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境界の内側<44>食べなさい

    <43>ほしかったものは<45>煌めく街<1>はじまりの声

    ビーナスブリッジの駐車場に戻ってきた。
    車に乗り込む。

    彼は、ナビも入れずに車を発進させた。
    坂道を下るところまでは一本道だからよかったが、住宅街まで来ると、行きと違う向きにハンドルを切った。

    え、そっち?

    一方通行にぶつかって、
    「あれ?こっちじゃなかったか」と苦笑い。

    ナビの画面を見ながら
    「ここ行けば大丈夫かな」
    なんて呟きながら、交差点を抜けている。

    …違う。

    私なら、こんな走り方はしない。

    目の前で起こっていることも、仕事の仕方も、私とは、全く違う。

    …なのになんで好きなんだろう…
    と、思っているうちに、無事、彼のホテルの駐車場についた。

    車を降りて、繁華街へ向かう。

    日曜日の夜、もう21時近かった。

    看板の出ているお店を探して、ちょうど、良さそうな居酒屋さんに入った。
    個室に通される。
    今日は、テーブル越し。
    届かない距離。

    コートをたたむ。
    そういえば、公園が意外と寒くて、コートのボタン、全部閉じてたんだ。
    ホワイトリリー作戦は失敗におわったのか、と、悔やんだ。

    「私さん、生ビールでいいですよね」
    「はい。お願いします」

    「神戸牛のたたきとユッケだって。これいこう。後なんかある?」
    「この前、エンジニアさんと行った店で食べた、鴨のたたきが美味しかったんです。食べてみません?」
    「おぅ、いいね。それいこう。あと、明石のタコもあるよ。これもいいな」
    「食べられますか?」
    「食べるの早い人って言う人がいるから大丈夫っしょ」
    「…」

    また、そう言う。
    あれ、いつもの彼?

    すぐ、生ビールが運ばれた。

    「乾杯」

    「お疲れ様です。」

    泣いて疲れて、喉が渇いていた。

    ジョッキを両手で包むように持って、ぐいーっと飲み続ける。

    じっと彼が見てくる。

    彼の視線に気がづいて、思わずジョッキを口元から話した。

    「一度に飲み過ぎ」

    「いや、だって、喉乾いてたんだもん。文句いわないでください」

    「飲むのも早い、私さん」

    「ちょっと、言葉にも気をつけたほうがいいですよ。」

    ふっと、彼が笑う。
    やっぱり、ちょっと男っぽいというか、いつもと違う。

    最初の生ビールはあっという間に飲み干してしまった。
    次はどうしよう。

    あまり触手が動かない。こんな時は赤ワインか焼酎お湯割りだ。

    「焼酎お湯割りください」

    二杯目、なかなかこない。そのうち、神戸牛のたたきにユッケ、鴨のたたきが運ばれてきた。

    うーん、ワインとかのが早かったかな。どうせ飲むし、と、料理を運んでくれた人についでに赤ワインを頼む。

    赤ワインの方が先にやってきたが、すぐに焼酎のお湯割りも届いた。
    先に焼酎をぐいっと飲む。

    赤ワイングラスは、結露するほどよく冷えていた。
    冷たいままの赤ワインは渋くて飲めそうにない。
    両手でグラスを包む。結露で手が濡れる
    そのまま水滴のついた両手でワイングラスを包み込むと、その手を交互に、上下にさすりながら温めつづけた。

    静かな雰囲気に、顔をあげる。
    彼の視線に気づき、ひょいと首を傾げて彼の目を見た。

    少しだけ熱を帯びているような目の奥。逸らしたいのに、逸らせない。

    彼から顔ごと目を離して、ワイングラスをさすり続ける私と、それをじっと見ている彼。

    「…あのね」

    「なんですか?」
    もう一度首を傾げて、問い返す。

    「…その手ね」

    手?

