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少しだけ光る 第8章 名前のない朝

    朝の光は、思っていたよりも明るかった。

    カーテンの隙間から差し込んだ光が、畳の上に細く伸びている。鳥の声が聞こえる。遠くで船の音がした。

    昨日の夜と、同じ家だとは思えなかった。

    夜は、いろんなものの輪郭を曖昧にする。

    言葉にできないこと。

    言ってはいけないこと。

    本当なのか、弱さなのか、分からない気持ち。

    夜は、そういうものを少しだけ隠してくれる。

    でも朝になると、全部が見える。

    畳の目。

    机の上に残ったグラス。

    流しに置いた水の入ったコップ。

    未那のスマホ。

    自分の呼吸。

    そして、隣で眠っている未那。

    未那はまだ眠っていた。

    横向きになって、僕とは少し距離を空けている。昨日の夜、僕の手を握り返した手は、今は顔の前に小さく置かれていた。

    その手を見ていると、胸の奥が痛くなった。

    嬉しいのか。

    怖いのか。

    申し訳ないのか。

    どれも少しずつあった。

    僕は静かに体を起こした。

    畳が小さく鳴った。

    未那は目を覚まさなかった。

    台所へ行って、水を飲んだ。

    喉が乾いていた。

    水を飲んでも、胸の奥に残っているものは流れなかった。

    昨日の夜、未那は言った。

    楽しかった。

    少し、ほっとした。

    優しくされると、どうしたらいいか分からなくなる。

    その言葉を思い出した。

    僕はどの言葉を、自分に都合よく受け取ったのだろう。

    ほっとしました。

    その一言に、勝手に意味を見つけようとしていなかったか。

    未那が手を引かなかったこと。

    僕の手を握り返したこと。

    離れようとしなかったこと。

    そのひとつひとつを、答えのように扱おうとしていなかったか。

    朝の光の中では、それを考えずにはいられなかった。

    昨日の夜、僕は自分から手を伸ばした。

    触れていい理由なんて、どこにもなかった。

    それでも、僕は未那の指先に触れた。

    未那は手を引かなかった。

    でも、それが未那の気持ちだったのか。

    その場で僕を拒まなかっただけなのか。

    弱さだったのか。

    酔いだったのか。

    それとも、どれでもなかったのか。

    その違いを、僕はちゃんと考えられていなかった。

    考えないまま、近づいた。

    近づいてしまった。

    しばらくして、畳の方で小さな音がした。

    未那が起きた。

    僕は台所に立ったまま、すぐには振り返れなかった。

    「……おはようございます」

    未那の声がした。

    いつもより少し低かった。

    「おはよう」

    僕は少し遅れて返した。

    未那は毛布を胸元に寄せるようにして、ゆっくり体を起こしていた。

    髪が乱れていて、顔色はあまりよくなかった。昨夜の酒が残っているのかもしれない。

    それでも未那は、いつものように表情を整えようとしていた。

    「水、飲む?」

    僕が聞くと、未那は頷いた。

    「いただきます」

    コップに水を入れて渡す。

    未那は両手で受け取り、少しずつ飲んだ。

    その動きが、いつもよりゆっくりだった。

    「大丈夫?」

    「はい」

    未那はすぐに答えた。

    それから、自分でもその返事が早すぎたと思ったのか、首を振った。

    「大丈夫では、ないかもしれません」

    その言葉に、僕は何も言えなかった。

    未那はコップを見つめていた。

    「すみません」

    「責めたいわけじゃない」

    僕は言った。

    謝らなくていい。

    そう言いかけて、やめた。

    昨日の夜も、その前にも、僕は何度も似たようなことを言ってきた。

    でも、未那は謝りたくなる人なのだと思った。

    謝らなくていいと言われるほど、余計に自分の形を失ってしまうこともあるのかもしれない。

    未那は小さく頷いた。

    「はい」

    沈黙が落ちた。

    外は明るい。

    明るいのに、部屋の中だけが夜の続きみたいだった。

    「昨日のこと」

    未那が言った。

    僕はその言葉だけで、息が詰まった。

    「うん」

    未那はコップを両手で持ったまま、視線を落としていた。

    「覚えています」

    僕は頷いた。

    「全部ではないかもしれないですけど」

    「うん」

    「でも、覚えています」

    「分かった」

    それ以上、何も言えなかった。

    「嫌だったわけじゃないです」

    未那が言った。

    その言葉は、慰めのようにも、言い訳のようにも、祈りのようにも聞こえた。

    「うん」

    「それは、本当です」

    「そっか」

    「でも」

    未那はそこで言葉を止めた。

    その先を、僕は少しだけ分かっている気がした。

    でも、聞きたくなかった。

    聞きたくないのに、聞かなければいけない気もした。

    「でも?」

    僕が聞くと、未那は苦しそうに笑った。

    「名前をつけるのが、怖いです」

    名前。

    その言葉が、部屋の真ん中に置かれた。

    好き。

    恋人。

    付き合う。

    関係。

    過ち。

