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境界の内側<49>軸

    <48>身体 <50>触愛悦溺 <1>はじまりの声

    息子が大学に合格した時、私はストレートヘアに戻し、ピアスを開けた。自分を取り戻せた気がした。

    数年にわたる不登校の間、私は仕事と息子の両方を背負っていた。
    その間、夫は空気だった。

    まだ少し影がさす時もあるが、息子は新しい友達、先生、そして、新しい目標に向かって、毎日を謳歌するようになった。

    私は、自分が使える時間が増えてきた。

    管理職は楽しかった。
    でも私は、もう一度現場に戻りたかった。

    そこで彼に出会った。

    無意識の一目惚れだった。
    ぶつかって、怒って、頼って。
    気づけば、嫌いになるどころか、彼に惹かれていた。

    どうしてそこまで好きになってしまったのか。

    プロジェクトが終わってしばらくしてから、東北地方へ一人旅に出た。

    日本海に面した断崖絶壁の海岸線のドライブ。

    対向車もまばらな、いつまでも続く眺めの良い道を、頭を空っぽにして気ままに走り抜けた。

    温泉宿で、180度日本海が見える露天風呂に浸かり、海に沈みゆく夕陽に心を震わせた。

    食べきれないほどの海鮮料理と、地酒の刈穂で胃袋をもてなした。

    部屋のベランダに出ると、少し冷たい波風の中、無数の星が見えた。

    頬をなぞる風、聞こえるのは静かな波の音。

    夜空を見上げながら、考えを巡らせる。

    今まで、私は自分の正しさを証明しながら周りを納得させ、従わせていた。
    そうよ。私のやり方は正しくて結果も出ていた。

    彼はどうだろうか。

    ……正しさって、彼だって、自分の正しさを仕事で見せていたよね?…

    衝突するのは、お互い正しいからこそ起こるものじゃない……
    あ……

    頭の中で何かが響いた。

    彼には彼の正解があった。

    自分で決めて、
    自分で背負って、
    自分でやり切る。

    その軸は、揺れていなかった。

    私と同じだ。

    でも私と全然違う。

    私は彼をコントロールできなかったどころか、最終的には彼を頼った。

    そうか……

    ……私、初めて私よりも強い軸を持った人に出会ったんだ。

    良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとかじゃない。

    初めてこんな強い人に出会って、
    そして、彼の持つ意思と価値観に、自分が正しいと思っていた世界まるごと揺らされたんだ。

    今まで支える側、背負う側だった私が、彼には支えてもらって背負ってもらった。

    ふいに涙がこぼれる。

    …あぁ、結局、私、ずっと、彼の世界に居させてもらってた。だから安心できてたんだ。
    なのに、私の正しさを押し付けてしまって。

    そんな簡単なことに、何故気づかなかったのか。

    ううん。違う。本当は、ずっと前から気づいていたはず。
    わかっていたはず。
    彼を嫌いになれなかったこともきっと。

    でも、彼はきっと、そんなこと思ってやっていないに違いない。
    いつものようにふにゃっと笑ってやっているだけ。

    だからこそ、そこに、私は「反応」してしまったんだ。

    やっと繋がった。

    涙が溢れて止まらなくなる。

    そうよ。だって、私、告白した時、「ずっと心の支えだった」って言ってたじゃない。

    私、彼と彼の世界丸ごと好きになってたんだ。
    そりゃぁ、嫌いになれないわよ。

    どうして今だったのか。
    どうして彼だったのか。

    どうしても外れなかった知恵の輪が外れたようで、泣きながら思わずクスっとなった。 

    それに、今まで頼ってもいい、もたれかかってもいい人なんて、周りにいなかったもの。
    私さんにしてみれば、衝撃だったわよね…。

    涙を拭くためにベランダから部屋に入った。

    これが、答えか。

    今まで知りたかったことが、ようやくわかった。

    なら、先に進める。

    そう思った。

    カーテンを開けたままベッドに入り、電気を消した。
    ベッドから黒い海をぼんやり眺めた。

    彼をそこまで好きだったんだから、しばらく思いに浸って生きていこう。それで良いじゃない。
    おやすみ…私。

    そう。
    頭では終わっていた。終わらせていたつもりだった。

    でも、身体は、まだ彼を探していた。抱きしめられた感触と耳に残っている声が、私の身体から離れなかった。

    好きな人に、抱かれたい、
    その望みはもう、叶わない。

    旅から戻っても、身体だけは彼を手放そうとしなかった。

    やがて私は仕事が佳境に入り、月の半分以上を札幌で過ごすようになった。
    ケンちゃんはじめ、札幌のメンバーが一丸となって商談に向き合った。

    その後、正式に辞令が降りた。

    札幌の生活は、彼を待つ時間になるのか。
    私を取り戻すためになるのか。

    まだ、わからない。

    ただ、次の街が、人たちが、待っていた。


     
     
    創作大賞2026 恋愛小説部門 応募作品 全51話『境界の内側』 技術職として働き続け、母として子育ても一段落し、 少しだけ人生を自分に戻そうとした時の突然の出会い。 いまさら、どうしてこうなるんだろう。 経験した感情をもとに書き上げた恋愛小説。

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