    「ちょっとエロいんですけど。あと、首傾げるの、反則」

    あ…

    一瞬、手が止まる。

    でも、
    もう一度だけ、同じようにさすってしまった。

    自分がどうやっていたか確認するように。

    わかってしまって、冷たいまま、ぐいっと飲んでしまった。

    「私さん、食べなさい」

    彼が、私の方に、神戸牛タタキとユッケが乗った大皿を移動させる。
    「ほら、私さん、全然食べてない。食べなさい」
    「1切れ食べましたよ」
    「俺、もう半分以上食べたから残り食べなさい」
    「食べますってば」

    2切れ目の牛肉を口にする。

    もう、食べる気なんてなかった。
    だけど、彼から「食べなさい」と言われて、抗いたくない気持ちが湧き上がる。

    一気に全部食べ切って、また焼酎に手を伸ばした。

    「私さん、飲めるねぇ。」

    「えぇ。昭和で鍛えられましたから」

    フルーツ系のサワーを飲んでいる彼の顔は結構赤い。
    可愛い。

    いつものふにゃっとした柔らかい目線はなかった。

    代わりに、酔っ払っているのか、熱っぽい視線と、可愛いさ。

    それに、敬語じゃない時は、少し近い証拠。

    いつもとは違う雰囲気の彼に、改めてドキドキしてしまう。

    「飲めて、話せて、それでこんな現場にいて、若い時、すんげえもてたでしょう。若い時の写真ないの?」

    「モテてなんてないですよ。それに、若い頃って何ですか。でも確か、同期会で、入社3年目の写真を見せてもらったスクショがあったはず…」

    「え、あるの?見せてよ。見たい。」

    写真をスクロールして探す。あった。ケンちゃんも写ってる集合写真。
    しかし、これはちょっと彼に嫌われやしないか。
    化粧濃いし、アクセサリーじゃらじゃらだわ。

    私はスマホを顔の近くに持っていき、写真を見せた。

    「はい。入社3年目の私。どこにいるかわかる?」

    彼が身を乗り出した。

    「え?これ?私さん?」

    「違う人に見える?」

    「もっとよく見せてよ」

    その瞬間、スマホを奪われた。

    ⸻え?

    こんな距離で、触られるなんて思ってなかった。

    あっけに取られてるうちに、
    スマホの中の若い私にいろんなダメ出しをしてきた。

    「面影はあるけど、なんか強そうだよね。目力?ていうか、何、このすんげえまつ毛とか、真っ赤な唇とか…」

    「あの頃はこれが普通だったんですよ!もう、恥ずかしいから返して」

    やっぱり見せるんじゃなかった。恥ずかしい。

    スマホを返してくれたと同時にさっとカバンの中に隠した。

    「若い時の私さんって、強がってる感じあるよね。今の方が柔らかい…
    怒ってる時はコンニャロって思うけど、やっぱりなんていうか…まぁなんか今の方がいいよ。」

    …それ、あなたの気持ち?
    もう少し教えてよ。

    心の奥が少しざわついた。

    「そういえばさ、札幌ってずっと二重生活なの?」

    「案件次第みたいですけど、夏頃には行けるようにしたいです」

    「へえ。じゃぁ、俺、札幌出張の時は、私さんちいくから泊めてよ。」

    突然のことに一瞬、
    止まる。

    「え?本気ですか?」

    「うちの会社、ホテルじゃなくて誰かの家に泊まると手当出るんだ。
    3泊とかしたらかなり出る。
    ……いいな、それ。札幌行ったら、私亭に泊まって、仕事行こうっと。」

    身を乗り出すように私の目を見て言う彼。

    ……え?