    どの名前も、僕たちの昨日の夜にはうまく合わない気がした。

    合わないのに、名前がないままではいられない気もした。

    「名前をつけたら」

    未那は続けた。

    「そこから、ちゃんとしなきゃいけない気がして」

    僕は黙って聞いていた。

    「でも、ちゃんとできる自信がないです」

    「うん」

    「蒼介さんに、ちゃんと返せる自信もないです」

    返す。

    好きに対して、好きと返すこと。

    優しさに対して、優しさで返すこと。

    安心させてもらった分だけ、相手も安心させること。

    未那は、そこを怖がっているのかもしれない。

    そう思った。

    でも、それも僕の見方にすぎなかった。

    「返さなくていいよ」

    僕は言った。

    言ってから、その言葉が本当に正しいのか分からなくなった。

    返さなくていい。

    そう思いたかった。

    でも、まったく何も返してほしくなかったわけではない。

    そのことに気づいて、少し息が詰まった。

    「そう言われると」

    未那は小さく言った。

    「余計に返せなくなります」

    「そっか」

    「はい」

    未那はコップを置いた。

    「私、たぶん、優しくされるのが下手です」

    「うん」

    「優しくされたら、嬉しいのに、怖くなります」

    僕は黙って頷いた。

    「期待されている気がして」

    「うん」

    「ちゃんとしないといけない気がして」

    未那はそこで、少しだけ笑った。

    「結局、またちゃんとしないといけないんです」

    その笑い方が、苦しかった。

    僕は何か言いたかった。

    大丈夫だと言いたかった。

    未那はそのままでいいと言いたかった。

    何も返さなくていいと言いたかった。

    でも、そのどれも、すでに言ってしまった気がした。

    そして、言えば言うほど、未那を追い詰める気がした。

    だから、何も言えなかった。

    未那はゆっくり立ち上がった。

    「離れに戻ります」

    「うん」

    「少し、休みます」

    「ゆっくり」

    未那はバッグを持った。

    玄関に向かう途中で、立ち止まった。

    「蒼介さん」

    「なに」

    「昨日のこと、なかったことにしたいわけではないです」

    その言葉に、胸が締めつけられた。

    「うん」

    「でも、どういうことにしたらいいのか、まだ分からないです」

    「分かった」

    本当は、分かっていなかった。

    でも、そう答えるしかなかった。

    未那は小さく頭を下げた。

    「少しだけ、時間をください」

    「うん」

    「ありがとうございます」

    未那は靴を履いて、母屋を出ていった。

    庭の方へ歩いていく足音がした。

    離れの戸が開く音。

    閉まる音。

    そのあと、何も聞こえなくなった。

    僕は台所に立ったまま、動けなかった。

    昨日の夜、僕たちは近かった。

    近すぎるくらいだった。

    なのに朝になると、庭を挟んだ離れが、とても遠く感じた。


    その日、未那はほとんど離れから出てこなかった。

    昼頃に一度だけ、母屋の洗面所を使いに来た。

    「大丈夫?」

    僕が聞くと、未那は小さく頷いた。

    「少し寝ます」

    「うん」

    「昨日は、本当にすみません」

    「責めてない」

    「はい」

    未那はそれ以上何も言わず、離れへ戻った。

    僕は母屋で一人、昼食を作った。

    何を食べたのか、あまり覚えていない。

    午後、健太からメッセージが来た。

    今日、バー手伝えそうですか?
    無理なら大丈夫です

    僕はしばらく画面を見た。

    行った方がいいと思った。

    家にいても、離れの気配ばかり気にしてしまう。

    行けるで、夕方から行くわ

    そう返した。

    夕方、ゲストハウスへ向かった。

    白い壁には、まだ写真と言葉が並んでいた。

    写真展は終わったのに、そこに残っている。

    終わったのか、続いているのか分からないもの。

    未那が苦手だと言っていたもの。

    僕たちも、そうなっている気がした。

    健太はカウンターで仕込みをしていた。

    「お疲れさまです」

    「お疲れ」

    「顔、疲れてますね」

    「そう?」

    「はい」

    「寝不足」

    「展示終わってから、ちょっと気抜けたんじゃないですか」

    「そうかも」

    健太はそれ以上聞かなかった。

    それがありがたかった。

    バーの営業が始まると、旅行者が何組か入ってきた。

    僕は注文を取り、グラスを出し、皿を下げた。

    体を動かしていると、考えずに済む時間があった。

    でも、白い壁の前に誰かが立つたびに、未那のことを思い出した。

    ちゃんとしているふりを、少し休みたい。

    あの言葉の前で、未那は立ち止まっていた。

    今の未那は、休めているのだろうか。

    それとも、またちゃんとしようとしているのだろうか。

    分からなかった。

    夜、若い女性が一人で店に入ってきた。

    荷物は少なく、島に泊まっている旅行者らしかった。

    彼女はカウンターでビールを注文したあと、白い壁の前に立った。

    ゆっくり写真を見ていく。

    一枚ずつ。

