていなかった。
未那がどこでその塔を見ているのか、誰といるのか、何を思っているのか、僕には分からない。
でも、その分からなさを、前より少しだけそのままにしておけた。
僕はしばらく画面を見ていた。
橙色の塔。
東京の夜。
凪瀬島の星。
まったく違う光が、未那の中でどこかにつながっている。
それが嬉しかった。
同時に、少し痛かった。
でも、その痛みは、以前のように僕を壊すものではなかった。
僕は短く返した。
こっちも、少しだけ光ってる
送信してから、スマホをポケットにしまった。
返事を待つためではなく、その光をもう少し見ていたかったから。
波の音が続いている。
夜はゆっくり深くなっていく。
それでも空には、少しだけ光るものがあった。
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※この作品はフィクションです。登場する人物・地名・出来事などは、実在のものとは関係ありません。