
境界の内側<51>最終話「境界の内側」
季節が過ぎた。
私は、正式に札幌へ転勤となった。
時期が悪かったのか、なかなか物件がないなかで、偶然、空いた一室。
札幌駅から歩いて行ける、タワーマンションの高層階だった。
南西に大きくひらけた窓の先には、テレビ塔と藻岩山。
ベランダに出ると、少し怖くなるくらいの高さがある。
車の音が、意外なくらいよく響いて聞こえた。
人の営みと、自然。
この街の、その両方が見える感じがたまらなかった。
引越して、およそ一か月。
家の中はまだ最低限のものしかない。
でも、寝室だけはこだわった。
念願のダブルベッドを買い、選びに選んだベッドリネンを掛けた。
白いサテン織に、グレージュのラインが入ったデュベカバーとピローカバー。
たまに整える時は、深紅のベッドスローとクッションを添える。
リビングには、ヨギボーマックスがある。
これは、少し想定外だった。
引越しの日、ベッドが届かなくて、札幌駅のすぐそばにある店で慌てて買ったものだ。
その夜はベッド代わりに寝て、今はソファ代わりとなっている。
つい先日、息子が泊まりに来たので、ヨギボーで寝てもらった。
「寝られるけど、寝られなかった」
私と同じ言い方をしていて、二人で笑ってしまった。
誰かが泊まりに来たら、ごめん、これで寝て、と言うしかないかな。
⸻誰か、か。
「札幌行ったら泊まらせてよ」
嘘ばっかり。
調子の良いことを言って。
泊まる気なんて、なかったわよね。
彼の本心は、きっと永遠に謎だ。
毎日、充実しているように見える生活。
その裏側で、私は、彼を待つような部屋を作ることを、止められなかった。
そうしているうちに、夏が過ぎた。
札幌に、雪の季節が近づいてきた。
⸻
あのあと私は、抱きしめられることを思い出した。
誰かに寄りかかることも。
欲しいと言うことも。
身体を預けて、力を抜くことも。
彼にしてほしかったことは、
彼からしか受け取れないものだと思っていた。
でも、それを叶えられなかったからといって、
彼を好きだった私まで、未完了になるわけではなかった。
丁寧に触れられた。
丁寧に包まれた。
その余韻が、身体の奥に残っていた何かを、少しずつ溶かしていった。
不思議だった。
彼を忘れたわけではないし、会いたくなくなったわけでもない。
それでも、彼を思っても、今までみたいに胸の奥が引き裂かれることはなかった。
⸻そして。
私は、今でも彼を好きなままでいられている。
寝室で横になる時、今までの私なら、このベッドに彼が来るところばかりを想像していた。
彼が手を伸ばしてくれることだけを待っていた。
でも、気がつけば、彼が好きなことと、私がここで生きていくことが、同じ痛みではなくなっていた。
繰り返していた「どうして?」「なぜ?」も、いつの間にか遠のいていった。
こんなふうに、彼を好きでいられるだけの日が来るなんて思わなかった。
あなたはね、本当にカッコよかった。
一目見て、がっしりした体格、その目、優しい笑顔、柔らかい話し方に惹かれた。
数少ない、一緒にいられる地方での時間。
すぐ恋に落ちていた私は、事あるごとに彼を見ていた。
髭、いつも伸ばしてるよね。伸ばしてるの?
揃えてるような、揃えていないような。
腰回り、色っぽいな。
最高だな。
あちこち白髪混じりで、ずっと頑張ってきたことが、わかる。
何度でも言いたい。
彼が、やっぱり、大好き。
季節が過ぎて。身体の奥で叫び続けていたものが、少しずつ静まって、
ようやく、わかった。
私は彼に、手を差し出してほしかった。
でも、彼は、越えてこなかった。
そして私もまた、彼がこちらへ来る意思を見せないまま、
境界を越えることは、自分に許せなかった。
抱かれたかった。
抱きしめてほしかった。
それでも、私だけが越えてしまうことは、
あの時の私には、できなかった。
ふたりとも、境界の内側に立ったまま、
相手が先に越えてくるのを待っていた。
今日も、彼を待っているようなベッドで、私は眠る。
でも、そのベッドはもう、私の心を狂おしくさせることはない。
彼が好き。
それだけでいい、と、今は心から思える。
きっといつか、この想いも凪になる。
この歳になって、
仕事も、恋も、
ここまで自分を揺さぶるものがあるなんて思わなかった。
人生で二度目の、燃えるような恋をした。
そして、札幌で、若い頃の熱量を思い出した。
数年前の私には、
こんなことになるなんて、想像もできなかった。
初めて彼と話した時。
私は、彼に試されているのかと思った。
そうじゃなかった。
実は、私の人生まるごと、試されていた。
ここは、試される大地。
会社員として。
女性として。
私は、人生を再起動した。
試されようじゃないか。
これからも。