    一瞬、息が止まる。

    さっきの夜景と、まだ起きていない夜が、勝手に脳内で再生されて、どうしても言葉を返せない。

    ダメですよ。彼さんは出禁です、って言わなきゃいけないのに。

    返さなきゃ……

    「じゃあ、札幌に来たら、おもてなしします。デートしましょう」

    やっとのことで、言葉を返したら、これだ…。

    「お、デートね。いいじゃん。デートって言葉、いいな…」

    ニコッとしながら、そんなことを言い、彼はぐいっとジョッキのサワーを飲みほした。

    じっと顔を見てくる彼。

    「なんですか?」
    「いや、別に。」

    焼酎のお湯割り、もう5杯は飲んだか。
    いつまでも、一緒にいたいけど、もう最後にしないと、、、0時近かった。

    私は両手で飲む癖があった。陶器製の大きいタンブラーに並々と6杯目の焼酎が注がれている。
    こぼさぬよう、両手で持ち上げて、そっと飲む。

    彼の視線は私の顔より少し下に落ちていた。

    …そこ?

    そうだとしたら…

    なのに、なんでなの…

    聞いたら終わりそうで、
    何も聞けなかった。

    ラストオーダーとなり、店を出た。

    とうとう最後だ。

    「私さん、送っていくよ」
    「大丈夫です。酔っ払ってないし。なんなら、私が彼さん送っていきますよ」

    「んなことさせるかー!ほら、いくよ」

    少し乱暴な言葉も、強引な素ぶりも。

    ⸻やっぱり大好き。

    彼との2人きりな時間が終わってしまう。

    …最後に、もう一度だけ。

    顔を上げて彼の目を見る。

    「彼さん、腕組んでいいですか?」

    「ん?いいよ。どうぞ」

    彼は私を見つめ返し、当たり前のように右腕を差し出してくれた。

    私は、自分の両腕を彼の腕に絡ませた。
    上半身も全て、彼の腕にぴったりくっつけた。

    …恋人同士に見えるかな。

    どんな感触ですか?あなたの右腕…

    酔っ払いだらけの明るい商店街。

    もう少し暗くても良いのに。

    腕に全身絡まってる私を、彼は気にしてない様子。

    ⸻肩を抱かれたい。もう一度抱きしめられたい。

    博多で行った「雲と晴れ」の思い出が蘇って切なくなる。

    彼にぶら下がったまましばらく歩いているうちに、明るい商店街は終わり、ホテルのある交差点についた。

    最後だ。

    信号が青になる。
    明るい商店街を抜けると、ホテルのエントランスだけが、別世界みたいに静かだった。
    壁いっぱいに並ぶガラスのスクエアが、海の底のような淡い光を放っている
    人も音も遠ざかり、私たちだけが、その光の中に取り残されたようだった。

    離れたくない……でも。

    彼を見上げる。
    目が合った。
    優しい顔…
    やっぱり好⸻…
    …

    気がつけば、
    抱き寄せられていた。

    どうして。

    さっき、終わったはず。

    でも。

    これで最後にするから…

    私は彼の身体に腕を回して、自分の体を全部押し付けて抱きしめ返した。

    せめて、衣服の上からでも彼の体を感じて、刻むように覚えておきたい。
    彼にも、私の体を覚えていて欲しい。

    お互い、無言で抱きしめあった。

    「おやすみなさい」

    私がそう言い終えると、彼の体が私から離れた。

    私は振り返らずに真っ直ぐホテルの中へ入った。

    エレベータをあがり、部屋に入る。

    灯りがつくと同時に目に入ってきたのは、
    綺麗に整ったクイーンのベッド。

    ……

    彼、来なかった。

    ……

    ごめん。

    コートを着たままベッドに乱暴にダイビングした後、仰向けになった。

    顔にかかった髪の毛はそのまま、天井を見つめた。

    涙は出なかった。

    頑張ったよ。全部、全部、言いたかったこと、言ったよ。

    この時は、少なくとも、好きと言えた達成感があった。

    明日は、このまま札幌に行く。切り替えられるはずだった。

    ⸻でも。
    結局、それで終われなかった。

    残ってしまった彼の感触が、また、私を壊し始めることになる。

     
     
    創作大賞2026 恋愛小説部門 応募作品 全51話『境界の内側』 技術職として働き続け、母として子育ても一段落し、 少しだけ人生を自分に戻そうとした時の突然の出会い。 いまさら、どうしてこうなるんだろう。 経験した感情をもとに書き上げた恋愛小説。

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