    言葉を読むたびに、表情が少し変わった。

    僕はカウンターの中から、なんとなくその様子を見ていた。

    女性は、ある写真の前で止まった。

    夕焼けの浜の写真だった。

    その下には、旅人の言葉があった。

    ひとりでいることと、ひとりぼっちは、少し違う

    女性はその言葉をしばらく見ていた。

    そして、目元を指で押さえた。

    泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。

    健太もそれに気づいたのか、何も言わずにカウンターの奥へ下がった。

    僕は声をかけるべきか迷った。

    迷っているうちに、女性はこちらを振り返った。

    「すみません」

    小さな声だった。

    「大丈夫ですか」

    僕が聞くと、女性は少し笑った。

    「大丈夫です。なんか、勝手に泣いてしまって」

    「そういう時もありますよね」

    僕がそう言うと、女性はもう一度、壁の方を見た。

    「この言葉、誰が書いたんですか」

    「旅で来た方です」

    「そうなんですね」

    女性は頷いた。

    「なんか、今の自分みたいで」

    それ以上、彼女は話さなかった。

    僕も聞かなかった。

    ただ水を一杯出した。

    「よかったら」

    女性は少し驚いたあと、

    「ありがとうございます」

    と言った。

    目の前の旅人には、理由を聞かずに水を出せた。

    それなのに、未那に対しては、理由を知りたくなってしまう。

    そのことに気づいて、胸の奥が痛んだ。

    僕は、こういう場所を作りたかったのかもしれない。

    誰かが何かをうまく言えない時に、少しだけ立ち止まれる場所。

    泣いても、すぐに理由を説明しなくていい場所。

    大丈夫じゃなくても、大丈夫なふりをしなくていい場所。

    そういう場所を、作りたかった。

    それは写真館で働いていた頃から、たぶん同じだった。

    うまく撮ること以上に、来た時よりも少し楽しそうな顔で帰っていくこと。

    その変化を見ることが、僕には大事だったのかもしれない。

    けれど、その気持ちは本当にきれいなものだけだったのだろうか。

    安心できる場所を作りたい。

    その願いの中に、誰かに必要とされたい気持ちは混ざっていなかっただろうか。

    未那に対しても、そうだったのではないか。

    安心してほしかった。

    でも同時に、自分のそばで安心してほしかった。

    そう思ってしまったのではないか。

    そのことに気づいた時、胸の奥が少し冷えた。

    夜が終わり、店を閉めた。

    健太がグラスを片づけながら言った。

    「さっきの方、泣いてましたね」

    「そうやな」

    「でも、少し楽そうな顔で帰りました」

    「そう?」

    「はい」

    僕は白い壁を見た。

    夕焼けの浜。

    天の川。

    フェリー。

    旅人の言葉。

    そこに並べたものたちは、僕が思っていたよりも静かに、誰かに届いているのかもしれなかった。

    「蒼介さん」

    健太が言った。

    「この展示、残しておいてよかったですね」

    「うん」

    本当にそう思った。


    その帰り道、僕は港の方へ少し遠回りした。

    夜の海は静かだった。

    未那からの連絡は来ていなかった。

    僕からも送らなかった。

    スマホをポケットにしまい、しばらく海を見ていた。

    昨日の夜のこと。

    今朝の未那の顔。

    白い壁の前で泣いていた女性のこと。

    いろんなものが、ひとつにならないまま胸の中にあった。

    誰かを安心させたいと思うこと。

    誰かに必要とされたいと思うこと。

    その二つは、似ているようで違う。

    でも、僕の中では、どこかで少し混ざっていたのかもしれない。

    家に戻ると、離れの灯りはついていなかった。

    もう眠っているのかもしれない。

    僕は母屋に入り、静かに水を飲んだ。

    その時、スマホが震えた。

    未那からだった。

    今日はすみませんでした
    少しゆっくりしています

    それだけだった。

    僕は返信を打とうとして、手を止めた。

    大丈夫。

    気にしなくていい。

    謝らなくていい。

    どれも違う気がした。

    しばらく考えて、短く返した。

    ゆっくり休んでね

    送信したあと、スマホを伏せた。

    窓の外は暗かった。

    母屋と離れのあいだに、夜の庭がある。

    たった数メートルの距離なのに、その夜はとても遠かった。

    名前をつけられないまま、朝が来て、夜になった。

    それでも名前のないものは、消えるどころか、静かに重さを増していた。



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    第9章 海の底

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    第7章 夜の帰り道

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    ※この物語はフィクションです。

     
     
    小さい頃、物語を読むのが好きでした 今回、初めて小説を書きました

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