メインコンテンツへスキップ
見出し画像

少しだけ光る 第9章 海の底

    翌朝、未那は荷物を持って母屋に来た。

    小さなスーツケースとバッグがひとつ。

    玄関先に立つ未那を見た瞬間、何を言われるのか分かってしまった。

    「今日、出ます」

    未那は言った。

    声は落ち着いていた。

    けれど、少しだけ乾いて聞こえた。

    「出る?」

    分かっていたのに、聞き返した。

    「はい」

    未那はスーツケースの持ち手を握っていた。

    「別の宿を取りました。一泊だけですけど」

    「そうなんや」

    「急ですみません」

    「謝らなくていいよ」

    そう言ってから、またその言葉を使っていることに気づいた。

    謝らなくていい。

    大丈夫。

    変じゃない。

    僕はいつも、そういう言葉で未那の前に立とうとしていた。

    それが本当に未那のためだったのか、自分が揺れずに済むためだったのか、もう分からなかった。

    未那は玄関に立ったまま、目を伏せた。

    「嫌だったとか」

    未那が言った。

    「そういうことではないです」

    僕は黙って頷いた。

    「でも、ここにいると、少し分からなくなりそうで」

    「何が?」

    「自分が」

    未那は短く答えた。

    その言葉は、思っていたより深く沈んだ。

    自分が分からなくなる。

    僕といると、ではなく。

    この家にいると、でもなく。

    ここにいると。

    未那はそう言った。

    「ここにいると、安心します」

    僕は頷いた。

    「でも、安心しすぎると、私、また間違えると思います」

    「間違える?」

    未那はすぐには答えなかった。

    玄関の外では、朝の光が庭に落ちていた。

    雨のあとの草が、まだ少し濡れている。

    「何が正しいとか、間違いとか」

    未那は言った。

    「そういうふうに言いたいわけではないんです」

    僕は黙って聞いていた。

    「でも、安心すると、ちゃんと考えられなくなる時があります」

    「うん」

    「誰かに優しくされると、その場所にいていい理由ができたような気がして」

    未那はそこで言葉を止めた。

    「でも、本当にそこにいていいのか、分からなくなるんです」

    僕は何も言えなかった。

    言葉を足せば、未那を引き止める言葉になってしまいそうだった。

    大丈夫。

    ここにいていい。

    そう言うのは簡単だった。

    けれど、その言葉が未那を助けるのか、僕を助けるのか、分からなかった。

    「宿はどこなん?」

    僕は聞いた。

    「港の近くです」

    「荷物、持つよ」

    「大丈夫です」

    「坂あるから」

    未那は少し笑った。

    その笑い方が、数日前までのものと少し違って見えた。

    「今日は、自分で持ちます」

    そう言われて、僕は手を下ろした。

    「分かった」

    「ありがとうございます」

    未那は小さく頭を下げた。

    それから、少しだけ母屋の中を見た。

    台所。

    畳の部屋。

    低いテーブル。

    昨日まで、何度も出入りしていた場所。

    そこに何かを置いていくような目だった。

    「鍵」

    未那はポケットから、離れの鍵を出した。

    小さな金属の鍵が、彼女の手のひらに乗っていた。

    「置いておきます」

    「うん」

    僕はそれを受け取った。

    鍵は、思ったより冷たかった。

    「一週間って言ってたのに、すみません」

    「いいよ」

    「本当に、ありがとうございました」

    未那はもう一度、頭を下げた。

    「島には、明日までいます」

    「うん」

    「今日は、少しひとりで過ごします」

    「分かった」

    その言葉を聞いて、僕はようやく理解した。

    未那は、僕から逃げたいわけではないのかもしれない。

    でも、僕のいる場所からは離れたいのだと思った。

    それはほとんど同じことのようで、少し違う。

    違うのに、痛かった。

    「気をつけて」

    僕は言った。

    未那は頷いた。

    「はい」

    玄関の戸が開く。

    朝の光が少し強く入ってくる。

    未那はスーツケースを持ち、庭へ出た。

    砂利を踏む音がした。

    その音が、少しずつ遠ざかっていく。

    僕は玄関に立ったまま、その背中を見ていた。

    追いかけることはできなかった。

    追いかけたら、きっと何かを言ってしまう。

    未那を引き止めるようなことを。

    自分を許してもらうためのことを。

    そのどちらも、今は言ってはいけない気がした。

    未那は門の前で一度だけ振り返った。

    「また、写真見せてください」

    「うん」

    「隣の島の」

    「まとめて送るわ」

    「ありがとうございます」

    未那は小さく笑った。

    そして、坂を下りていった。

    その姿が見えなくなってからも、僕はしばらく玄関に立っていた。

    手の中には、離れの鍵が残っていた。


    離れは、すぐに空になった。

    未那が使っていた布団を畳み、机の上を拭いた。

    窓際に置いていた小さなゴミ箱は空だった。

    窓を開けると、風が入ってきた。

    カーテンが揺れる。

