
境界の内側<50>触愛悦溺
「あのね…私さん、ちょっと、ダメだよ…」
私は、彼を押し倒して、彼のがっしりした腰を跨ぐようにして乗り上げた。
「……私、あなたにくっつきたいの」
そう言って、私は彼の胸に顔を寄せた。
⸻
はっと我にかえる。
目の前は、シマエナガの小さいぬいぐるみと、ディスプレイ。
窓の外を見やると、いつものポプラの大木。
ちょうど綿毛シーズンで、窓からフワフワとポプラの綿毛が飛ぶのが見えた。
思わず、深くため息をついた。
また、やってしまった…
仕事なら、足りない条件を洗い出して、課題にして、次の手を打てる。
でも、彼のことだけは違った。
何を確認しても、どれだけ考えても、答えには辿り着けない。
それどころか、思い出すほど、
身体だけが、あの夜の続きを欲しがった。
寒空の下、彼に肩を抱き寄せられ、そして、抱きしめてもらった。
その日から、止まっていたはずの、女としての私が動き出してしまった。
彼に抱かれたい。
一人の女性として、愛されたいと、思うようになった。
身体の記憶だけじゃない。心の記憶も。
「所帯持ちだから」
「でも私さんのことは可愛いと思ってる」
「私さん、ずるいよ」
「札幌言ったら泊まらせてよ」
「デート、いい言葉だな」
頭の中でリフレインする。
どうして、肩を抱き寄せてくれたの?
どうして、ハグしてくれたの?
どうして、「やっぱりやめよう」だったの?
私の聞きたかったことは何一つ教えてくれなかった。
私がして欲しかったことも、してくれなかった。
告白の夜、うまくいっていたら、そのまま抱いてほしかった。
ただの衝動じゃない。ちゃんと、その先の時間まで、思い描いていた。
あの土地で、2度の出張で、夢のような1週間になると思っていた。
幕引きも決めていた。覚悟はできていた。
だから、怖くなかった。
むしろ、安心して、溺れられると思っていた。
でも、それは、起きなかった。
だから今も、
身体だけが、
納得していない。
あの夜から、私の身体だけが未完了のまま、
彼のもとに取り残されていた。
最後の最後は彼に委ねた。
もし、彼がその手を伸ばしてくれたなら、
私は、私のすべてを使って、彼をこの世で一番の悦びに溺れさせたのに。
彼の『軸』を溶かしてしまうくらいに。
答えがもらえなかった私の脳内では、今も彼が主語の物語が始まらないまま、私の「愛したい、悦ばせたい」という衝動だけが、行き場を失って、切なく狂い続けている。
そう。
彼に欲しがってもらえなければ。
彼が、その手を伸ばしてくれなければ。
⸻この身体は、あの夜の続きに辿り着けないのだと、どこかで信じ込んでいた。
順調に進む仕事とは裏腹に、私の中では、終わったはずの物語だけが終われなかった。
抱きしめられた感触も。
耳に残った声も。
そして、叶わなかった、その先も。
私自身、どうすることもできないまま、季節だけが進んでいった。
⸻最終話へ