
境界の内側<1> はじまりの声
<あらすじ>
長年勤めた産業メーカーで、管理職として働いてきた私。
子どもの独立を機に、もう一度、国内外の現場を飛び回る広域事業部へ戻ることを選んだ。
空港、ホテル、工場、作業着。
若い頃みたいに、泥臭く仕事に没頭したかった。
そんな中で出会ったのは、
「大丈夫ですよ」と笑いながら、
私の常識も計画も軽々と飛び越えていく一人の男だった。
反発する。
理解できない。
なのに、惹かれていく。
仕事では決して崩れなかったはずの理性が、
触れられた温度ひとつで、
静かに壊れていく。
東京、札幌、博多、神戸、苫小牧――
日本各地の現場を舞台に、
責任、キャリア、結婚、そして、
どうにもならない感情の狭間で揺れた、
大人たちの再生と崩壊の物語。
※本作は実話をもとにしたフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※一部、大人向けの表現を含みます。
4月、2年越しで、志願した広域事業部への異動が叶った。
昔、いた場所に戻れると思うと、
ワクワクが止まらなかった。
長らく、子育てとの両立のため、都内限定で仕事ができる部署にいた。
管理職としての経験も積ませてもらった。
評価も、それなりにもらった。
でも、この先の景色は、なんとなく見えてしまっていた。
だったら⸻
あの頃、仲間たちとがむしゃらに走っていた場所へ、もう一度戻ろうと思った。
泥臭く、無我夢中で戦いに没頭できる場所へ。
子供が大学生になった時、今しかないと思って希望を出した。
上層部の一部からは、今更大丈夫?という声も出ていた。
家庭を持つ女性が外へ出ていくことに対する、古い価値観も、どこかに混ざっていたのかもしれない。
最初にアサインされたのは、とあるメーカーの全国拠点整備案件だった。うちの会社の設備を、既存の古い設備から入れ替える。
場所は、博多、苫小牧、神戸⸻
久しぶりに飛び回れる、と思った。
規模としては、広域事業部の案件としては標準的なものだった。
ただ、地方ごとの条例や慣習への適応には不安があった。
そんな中、その案件にいたのが彼だった。
私の会社と同じホールディングスである、別のグループ企業に所属する管理職とのこと。
「前からいるし、地方の事情にかなり詳しいから、とりあえず、現場は彼に任せておけば良いよ。でも飛び回っていて、滅多に捕まえられないから気をつけてね」
と前任の担当に言われた。
なるほど、実質は丸投げ、か。
頭の中でイメージが湧いてくる。
定年間近のちょっと偉そうな人…
丸投げされるのを逆手に取ってる感じ…
後日、前任者からの引き継ぎも兼ねて、彼を含めた関係者のミーティングが開催された。
会議はTeamsのWebで開催されたが、誰も顔を表示しなかった。
今までの取り組み、各関係者からの伝達情報が続く。
その後、彼の説明が始まった。
事前にやっておいて欲しいこと。
再調査の方法。
自治体への説明に関する注意点など。
初めて聞く、その彼の話ぶり。
優しい、
というより、優しすぎる。
まるで子どもに説明しているみたい。
なんだか、私、試されている?
どういう人なんだろう。
それよりも、この、心の奥をさわるような声…
⸻もっと、聞いていたい。
なんだかんだ、やることは満載だった。
それぞれの拠点の事情に合わせた展開のため、
これから顧客先に何度も出向いていかなければならない。
やってみてわからないこともあるけど、恥をかくことには、もう慣れっこだ。
聞いてしまえ。
そう思いながら彼の馬鹿丁寧な説明を聞き終えた。
早速、クラウドに散乱しているそれぞれの資料を確認する。彼の資料も全て残っていた。早速開いてみる。
目を引いたのは、彼の会社への仕事の丸投げぶりだった。
これ、原案、うちが作ってない…
元請けが作るべき資料、彼が全部作ってるってこと?
それに、ちょっとこれは…
前の事業部では、誰がやっても同じ品質を心がけていたのに、
見たことのない、中間色だらけの資料が並ぶ。
一瞬、思考が止まる。
しかし、私は後から来た人間だ。いきなり文句は言えない。
指摘するなら、まずは関係構築だ。信頼を得てから文句を言おう。
月末には早速、博多への訪問調査がある。
その時、きちんと話してみようと思った。
仕事が終わり、電車で40分程度揺られて、自宅がある駅に戻る。
駅前のスーパーで買い物をして、自宅マンションへ。
夫がもう帰っていた。
少し年上の夫は、いわゆる役職定年後、ほとんど私よりも早く帰宅している。
でも、何するわけでもなく、ずっとテレビ見てたりパソコンやってたり。
言葉もあまり交わさず、台所にこもり、買ってきた野菜やら魚やらを小分けにして冷蔵庫へ。
大学4年生の息子は毎日バイトだサークルだと、帰ってこない。
息子はもう、それでいいと思っている。ちょっと苦労した高校時代から比較したら、今の方がずっと健全でいい。
家庭を季節に例えれば、もう秋なのかな⸻
いや、そういうことなら、息子が生まれたあたりからもう秋風が吹いてたか…
冷蔵庫から、缶ビールと漬けものきゅうり、漬け込んでおいた鶏肉を出して、コンロの前で飲みながら焼き鳥の番をする。
ちょうどいい頃合いの焼き鳥ときゅうりで、缶ビールが進む。
仕事が終わって、出来たての料理を頬張りながら飲むビール。
やめられない。
これを、私は健全なキッチンドリンカー、と、定義している。
結構な量を焼いた。大皿に盛り付けてラップをかけておく。
週末には、いつも、煮物とか和え物を作るようにしている。
こうして、作っておいたものを、各自、好きな時間に食べてもらう。
家族で食卓を囲む、なんてことも、もう、しばらくなかった。
ピコン、ピコン、と会社の携帯でチャットの通知が鳴っている。
携帯を確認する。
担当営業のMさんから、4月下旬の出張調査が確定したとのこと。
カレンダーに、「母 出張」と、青いマジックで線を引いた。
いよいよ始まる。新しい仕事、やってやろうじゃない。
カレンダーを見つめながら、マジックを持つ手に力が入った。
新しい人達。
知らなかった価値観。
そして、出会い。
⸻初めて聞いた、
あの低くて柔らかい声。
その声は、
凍っていたはずの私の内側を、静かに溶かし始めていた。
そしてまだ私は、その声が、どこまで私を壊していくのか、
知らなかった。