    数日前まで、ここには未那がいた。

    パソコンに向かい、湯呑みを置き、時々庭を見ていた。

    窓越しに目が合うと、未那は軽く頭を下げた。

    その仕草が、もう部屋には残っていなかった。

    ただの小さな離れに戻っていた。

    元に戻っただけのはずだった。

    なのに、何かが抜け落ちたように見えた。

    僕は机の前に座った。

    未那がここで見ていた庭を、同じ高さから見てみる。

    母屋の壁。

    伸びた草。

    石の置かれた小さな庭。

    その向こうに、台所の窓がある。

    未那はここから、母屋の灯りを見ていたのだろうか。

    僕の気配を、どんなふうに受け取っていたのだろうか。

    安心だったのか。

    重さだったのか。

    その両方だったのか。

    分からなかった。

    僕は、離れを安心できる場所にしたかった。

    そう思っていた。

    でも、その安心は本当に未那のものだったのだろうか。

    僕が、未那にいてほしかっただけではなかったか。

    母屋の隣に灯りがつくこと。

    朝に声が聞こえること。

    庭の向こうに未那の気配があること。

    それらに安心していたのは、僕の方だったのではないか。

    そう思うと、胸の奥が重くなった。

    僕は離れを出て、戸を閉めた。

    鍵をかけた。

    小さな音がした。

    それだけで、本当に何かが終わった気がした。


    その日の午後、僕は写真のデータを整理した。

    隣の島で撮った写真だった。

    海沿いの道。

    小さな商店。

    昼の光。

    斜面で風に揺れていたススキ。

    軒下にいた猫。

    フェリーの見える港。

    そして、未那の写真。

    写真は、人を残す。

    でも、残したものがその人の全部になるわけではない。

    柑橘ソーダの瓶を両手で包んでいた顔も、逆光の中で目元だけが影になった横顔も、遠くのフェリーを目で追っていた姿も、未那の一部だった。

    でも、それだけが未那ではなかった。

    離れの鍵を返した未那。

    自分が分からなくなりそうだと言った未那。

    安心しすぎると、また間違えると思うと言った未那。

    その未那は、写真には写っていない。

    写真は残す。

    でも、写らなかったものの方が、あとから重く残ることもある。

    僕は写真を選びながら、何度も手を止めた。

    送っていいのか、少し迷った。

    でも、約束はしていた。

    また、写真見せてください。

    未那はそう言った。

    それなら、送ることはできる。

    言葉ではなく、写真なら。

    そう思った。

    写真をまとめ、オンラインのアルバムにした。

    余計な言葉は添えないようにした。

    写真、まとめました
    リンク送ります

    それだけを送った。

    しばらく既読はつかなかった。

    僕はスマホを伏せた。

    待たないようにしようと思った。

    でも、待たないようにすること自体が、もう待っていることなのだと分かっていた。

    夕方になって、スマホが震えた。

    未那からだった。

    写真、見ました
    ありがとうございます
    私、あんな顔してたんですね

    そこで一度、文が切れていた。

    そのあとに、もう一文。

    すみません

    そして少し間を置くように、最後の言葉が続いていた。

    あと、今回のことは海の底に沈めておいてください

    僕はその文を何度も読んだ。

    海の底に沈めておいてください。

    言葉は静かだった。

    責める言葉ではなかった。

    拒絶の言葉でも、たぶん、なかった。

    でも、光の当たる場所には置けないものなのだと思った。

    誰かに話せる形にもできない。

    名前をつけることもできない。

    僕たちのあいだにあったものを、名前のないまま、深いところへ沈めておいてほしい。

    未那は、そう言っているのだと思った。

    分かった。

    分かったのに、痛かった。

    僕は返信欄を開いた。

    何度も打って、消した。

    ごめん。

    そう打って、消した。

    大丈夫。

    それも違った。

    忘れるよ。

    それは、もっと違った。

    忘れられるものではない。

    でも、覚えていると言えば、未那を苦しめる気がした。

    海の底に沈める。

    忘れるのではなく、見えない場所に置く。

    誰にも触れられない場所へ、静かに沈める。

    僕は短く返した。

    分かった

    それだけだった。

    送ったあと、スマホを伏せた。

    部屋の中は暗くなり始めていた。

    窓の外には、離れが見える。

    灯りはついていない。

    小さな建物は、庭の暗さの中に沈んでいた。

    海の底に沈めておいてください。

    その言葉だけが、夜の部屋に残った。

    名前のなかったものに、別の名前がついたのだと僕には思えた。

    秘密。

    海の底に沈めておく、秘密。



    次の章へ進む
    第10章 守りたかったもの

    前の章へ戻る
    第8章 名前のない朝

    プロローグへ戻る

    ※この物語はフィクションです。

     
     
    小さい頃、物語を読むのが好きでした 今回、初めて小説を書きました

    あなたへのおすすめ