
境界の内側<49>軸
息子が大学に合格した時、私はストレートヘアに戻し、ピアスを開けた。自分を取り戻せた気がした。
数年にわたる不登校の間、私は仕事と息子の両方を背負っていた。
その間、夫は空気だった。
まだ少し影がさす時もあるが、息子は新しい友達、先生、そして、新しい目標に向かって、毎日を謳歌するようになった。
私は、自分が使える時間が増えてきた。
管理職は楽しかった。
でも私は、もう一度現場に戻りたかった。
そこで彼に出会った。
無意識の一目惚れだった。
ぶつかって、怒って、頼って。
気づけば、嫌いになるどころか、彼に惹かれていた。
どうしてそこまで好きになってしまったのか。
プロジェクトが終わってしばらくしてから、東北地方へ一人旅に出た。
日本海に面した断崖絶壁の海岸線のドライブ。
対向車もまばらな、いつまでも続く眺めの良い道を、頭を空っぽにして気ままに走り抜けた。
温泉宿で、180度日本海が見える露天風呂に浸かり、海に沈みゆく夕陽に心を震わせた。
食べきれないほどの海鮮料理と、地酒の刈穂で胃袋をもてなした。
部屋のベランダに出ると、少し冷たい波風の中、無数の星が見えた。
頬をなぞる風、聞こえるのは静かな波の音。
夜空を見上げながら、考えを巡らせる。
今まで、私は自分の正しさを証明しながら周りを納得させ、従わせていた。
そうよ。私のやり方は正しくて結果も出ていた。
彼はどうだろうか。
……正しさって、彼だって、自分の正しさを仕事で見せていたよね?…
衝突するのは、お互い正しいからこそ起こるものじゃない……
あ……
頭の中で何かが響いた。
彼には彼の正解があった。
自分で決めて、
自分で背負って、
自分でやり切る。
その軸は、揺れていなかった。
私と同じだ。
でも私と全然違う。
私は彼をコントロールできなかったどころか、最終的には彼を頼った。
そうか……
……私、初めて私よりも強い軸を持った人に出会ったんだ。
良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとかじゃない。
初めてこんな強い人に出会って、
そして、彼の持つ意思と価値観に、自分が正しいと思っていた世界まるごと揺らされたんだ。
今まで支える側、背負う側だった私が、彼には支えてもらって背負ってもらった。
ふいに涙がこぼれる。
…あぁ、結局、私、ずっと、彼の世界に居させてもらってた。だから安心できてたんだ。
なのに、私の正しさを押し付けてしまって。
そんな簡単なことに、何故気づかなかったのか。
ううん。違う。本当は、ずっと前から気づいていたはず。
わかっていたはず。
彼を嫌いになれなかったこともきっと。
でも、彼はきっと、そんなこと思ってやっていないに違いない。
いつものようにふにゃっと笑ってやっているだけ。
だからこそ、そこに、私は「反応」してしまったんだ。
やっと繋がった。
涙が溢れて止まらなくなる。
そうよ。だって、私、告白した時、「ずっと心の支えだった」って言ってたじゃない。
私、彼と彼の世界丸ごと好きになってたんだ。
そりゃぁ、嫌いになれないわよ。
どうして今だったのか。
どうして彼だったのか。
どうしても外れなかった知恵の輪が外れたようで、泣きながら思わずクスっとなった。
それに、今まで頼ってもいい、もたれかかってもいい人なんて、周りにいなかったもの。
私さんにしてみれば、衝撃だったわよね…。
涙を拭くためにベランダから部屋に入った。
これが、答えか。
今まで知りたかったことが、ようやくわかった。
なら、先に進める。
そう思った。
カーテンを開けたままベッドに入り、電気を消した。
ベッドから黒い海をぼんやり眺めた。
彼をそこまで好きだったんだから、しばらく思いに浸って生きていこう。それで良いじゃない。
おやすみ…私。
そう。
頭では終わっていた。終わらせていたつもりだった。
でも、身体は、まだ彼を探していた。抱きしめられた感触と耳に残っている声が、私の身体から離れなかった。
好きな人に、抱かれたい、
その望みはもう、叶わない。
旅から戻っても、身体だけは彼を手放そうとしなかった。
やがて私は仕事が佳境に入り、月の半分以上を札幌で過ごすようになった。
ケンちゃんはじめ、札幌のメンバーが一丸となって商談に向き合った。
その後、正式に辞令が降りた。
札幌の生活は、彼を待つ時間になるのか。
私を取り戻すためになるのか。
まだ、わからない。
ただ、次の街が、人たちが、待っていた。